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2000/3/6訂正



藤原氏の秘密1


藤原氏は日本史上最高の名門ですが、その出目は謎に包まれています。中臣鎌足は突然(と言ってもいい状態で)歴史上に現れました。大化改新については誰でも知っていることですが、その立役者のことについてはあまりにも情報が少なすぎます。茨城県の住民ですら藤原鎌足が自分の県出身者(鹿島)であることをほとんど知らないのが現実です。


魏志倭人伝に代表される古代日本の空白期の検証は数多の人々の興味を引きつけましたが、それでもやはり関東地方の独立地方勢力に対しては関心の外であったと思います。


「出雲の国譲り」の物語に遙か遠方の「鹿島」が関係するのは何故だろうか、と普通に考えれば疑問が生じると思うのです。一般的な解釈ではこの地方が「蝦夷地」との国境線であったことの意味しか認めてはいないようです。しかし、本当にそれだけなのでしょうか。


記紀とは当時の現実の投影であることは間違いがありません。この表記の仕方はオブラートに包まれていますがそこには元になった事実があったと考えて良いと思うのです。「鹿島」は辺境の地にありながら「大和」を構成する強力なメンバーでした。これには納得がいく説明が当然あるべきなのです。「鹿島」は古代における鉄の産地でした。そして鉄器の生産地でもあったのです。そしてここは利根川流域に当たりますから関東地方でも有数の肥沃な土地に恵まれていました。さらに利根川と日本第二位の広さを誇る霞ヶ浦に接していますから水運も発達していたのは想像に難くありません。


そのような地理的条件から総合して考えてみると「鹿島」が当時の日本に置いて相当強力な勢力だった事は疑いのない事実のようにも考えられて来ます。だからこそ「大和」は懐柔策を取ったのだと思います。単なる辺境出身者が皇太子の側近になど成れるはずなどありません。当然の事ながら鎌足本人の能力も相当なものだったのは間違いのないところだとは思いますが、それだけでは納得させる理由としては不十分過ぎると思うのです。


鎌足は「鹿島」という強力な母体があればこそ能力を十分に発揮できたと考えた方が自然だと思います。


しかしそれでは何故鎌足は(もしくは彼の子孫達は)自分達が常陸国出身であるということをもっと宣伝しようとはしなかったのでしょうか。これは鹿島に場所を絞っても同じだと思います。鹿島「神宮」と呼ばれるほど歴史的に意味を持たせていながら敢えてそれを無視してきたように感じられるのは不思議です。どうしてなのだろうといった感想が正直なところです。


これでは藤原氏ができる事なら鹿島のとの関係を表沙汰にはしたくないとの思いを抱いているのではないかというような印象すら抱いてしまいそうです。


古代における大和朝廷内における地位や権力の争いがもしコップの中の嵐に過ぎないものであるならば日本全土に対しては何も影響を与えることなど出来なかったはずです。しかし現実には大和朝廷の支配力は日本全土に及ぶほど強力なものでした。ですからその大和を構成する「役員達」の資格とはその母体である現実的な「力」によるものであったと考えるべきなのです。


大和朝廷は「蝦夷」に対しては執念を思わせるような執拗な攻撃を続けました。対蝦夷に対してだけは後世の日本の歴史には現れないような感覚を覚えるのです。それはまるで「ボスニア」のような印象を受けて奇異な感じすらします。


これこそが実は「蝦夷地」と境界を接していた「常陸国」の安全保障だっと思うのです。自国勢力が増大して境界線がより遠くまで延びて行けばそれだけ安全であることは間違いがないところだからです。


そして誰も触れてはいないようですが(あまり触れられていない??)、常陸国が陸奥国に接しているという地理的要因からは普通に考えれば蝦夷とは物理的な距離だけではなく、血縁的にも近いものがあって当然と思われます。つまり蝦夷そのものかどうかは別にしても「混血」状態であったと考えてもいいのではないかと思うのです。そしてこれが事実だったからこそ敢えて「封印」したようなイメージを受けるのです。