2001/7/21



尊王思想の研究7―易姓革命


日本における儒学の歴史とは、「誤読の歴史」であるとも言われます。日本人が外来の思想を取り入れる場合、実は外来の思想を引用しながら終始日本人固有の思想述べているだけであることに気づかされます。幕末の志士を揺り動かし、明治国家の進路を誤らせた尊王思想は、朱子学の奇形的な発展です。その尊王思想はどのようにして生まれたのでしょうか?


「尊王思想の研究5―華夷変態」において、周辺民族(主に日本と朝鮮)が、それなり儒教を受容できた段階で起きた、本家中国の易姓革命を説明いたしました。「論語」と「孟子」あるいは朱子学を見るに、易姓革命は儒教最大のアキレス腱であると言えます。


●孔子と湯武放伐

孔子は、周王朝の封建制を理想的な制度として、その世界に戻ることを説きました。周の封建制とは、王(姫姓)がいて、その下に姫姓の一族と功臣が地方に領地をもらって諸侯として封じられ、その下に諸侯の一族の士・大夫が家臣として従います。そして士・大夫は自らの一族の長である諸侯に仕え、諸侯は王に仕え、そして王が天に仕えます。そして「礼」の秩序によって人々の間の関係を律します。


孔子や孟子が生きた、春秋戦国時代というのは、鉄器の普及により農業生産が発展した時代で、商工業が発展し、農村共同体が分解し、社会秩序が混乱しました。孔子はこれを復古的に回復させようとしました。


孔子が崇拝したのが、周の封建制度と礼楽の秩序を建設したとされる周公旦でした。周公旦は魯に封じられました、孔子の生地です。しかしその魯も、孔子が生まれた頃には、重臣の季氏の専横が目に余り始めていました。「論語」の随所に、孔子の季氏に対する強い非難を見ることが出来ます。


しかし、ここに矛盾が起きます。周王朝というのは、もとは西伯という、殷王朝の諸侯の一つに過ぎませんでした。実際は、定住化した遊牧民が名目的に殷王朝に従っていたに過ぎないのでしょうが、中華の王は一人というのが名目ですから、西伯は殷の家臣ということになります。西伯は紀元前11世紀頃、文王のときに殷から独立し、武王のときに諸侯を糾合し、牧野の戦いで、殷の紂王を破って殷を滅ぼして王となりました。これは全く下克上です。


封建制を作った周自体が、下克上によって王となったわけであり、ここに儒教は矛盾を抱えています。紂王は余りに暴虐であったということになっていますが、これはこの矛盾を誤魔化すための嘘でしょう。孔子は、現実的な人でしたから、このような理論的なことにはあまりこだわりませんでした。それでも、「紂王は暴虐であったのだから既に天子ではなくただの匹夫である、武王は匹夫の紂を討ち滅ぼしただけである」と述べています。


●孟子と易姓革命論

孟子は、多分に理論的思考に走る人間でありました。私が「孟子」を読んだ感想は、孟子は自分の理論を実行するようにも、学者の見本的姿を通した人間として、自分が歴史に残ることを意識して、芝居がかった人生を生きたように見うけられました。その孟子にとって、湯武放伐論は最大のテーマでした。


孟子が説くに、「中華の王は天が選ぶ、しかし天が(著者注:ユダヤ教のGODの様に預言者を通して意思を伝えたりするように)直接何らかの方法でそれを伝えるわけではない。誰かが王となる、それに対して百姓(民衆)がそれを受け入れて、政治がうまくいき、自然現象が順調に回る。これが王が天によって選ばれたことの証明となる。」「徳を失った王は、既に資格を失っている。その王は湯武が桀紂を放伐したように打倒して良い。」これが易姓革命論です。


徳を失った王朝は革命によって滅びて、異姓に王位が移ります。その方法は武力による放伐と前王朝から平和裏に王位が譲られる禅譲があります。禅譲は、南朝や五代の王朝交代に多いです。しかし、実際は強力な家臣が主君から無理矢理政権を奪うというのが実体でした。ほとんど放伐と一緒といえます。明が元を滅ぼしたのは放伐と言って良いと思います。


易姓革命論は、放伐によって成立した王朝にとって都合がいいこともあって、中国に広く受け入れられました。前王朝が天命を失って、それを打ち倒したのだから、新しい王朝を立てることは恥づかしいことではないのです。また新しく成立した王朝は、前王朝が天命を失ったことを証明することが必要になります。そのため、前王朝の歴史を編纂するのは、新しい王朝の重要な仕事となりました。


●朱子学における正閏論と大義名分論の問題点

しかし、12世紀に転機が訪れました。中原が女真族の金王朝に奪われてしまったのです。誇り高き漢民族としては、金を正式な王朝と認めたくありません。宋代に新たなる発展を遂げた儒教である宋学は、朱熹(朱子)によって大成されますが(そのため朱子学とも呼ばれる)、宋学は、南北朝時代や五代十国のように王朝が並立した時に、どの王朝を正統とするかを決定する「正閏論」と、専制君主のもとで臣下がが守るべき本分の「大義名分論」に大変こだわりました。それもそのはず、意地でも金王朝を否定しなければならなかったからです。宋は異民族に戦争で負け続け、屈辱的な条件の同盟で命運を保ちつづけました。自尊心が侵害されたため、思考の世界で補償するためにエキセントリックになってしまったのでした。


この正閏論と易姓革命論は背反します。易姓革命が成立しても、正閏論によって正統と認められなければ、大義名分論の説く臣下としての本分を守らなければならなくなります。要するに「正統でない王を否定して、死んででも正統に殉ぜよ」ということになってしまいます。しかも、ここにいう正統な王朝が復活する可能性はたいがいゼロに近いですから、日本人の感覚では(おそらく中国人一般の感覚でも)これは「犬死」にほかなりません。朱子学の立場は、「易姓革命の結果成立した王朝も良いが、それを認めないで正統に殉じた忠臣は大変立派である、後世に臣下として守るべき道を示した。」ということになります。


これは欺瞞のような気がします。元が南朝を滅ぼしたときと、王であった永楽帝が甥の建文帝を滅ぼして皇帝に就いたとき、清が民を滅ぼしたときに大義名分を守って絶望的な抵抗をした人達が現れます。どうも私はこの人達の悲惨な運命にやりきれなさを感じます。このやりきれなさは、「旧約聖書」の「ヨブ記」を思わせます。


●万世一系は意図的な誤読

近世初期の日本の儒学者が、日本の歴史を見まわして、天皇には常に同じ姓が(皇族)漬いて来たことに気づきました(これは本当は「百王一姓」といいます)。


儒学にとって大切なのは、同じ王朝が続くことではなく、徳を持った人物が王となることです。いくら正統なる王朝が綿々と続いたとして、徳を持たない正統が続くことには全く意味がありません。例え元朝や清朝のような異民族が皇帝になったとしても、その皇帝が正しい政治をしさえすれば、儒教はその皇帝を評価します。正統な王朝を決めることは確かに儒教において大事なことなのですが、儒教においてもっと大事なのは今現在において徳のある政治をすることです。しかし、絶えず中華文明に劣等感を持ちつづけてきた日本人は、華夷変態に立ち会って、それを吹き飛ばす機会に恵まれました。


同じ姓が天皇であり続けたことを、正統な王朝が続いたことに読み替えました。そして中国は今や、「獣類の国」となったわけであるから、日本こそが正統が王でありつづけた「真の中国」である、と山崎闇斎、山鹿素行、林羅山、などが主張しました。


●浅見絅斎

山崎闇斎の高弟である佐藤直方と浅見絅斎はこれに対して対照的な論を述べます。

佐藤直方は「中国は、中国大陸にある国と文化にほかならず、日本、朝鮮、その他の国が中国であるはずがない。儒学を学ぶということは、その漢民族の文化をそっくりそのまま受容することである。本当の皇帝は中国にいる皇帝一人であり、日本の天皇が皇帝にあたるから万世一系だなとどは間違いである」としました。


それに対して浅見絅斎は、「どの国でも自分が中心であるのだから、自分の国を中国として構わない。」としました。

先に佐藤直方のドライな忠義論を紹介しましたが、それに対して、浅見絅斎は日本的な情緒によって結びついた君臣関係を肯定しました。そして、違法ではあるが、止むに止まれぬ衝動から、仇討ちに及んだ赤穂藩士を称揚しました。


徳川幕府は、大名がある程度力を持ったまま成立しました。徳川氏と大名は基本的には同輩で、徳川氏がたまたま第一人者であるに過ぎません。そこで、天皇によって征夷大将軍に任命されたことを、権力行使の根拠にしました。このような天皇の使い道を再発見したのはおそらく織田信長であると考えられます。織田信長は、足利幕府を倒すに当って、それを越える権威を必要とし、天皇に行き当たったと考えられます。


徳川幕府にとって、天皇が尊いことは、自らの権威を高めるから好都合なわけです。ここはそれほど深読みする必要はないでしょう。


●朱子学が倒幕の思想に転換した要素

しかし天皇の権威が高まると、やがて「天皇が直接政治を行うべきではないか?徳川氏は臣下のくせに天皇から権力を簒奪しているのではないか?」という考えが生まれます。統治哲学として、導入された朱子学が(林家の儒学はチャランンポランで朱子学は市井の学者の間で研究されたと言った方が正確ですが)倒幕の思想に転換する要素がここにあります。


萩生徂徠はこの危険性に気づいています。彼は「あまり天皇家を敬い、官位を大名に与えたりすると、やがて大名が本当の主君は天皇であり、徳川家にとりあえず頭を下げているだけだ、と考えるようになるだろう、それを防ぐために、武士には武士だけで官位システムを作るべきである」と徳川吉宗に奏上しています。