2003/04/05
2003/04/07追加



第十七回磯出(いそで)大祭礼2



河合祭場3/29

田楽とは、その文字の示すように田園の行事から発生したとされる芸能であり、平安時代から行われ始まったものです。田植などの農耕儀礼に笛・鼓を鳴らして歌い舞ったものに始まるといわれています。そして専門の田楽法師が生れたそうです。


1.歌や笛・太鼓の囃子で早乙女(さおとめ)が実際に田植えをするもの。
2.小正月のころ、その年の豊作を祈って刈り入れまでの稲作の過程をまねて行う予祝の芸能。
3.田楽躍(おどり)。高足や1足などの曲芸も演ずる田楽法師が、びんざさらを持ったり太鼓をかけたりして、笛の囃子につれてさまざまに陣形を変えて踊ったもの。
4.田楽能。古い猿楽能の影響で作られ、田楽法師らが演じた能。


田楽から発生したものとして「田楽焼」があります。これは、本来は豆腐を竹串に刺してみそをつけて焼いた料理であり、それがサトイモやこんにゃくなど食材として用いられるようになりました。ちなみに魚肉によるものは魚田(ぎょでん)と称しています。串に刺した形が田楽の舞姿に似ているところから田楽焼きと言われたようです。「おでん」とは煮込み田楽を略して呼んだものであるという点からみても、田楽は形を変えて現代の私達の生活に息づいているのを感じています。


ちなみに、「おでん」を広辞苑で調べてみると下記のように書かれています。
(1)田楽をいう。
(2)煮込み田楽の略称。
関西では関東煮または関東だきという。


西金砂神社の田楽は3月23日(日)に和田、26日(水)河合で行われたものを見ることが出来ました。23日は日曜日であったために総勢13万人以上の見物客だったとニュースにありました。和田の祭場だけでも3万人以上の人がいたように思います。過疎化が進む村に突然溢れるばかりの人だかりの「歩行者天国」が現れたような錯覚を持ってしまいました。26日の時は平日だったために、きっと間近くで見ることが出来るはずだと予想していたのですが、これは全く甘い考えであり予想は完全に裏切られました。何と、この日のために私が和田に出かけていった23日に東京方面から駐車する場所の下見に多くの人が訪れていたのです。


現在行われている西金砂神社の田楽は、四方固め、獅子舞、種子まき、一本高足という4段構成の舞を、その順に、楽師の楽と共に奉奏するものです。


※四方固め
天照大神の天の岩戸の物語と瓊々岐尊を降臨させた際に猿田彦(天狗の面)が出迎えた場面の舞です。大矛を持って舞います。あまりよく見えなかったのですが、四方を固めるという事は四方を耕して耕地を作る事を意味しているように感じました。


※獅子舞
大国主命(笑いの面)が鈴に興じながら荒ぶる者(獅子の面)どもを和めて意のままにする舞で、武を用いず人徳をもって国を統治することを表しているとされています。この獅子とは「イノシシ」の事ではないかと思いました。かつては、人間の生活圏のすぐ隣に猪に限らず熊や狼など森の獣たちの領域があったために、作物を荒らされるのを防いだ仕草なのではないでしょうか。


※種子まき(蓮葉踊)
五穀豊穣を祈る舞であり、白丁を着て白袴をはき蓮葉笠を被り小鉾(ぼう)を持つ者が二人、白丁白袴烏帽子を被りびんざさらを持つ者が二人、白丁白袴烏帽子を被り笏拍手を持つ者一人、鼓吹拍掌の節に随って舞踏するものです。この舞の終わり頃に「豆」を観客の方に投げるシーンがあります。この「豆」を拾った家は豊作になると言われているようです。


※一本高足
武甕槌命が「国譲り」を大国主命と事代主命を承諾させたにも拘わらず、建御名方命は応諾しなかったために、彼を信州諏訪湖に追い詰めて降伏させた喜びを威風堂々と振る舞うところを表現した舞であり、これは冬から春になるにつれて大地に巻かれた種が芽を出す事を意味しているらしいとあります。しかし、この説明にはどうにも納得出来ないものがありました。舞の終わりに一本の「たけうま」のようなものに乗り飛び跳ねます。この時、数多く飛び跳ねる事が出来れば豊作になると云われているようです。大三元さんが掲示板へ書かれたものを読んでいるうちに、これは風に揺れる案山子のイメージにとても近いものがあるように思えてきました。一本高足とはひょっとしたら案山子のプロトタイプなのかもしれません。あるいは正反対に一本高足のプロトタイプが案山子なのでしょうか。春に芽が出た作物を守る意味を込めたものであるような感じがします。


東金砂田楽は29日(土)に河合で見ることが出来ました。この日は大ラス間近の土曜日だけあって、かなりの混み具合を予感していましたが全くその通りでした。大田楽について、実はほとんど予備知識を持たかったので、東も西と全く同じものであろうと思っていました。しかし、舞ばかりでなく衣装などかなり違っていたのでとても新鮮に感じられました。両方の田楽を見た感想を言えば、西の方がどちらかと言えば古い状態をそのまま残しているような印象を受けました。衣装が予想以上にカラフルである点や舞が単調であることなどから考えると、東金砂神社の伝承は上手く伝えられていないような感じもしました。しかし、東の氏子行列の紋が佐竹氏のものである事などは、水戸藩の懐の大きさを示しているのか、それとも「懐柔策」なのか、一体どちらなのだろうと興味をそそられました。


※四方固め
場面設定は西金砂と同じです。猿田彦の面は鼻の高い凛々しい男子の白面で、金襴地の袴をはき同じ狩衣を着います。頭に鳥の模型を載せています。太刀、柄太刀、矛などを順次に持って四方を固める仕草を行いますが、西のものと比べると動きが単調に思われました。


※獅子舞
これも西とほぼ同じものですが、現代の私達理解できる獅子舞に極めてよく似ていると感じました。大国主命が笑いの面を付けている事なども同様です。


※巫子舞
前段において荒ぶる神を平定した後で神慮を慰める舞との事です。白衣を着て緋の袴をはき、緋の単衣を着た上に舞衣を着ています。巫子の面を冠り、垂髪をつけ、頭には天冠を冠り、両手には神楽鈴を持つとの事ですが、実は良く分かりませんでした。しかしこれは西では見ることの出来ない舞でしたので新鮮な感じがしました。


※三鬼舞
赤、黒、青色の装束を著け、赤、黒、青色の鬼の面を冠り、赤鬼は松明、黒鬼は斧、青鬼は金棒を持って荒々しく舞うものです。お堂を回ること三たび、その後、青鬼が護摩火をたく神猿を追い散らすというものです。しかしどのような意味が込められているのか良く聞き取れませんでした。


東西金砂神社の田楽は、天下泰平、五穀豊穣、万民方楽を祈願する舞として保存されています。私の印象ではとても質素な感じを受けました。それでも初期の行為がどの程度伝承されているのかについてはかなり怪しいところがあるような気がしています。しかし、中央では「奉納芸能むから「遊芸化」へと俗化の方向へ走り、地方においてもこのようなものの大部分が消滅したり執行されなくなった現状を考えると、当時の姿を伝えている数少ない貴重な文化遺産と言えるようです。