2003/04/05



第十七回磯出(いそで)大祭礼



和田祭場3/23

東西金砂神社の行う「磯出大祭礼」とは、久慈郡金砂郷町にある西金砂神社と同水府村にある東金砂神社が、「五穀豊穣」、「天下泰平」、「万民豊楽」を祈願して、神社から水木海岸まで行列を組み祭神を出御するという磯出祭のことです。西金砂神社と東金砂神社からそれぞれ出社した約500人規模の行列が、6泊7日をかけて日立市水木浜までの往復約75kmの道程を歩くものです。行程の途中数箇所では、祭事や国選択民俗芸能・茨城県指定無形民俗文化財の「金砂田楽(西金砂神社田楽舞・東金砂神社田楽舞)」を披露奉納します。これは、金砂大田楽(かなさおおでんがく)ともいわれています。


東西両金砂神社の渡御行列は、出社から3日目に日立市の水木浜に到着し、深夜に「ご神体」に潮水をかける秘密の神事を行います。神輿が海中に入るのを「潮ゴリ」と呼ぶそうです。この神事は非公開になっています。非公開の理由については「神秘性を保つためであり、ご神体や清めの神事は非公開が原則」という意見や、「光圀によって水戸藩が仏教の影響を排除する唯一神道を徹底したために、ご神体が薬師如来像だと分かると圧力を受けるので内密に行われたのだろう」とする意見があります。何故、水木の浜でこの神事が行われるのかと言えば、ここが金砂の神様が最初に現れた場所であると云い伝えられているからです。


二つの神社は平安時代に天台沙門宝珠上人が日吉権現を勘請して建てられたものです。水木海岸から遠く離れた要害の場所である山に金砂の神は祭られていますが、これは比叡山から「あわびの船」に乗って水木浜に現れ、水路で金砂山にたどり着いたとの伝説が西暦800年頃には既に存在していたからこそ、この場所が選ばれたように思われてきます。


「ご神体」に塩水をかけるというこの神事の解釈をめぐっては、けがれを払って神体を清め、神の気を高めるという「清め説」と、磯に現れた様子を再現して神の誕を祝う「再現説」とに見解が分かれています。1787年(天明7年)の西金砂神社の大祭礼について記した江戸時代の文献「寝覚謂」には、「ご神体はあわびで、潮水をたたえたつぼの中に鎮座している」、「水木浜で、海中から浮上したあわびを、つぼの中の古いあわびと交換した」などと記述されていたと新聞記事にありました。


茨城民族学顧問の藤田稔先生は「清め説」を唱えています。「神といえども長い間、下界にいれば、気(=生命力)が枯れます。すなわち『けがれる』」。そのために潮水による清めで「けがれ」を払えば、豊作をつかさどる神の威力も高まり、五穀豊穣につながるからだと述べられています。「陰陽五行説」では、大祭礼が開かれる72年に1度の未年は、最も太陽の力が弱まる年とされています。凶作の恐れのあるこの年に盛大な清めをする必要があったのだ、と説かれています。「清めや払い」とは神社の祭りの根幹であり、清めを抜きにした祭りなど考えられない事も根拠の一つとして挙げられています。


一方、「再現説」を主張するのは史学博士で茨城キリスト教大名誉教授の志田諄一先生です。先生は大祭礼が佐竹時代までは釈迦の誕生日である旧暦4月8日に行われていたことに着目されました。仏教ではこの日、釈迦の像に甘茶をかけて、誕生を祝う「灌仏会(かんぶつえ)」の習慣があります。また、神仏混淆の影響によって、両全砂神社の祭神「大己貴命」と仏教の「薬師如来」、「あわび」は一体とされたのではないか。東金砂神社のご神体は薬師如来像であるとの文献も残っていることから、「ご神体の薬師如来像を水木浜まで運び、潮水をかけることで、大己貴命が磯に現れたことを再現し、灌仏会のようにその誕生を祝っていた」との結論を導き出されています。志田先生は「清めならば深夜にやる必要はなく、これは金砂の神が深夜に現れた伝説にちなんだもの」と付け加えられています。


大祭礼が開催されるのは72年ごとであるために、生涯に3度見ることは絶対に出来ないという極めて例外的なレア行事でもあります。何故72年ごとに行われているのかについても実のところ推測の域を出ていないようです。代表的に云われているものは、「大祭礼」より先に始まった「小祭礼」が6年の周期であるために、その12倍にしたためだという説です。これも陰陽五行説によるものです。陰陽五行説では水気(雨)は、12支の亥年に生まれ、子年に栄え、丑年に衰えます。火気(太陽)は同様に巳年で生まれ、未年で衰えます。この6年に1度の干ばつ・冷害を避けるため、小祭礼が開催されました。さらに小祭礼が12支の周期で一巡し、次のサイクルに入る73年目の未年に大祭礼が開かれるようになったというのです。


一方、志田先生は大祭礼は佐竹時代までは原則として毎年開催されていて、江戸時代になってから72の数字を神聖化する唯一神道の影響により、現在の周期になったとの仮説を立てられています。


いずれにしても、最初に行われたのは平安時代の仁寿元年(851年)と伝えられていますから、1100年以上の伝統を持つ神事という事になるわけです。これは茨城県内ばかりでなく、全国的に見ても有数の伝統のある祭りのひとつ挙げられると思います。


西金砂神社が平成15年3月22日(土)から3月28日(金)まで、東金砂神社は3日遅れて平成15年3月25日(火)から3月31日(月)までの日程で行われて無事に終了しました。


大田楽は1139年に初めて奉納されたとされています。両金砂神社の田楽舞は、国選択民俗芸能・県無形民俗文化財に指定されています。西金砂神社の田楽は4つの曲目(段)が順番に演奏され、それぞれ「四方固め」「獅子舞」「種子蒔(たねまき)」「一本高足」と呼ばれています。 東金砂神社の田楽も4つの曲目(段)を順番に演奏されも、それぞれ「四方固め」「獅子舞」「巫女舞」「三鬼舞」と呼ばれています。


西金砂神社
標高405mの西金砂山上にあり、祭神に大己貴命・少彦名命・国常立尊(くにのとこたちのみこと)の3柱を祭ります。


東金砂神社
標高494mの東金砂山上にあり、祭神に大己貴命・少彦名命を祭ります。
坂上田村麻呂など武将たちとのゆかりが多く伝えられ、佐竹氏からは庇護を受けました。
二つの神社の開基は、平安時代の大同元年(806年)に天台沙門宝珠上人が近江の国比叡山日吉権現を勘請したものです。


東金砂神社大行列の写真1
東金砂神社大行列の写真2
(どちらもぱんださんのページです^^)