2001/9/20



尊王思想の研究10―大政委任論


中国で華夷変態が起こり、儒学者の間で日本こそが真の中華であるという意識が生まれました。また、徳川幕府は外面は小中華思想で対外関係を捉えていました。「日本は中華である」これは大変心地の良い響きです。「日本は神国である」と言う意識を近世の日本人は持っていましたから、神国意識は「日本=中華」と合体して自らの優位性に単純につながっていきます。近世の日本は鎖国していました、鎖国とは民族的規模での自閉です。自閉は自尊意識を拡大させます。


中華であることを、朱子学的に証明するためには、天皇の万世一系を証明しなければなりません。水戸学は、それを証明しようとしましたが、編集方針は紛糾し、芳しい結果は出せませんでした。しかし、朱子学が広まり、「日本=中華」意識が広まれば、神国意識とも合体して、「天皇こそが真の主権者である」、という考えが出てきても不思議ではありません。徳川将軍自体が、名目的には天皇から征夷大将軍に任命されたことを、権力行使の根拠としていました。


天皇が真の日本の主権者であり、将軍は政権を委任されているという考えは、近世前期の浅見絅斎、山鹿素行に既にありました。本居宣長がそれを最も明確に解釈しました。彼は、天下の政は、天皇の「御任(みまさし)」により、徳川家康とその子孫である代々の将軍が行い、将軍はその「御政」を大名に預けている、天皇が国土と国民を将軍に預けたものであるから、国土と国民は将軍や大名の私有物でないという趣旨のことを「玉櫛笥」に書いています。


これはどうも、太平記読みの「国」概念に近い気がします。太平記読み以降「国」は権力者の私有物ではなく、統治者と被統治者双方奉仕するべき対象である、という考えは、近世日本の共通認識になりました。その「国」の本来の所有者として、浅見絅斎、山鹿素行、本居宣長は、「天皇」を持ち出したのでしょう。武士も町民も、近世の規範の特徴は「無私」の強調がその一つです。ただ、あまりにも無私が進むと結局なんのためにしているのかよく分からなくなりますから、究極の所有者(これは「無謬の自己」であると心理学的には考えられます。自分がいくら間違いを犯しても、無謬の自己は傷つかないという、精神分裂的な考えです)として天皇を持ち出したのでしょう。


18世紀後半は、近世の様々な矛盾が噴出し、蓄積されていった時代でした。天候不順により、飢饉が頻発しました。一揆と打ち壊しが頻発しました。これは幕藩権力に対する大きな挑戦です。経済的な実権は武士から完全に商人・富農層に移っていましたが、彼らが政治参加する道は閉ざされていました。ほとんどの藩は財政的に破綻し、これまでの儒学を中心とする統治思想では、その立て直しは不可能でした。日本近海にはヨーロッパ・アメリカの船が出没し、近代国家の植民地拡大の報は、いろいろなコースから日本人の耳に入っていました。徳川幕府は、秩序を再構築する必要がありました。


田沼意次の経済政策の失敗を受け継いだ松平定信はこれに取りかかります。1788(天命8)年8月に、将軍補佐となった定信は16歳の将軍徳川家斉を諭した「御心得の箇条」において、以下のように表明しています。


一、(中略)古人も天下は天下の天下、一人の天下にあらずと申候、まして六十余州は禁廷より御預かり遊ばされ候御事に御座候ば、かりそめにも御自身の物に思し召すまじき御事に御座候、将軍とならせられ天下を御治め遊ばされ候は、御職分に候、
一、(中略)御養生遊ばされ候て、無彊の寿を恩保ち遊ばされ、永く天下を御治め遊ばされ候御事、皇天及び禁廷への御勤め、御先祖様方への御孝心に当らせらるべし、

訳:昔から、天かは天下の物であって、古人の所有物ではない。まして日本国は朝廷から預かっているものであるから、間違っても自分の物だなどと思ってはならない。将軍となって、天下を統治することは、義務である。
養生をして長生きをし、長く国政に預かって、天皇陛下と朝廷のために働くことは、先祖への孝行に当たる。(簡単のため敬語は省きました)

これが大政委任論です。


松平定信は、責任を役人→将軍→天皇と拡大することによって、役人の綱紀の粛清を計り。政治権力の正統化を天皇→将軍→大名という形で明確に表そうとしました。そして、一旦委任した以上、朝廷は政治に口出しをしてはいけない、という意味も含まれています。


大政委任論が、これ以降の朝幕関係の基本になります。しかしこれは同時に、朝廷の重要さを人々に正式に認めてしまうことにもなったのでした。また徳川慶喜の体制封建の背景には大政委任論があります。委任されていたものをお返ししたわけです。


「幕末の天皇」藤田覚
「日本の近世2―天皇と将軍」8.国政に対する朝廷の存在 藤田覚
を参考にしています。