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2000/3/6訂正



藤原氏の秘密2


天皇家の最大のライバルは蘇我氏でした。蘇我入鹿の力は天皇家を上回るほどだと言われていますが、これは現実に相当強力な武力を有していた(かなり強力な兵力を有していた)ことを意味すると思います。


この蘇我氏の力に対抗するには同等以上の力が必要だったことは言うまでもありません。ここにおいて蘇我氏を排斥し実権を取り戻そうとする天皇家と地域の豪族から全国区へのし上がろうと考えていた鎌足の思惑は完全に一致したのだと思います。こうして鹿島兵は「国譲り」に続いて二度目の革命の担い手になったのだと思います。


例えて言うならば豪族達の保有する兵力に代表される国力が持ち株比率であり、朝廷内の戦いが役員会のようなものなのではないでしょうか。いくら奇襲されたとはいえ日本一強力な力を握っていた蘇我氏があれほどあっけなく滅ぼされたのには当然それなりの理由が存在するはずです。その答えとはつまりそれだけ鹿島軍の兵力が強力だったからでなければ説明がつかないと思います。


もし朝鮮半島が新羅によって統一されず、また百済攻防戦で唐・新羅連合軍に敗戦さえしなければ(朝鮮半島の脅威がなければ)鎌足はその武力を天智天皇に恐れられて反鹿島同盟により粛正されていた可能性もあるのではないかと思っています。しかし、朝鮮半島が非友好勢力によって統一されたことにより日本への脅威は飛躍的に増大しました。


この対外関係の変化により日本の安全保障上の危機は増大しました。当然ながら天智天皇の恐怖心、危機意識は増大したものと思われます。これを緩和するために鎌足の地位や勢力は強力になっても減少することはなかったのでしょうか。また鎌足も全精力を上げて尽くしたのだと思います。その結果ますます信頼を確かなものにしていったのではないでしょうか。


北九州に防衛ラインを引き新羅、唐の侵略に備えました。このとき防人の任に当たったのは東国から赴任した人々でした。これは歴史的に有名です。特に常陸国から防人として旅立つことは「鹿島立ち」と言う言葉として残っているほどです。この事実こそが天智天皇は九州出身者よりも蝦夷地と境界を接する東国出身者(常陸兵)の方を信頼していた事の証明だと思います。


そしてその根拠は強力な軍団である「鹿島」(含む香取)をバックボーンとする藤原鎌足への信頼感なのだと思います。そうでなければ防衛のためにわざわざ遠方の東国の兵を送る必要性を見つけることが出来ません。まさしく鎌足への信頼感がなせる技だったのかも知れません。


大化改新の主役はあくまで中大兄皇子なのですが、その後の行動を見ているとあまり名君というイメージが湧いてこないのも事実です。歴史に残る改革の担い手にしては不思議な気がします。 そのようなところから考えると野望に燃える鎌足が「御輿」として担ぎ出した相手が中大兄皇子であっただけというのが事実なのかも知れません。ただし彼が皇子達の中で能力が上位であったことは間違いのないところだと思います。


このとき提携先として鎌足がどうして海人皇子を選ばなかったのかとの問いには答えることが可能です。それは大海人皇子の実力があまりにも抜きんでていたからではないでしょうか。そしてそのことは広く知られていたのです。要する実力がありすぎると判断され逆に敬遠したのだと思います。この様なことは歴史上何度も起こっています。 また大海人皇子と天智天皇が兄弟関係にあるかどうかについては昔から疑問視されています。当時における外戚の有力者だったかも知れないと思っています。


天武天皇は在位12年間大臣を置かず親政を通しています。この様な人物に天皇の座に就かれる事は、野心に燃える鎌足としては出る幕がなくなる事を意味します。よって好ましくないと判断したのは当然のことだったのではないでしょうか。