2000/5/23
2001/5/14タイトル変更



古代天皇制 第四章 天皇制律令国家の誕生


聖徳太子はおそらく初めて日本を律令制国家にしようとした人物でしょう。彼は種を播きましたが彼自身は失敗してしまいました。私は聖徳太子の仏教精神の継承者 が山背大兄王子、律令制の継承者が蘇我入鹿だったのではないかと思っていますが両方とも滅びました。


その次に中大兄皇子が律令制国家を目指しますが、これは多くの不満を旧勢力に生じさせたと考えられます。中大兄皇子の時代の歴史にはどこか不穏な空気が感じられます。いくら東アジアの潮流だったとはいえ旧制度を解体して一君万民の世界を作ろうというのです。不満が出ない方がおかしい。大友皇子はその不満を鎮めるために血祭りにあげられたのだと私は思います。


近江朝を滅ぼした天武天皇は律令制国家建設に邁進して今回は成功します。何故でしょうか? おそらく白村江ショックでしょう。日本人は初めて大国の前に無力な自分を知ったのです。国を失うことが何を意味するかは大量の百済難民が教えてくれました。強力な統一国家を造らなければならない。この時天皇が演じた役は既に「序論」に書きました。


古い価値観からの連続性は全て天皇に押し付けて棚上げし、日本人は「近代化?」に邁進しました。しかしもう一つの理由はやはり古代人も長く続いた氏姓制度に倦んでいたのではないか?です。インドほどではありませんけれども生まれながらの身分にかんじがらめになる生活 からいいかげん抜け出したかったのではないでしょうか?これには仏教が一役買ったかもしれません。


日本人は血縁を基本にした社会を解体し「古事記」と「日本書紀」においては自ら の神まで天皇の下に位置付けてしまいました。しかし天皇の下一応平等になったのです(豪族は)。藤原氏の勢力が後退した時に現れた吉備真備、玄ぼう、道鏡らは「平城ドリーム」の体現者だったのではないか?などと妄想しています。


奴婢などが まだいましたし、律令制は上流貴族によって骨抜きにされましたが「個人の才覚」で生きられる時代の到来を古代人は夢見たのではないでしょうか? このような夢と理想の下、無理に無理を重ねていき最後には崩壊してしまうのが「奈良時代」だったのでしょう。