2000/5/23
2001/5/14タイトル変更



古代天皇制 第三章 「和」は怨霊を生んだ


人は光のみにては存在しません。光り有るところには必ず影があります。聖徳太子は「和」を日本人が守るべき徳目としましたがそのことによって「争い」 は忌むべきこととなりました。朝廷というのは摂関政治で形骸化したかに見えたときもかなり話し合いをしており、鎌倉幕府は裁判業務が唯一の仕事で始終話し合いをしていましたし、中世の一揆、近世の自治にしても話し合いが基本です。


日本人は話し合いをよくする民族です。これが 「和」ですが、この場合の話し合いは西洋的な徹底的な話し合いで絶対的な価値観 に近づくよりはむしろ無原則でいいから全員が納得できる状態へ持っていくため の話し合いです。これは鎌倉幕府の貞永式目に良く現れていて(「指導者の条件」 「日本的革命の原理」山本七平著)貞永式目は例外だらけの法律で、基本的に当事者が納得しさえすればどんな結果も許されました。


納得できない気持ち、これを持った人間が「怨霊」になります。いくら「和」を提唱しても矛盾は生じます。人は自らのアイデンティティーを脅かす事態をまず無視します。しかし無視すれば無視するほど、無意識の中でアイデンティティーの矛盾の軋みは増大します。これは神経症的な不安を人に起こさせます。そして様々な形でいずれ表面化するのです。


つまり日本人は「和」を自らのアイデンティティーの柱とした瞬間、その裏面「怨霊」を心に飼わざるを得なくなったのです。人々の矛盾を吸って怨霊は実体以上に膨れあがっていくのです。怨霊の対象になる人物の位置と、怨霊としての認知までタイムラグがあるのはおそら く自ら生んだ怨霊を無意識の中にため込めなくなるまでの時間を表すのでしょう。


怨霊鎮魂の方法がバラバラで定式化できないのは怨霊が顕在的な現象というよりは日本人の心理的な現象で人それぞれにいろいろな現れ方をし、人によってその鎮魂の仕方が異なるからだと思われます。