2001/8/25



尊王思想の研究9―朱子学の官学化

●パックス徳川(徳川の平和)

徳川家康は武力を持って日本を最終的に安定させました。しかし諸大名は力を持ったまま残りました。中国の郡県制のように、徳川将軍が日本の土地と人民を一律に支配するような事態にはなりませんでした。大名は徳川将軍に本領を安堵されているとはいえ、基本的には、徳川家と諸大名は絶対的忠誠を誓わなければならない主従関係にはありません。また、武力による統一は、新たな武力が現れたとき、それに道を譲らなければなりませんでした。徳川幕府は、幕藩体制を擁護する統治思想を必要としました。


徳川幕府は朱子学を統治思想として導入しました。朱子学は宋(時々危険思想とされた事もあった)・明・清で官学として学ばれていました。朱子学は体系が整然と組まれ、テキストも充実していました。先にも見たように、朱子学の大義名分論は君主に絶対的忠誠を誓わせるものなので支配者にとって都合が良いです。とはいえ、実際に出来たのは林家に朱子学を講究させただけでした。


やがて元禄(1688〜1704)になって経済が爆発的に発展して商人の勃興と武士の没落が始まります。武士が戦士としてよりも能吏としての才能が求められるようになると、奔馬の様に疾走する社会をコントロールし、新たな武士のアイデンティティーとなる思想が必要になりました。徳川綱吉は朱子学を使おうとしました。しかし社会の実態を無視して教条的に朱子学を押し付けようとしたため、あまり成功しませんでした。余談ですが、徳川綱吉は評判が悪いものの、日本で初めて都市の環境衛生と社会福祉に取り組んだ政治家でした。


●朱子学と合理的な考え方

朱子学は道徳が天地自然に元々先天的にあるものと考え、また人は、天地自然の精枠というべきものであり、万物の霊長というように、存在者のうち至高の存在である。だから天地の道は人にも一貫してその内に先天的に道徳として存在している、としていました。朱熹は禅にのめりこんでいた時期があります。天地自然の道徳(マクロコスモス)と人の守るべき道徳(ミクロコスモス)の合一を説き、心を修養すれば自然と天地が治まると説いています。


万物を司る法則と人間が守るべき道徳は本来は同一であると朱子学では説きます。そこで、万物の法則(これは自然科学に近い場合もありますし、社会科学に近い場合もあります)を観察することが大事であると朱子学では考えました。これは合理的な思考を伸ばします。中国や朝鮮、あるいは近世の日本において、朱子学を習った官僚が政治に成功することが少なくなかったのは、このように物事を観察してその正しい姿を知って、正しい対策を立てる姿勢を朱子学が育ててくれるからです。


●伊藤仁斎

このような元禄の事態に当たって、独自の思想を儒学の形で纏め上げたのが伊藤仁斎と萩生徂徠でした。元禄になって、経済活動が増大するにつれて、自然とは違った人間の活動で出来あがった「社会」というものが見え始めていました。社会を理解する思想が必要です。伊藤仁斎(1626〜1705)は、朱子学に疑問を持ち、孔孟の教えに戻って(古学といいます)人倫を説きました。


伊藤仁斎は京都の人で、近世初期の上方の発展の中で生きました。始め朱子学に激しく没頭し、生涯の業にしようとして、家族や友人と激しく対立し、深刻な葛藤に苦しみました。遂には心身症となって、家から出られなくなってしまいました。やがて、かつては学問と比べて価値がないと思えていた日常生活を、みずみずしい実感をもって発見しました。日常生活事態に、人を人たらしめている「持続的な命」を見ました。


伊藤仁斎は,日常的な「君臣・夫子・夫婦・昆弟・朋友の倫…親・義・別・序の道,仁義礼智」等これらの徳目全て大事で、これらの徳目をバランス良く、普遍的に周りの人全てに押し広げていくことを大事としました。そして具体的には「忠信」、他者に対する心からの思いやりと正直さを実践するべきであると説きました。古い伝統を持ち人間関係のルールがある程度出来あがっていた京都らしい考えです。「忠信」は正直を旨とした商人にも受け入れられたことでしょう。

●萩生徂徠

萩生徂徠(1666〜1728)は三河武士で関東の人間でした。彼は無秩序にどんどん増殖していく江戸をつぶさに見てきました。仁斎が柔らかな秩序にまとめられた上方の社会を見ていたのと異なり、萩生徂徠は社会とは放って置くと全くコントロールを失いかねない不安定性をはらんだものと捉えていました。


萩生徂徠は孔子を特に重視し、孔子の教えの復元に意を注ぎました。そのため言語学を研究し本居宣長の国学に影響を与えたといわれています。徂徠は倫理的な義理の自覚をしなければならないと考えました。しかしそのためにはただ教育するだけでは駄目で社会制度や政策を通して教えを行うべきであると説きます。


この徂徠の姿勢は赤穂事件における献策にもうかがえます。
(1) 浅野長矩はもちろん赤穂浪人の行為も公法からして義ではなく不義である。
(2) しかし主君のために敵討ち(復讐)するのは私において士の恥を知るものであり同情できる。
(3) したがって彼らは切腹に処するべきだ。
私的な君臣の倫理は大事とはいえこれを無制限に拡張して公法を破るのは否定されます。徂徠は幕府権力の正統化をしましたが、手放しではなく聖人の道を守った上でのことでした。徂徠は徳川吉宗にそれを見ましたがやがて幻滅しました。


萩生徂徠は道徳を守ることを軽視したわけでは決してないものの礼楽刑政といった実際に形を持ったものによって道徳を実現するべきであると考えました。これは、宗教的な価値観から人間の活動を解放しました。萩生徂徠以後、学者は「心」の世界の探求から「物」の世界の探求へと向います。徂徠学は広く全国で勉強されるようになり徂徠学にのっとって藩政改革もなされますが、日本には科挙制がないため、政治参加を説く徂徠学を勉強しながら儒者達はなかなか政治参加が出来きませんでした。鬱屈した思いもあって遊芸に走るものも多く現れました。そのことによって徂徠学の評判が下がることもありました。


政治性を重視する事に危険性を感じ徂徠学を批判する人々も現れます。萩生徂徠の論を進めると儒学は為政者以外には無用なものとなるか民衆が政治に目覚めて収拾がつかなくなってしまうというのです。萩生徂徠の言う通りならば、例楽刑政に実際に関わらない人は学問などしなくても良いといえないこともありませんし、あるいは民衆や下級武士であっても学問をした人間はそれを実際の政治で活かすべきだと言っていると言えないこともありません。心を修養することもまた同時に大切であると再び朱子学者から主張されるようになります。


●寛政異学の禁

頼山陽(1780〜1832、「大日本史」の著者、幕末の志士頼三樹三郎の父)の父頼春水(1746〜1816)は、安芸国竹原下市(広島県竹原市)の町人の出身でしたが、学問に優れ学者となりました。近世中期の民衆は、自らの生活に倫理観を付与してくれる思想を望んでいました。そこから、庄屋階級の間に精神修養色の強い垂迦神道が流行します。垂迦神道は、近世前期の朱子学者山崎闇斎(1618〜1682)が創始した神道です。朱子学者が神道?と思われる方は多いでしょう、しかし、朱子学者が道理を真摯に追求する態度は宗教的です。中国においても朱子学者は多く情熱的な人間を生み出しています。しかし、山崎闇(やみ)斎の立てた神道は、朱子学とは少し離れていました。闇斎の朱子学の弟子、佐藤直方、浅見絅斎らは、晩年神道にのめりこむ師から離れていきます(直方と絅斎は破門されます)。儒学は生涯学習の学問であり、神道の様に秘伝(垂迦神道にはそういった性格が強かった)などによって伝えられるべきものではないからです。


頼春水の父は垂迦神道に熱中しました。しかし、垂迦神道を信じることは寺請制に抵触するため、隠れてでした。彼は子供に学問をさせることを生涯の目標としていました。頼春水は、始め徂徠学を学びますが、それに飽き足らず朱子学に入ります。春水は、道徳と現実の政治や社会的な活動を一致させなければならないと考えるようになります。その背景には、田沼時代のいろいろな学派の乱立と経済政策の失敗がありました。


頼春水は、広島藩学問所を創設します。学問所を作るに当って、カリキュラムを立てる必要に迫られますが、朱子学はテキストが充実し、それを勉強する順序も整然と決まっていて教育には最適でした。


田沼意次の失脚の後をついで松平定信が老中につきました。松平定信は、自身は徂徠学を受容していましたが、臣下は朱子学の大義名分論を学習して、従順な能吏たるべしと考えていました。頼春水、柴野栗山、等の朱子学者は定信に朱子学を官学とし、学問所で異学を教える事の禁止を献策します。1790年に寛政異学の禁が出されます。これは昌平坂の学問所で、朱子学だけを教えよという命令で、それ以外のところには何の拘束力もありませんでした。ですから、思想統制であるという見方は当りません。しかし、幕府にならって朱子学を領内の学校で採用する藩は以後増えていきます。


朱子学は従順な能吏を育てるのに役に立つ学問です。そして、個々人の内省を深めます。それが、近世後期幕藩体制が改革を求められたときに官学として採用された理由でしょう。


やがて、19世紀には「治教一致」「学問と事業の皆一致」(会沢正志斎「退会閑話」)、つまり学問と実践の一致を強く説く、後期水戸学がクローズアップされることになるのです。


「日本の近世13―儒学・国学・洋学」中央公論社
「中国史3」「中国史4」(世界歴史体系)山川出版社
を参考にしています。