2000/10/31



藤原氏の秘密5(その3)


海の民(=海洋民族)と草原の民(=遊牧民)の共通性とはどのようなところにあるのでしょう??それはリーダーを決定するやり方に見いだせるように思っています。その最も大きな理由とは実力主義によるところが大きいという点が挙げられるのではないでしょうか。それはこれらの集団を維持し、発展させていくためには安定した食糧の確保を計れる農耕主体の集団の場合とは違ってリーダーシップの占める比重が高いものになるからだと思っています。このように考えたのは海の民とはいわば「海の狩猟民族」のようなものと認識したほうがいいのではないかと思ったからです。そして交易などの発達によってより遠方まで行動半径を広げて行くという事は「海の遊牧民」に進化する事であると言い換えてもいいのではないかと思っています。


天孫一族とは遊牧民族のようにリーダーの実力を必要としている組織だったのではないかと思っています。このような天孫一族の初期の特徴的な資質は農耕民族として発達した後期の資質とはずいぶんと違っていたものと推測されます。しかし、この根本的資質は日本人が農耕民族として進化していっても根深いところで大きな影響を与えているように思っているのです。


つまりこれは稲作文化の「差」として現れているように思うのです。稲作は東南アジアを北上して日本列島にもたらされました。しかし、日本では東南アジア一帯において一般的に見ることが出来る特徴がほんとど見あたらないのです。東南アジア地域においては稲作の普及とともにドンソン文化と呼ばれる大型農耕牛もしくは馬にかかわる祭祀が発達しています。しかし日本においてはその痕跡をほとんど見つける事が出来ないのです。この違いが起きた原因とは日本を形成する基本母体の特徴によるところが大きいのではないでしょうか。つまりこの「差」こそが天孫族の特徴を現しているのではないかと思えるのです。


具体的には家畜の存在が薄い点が挙げられると思っています。日本人の食物の比重が動物ではなく魚介類に偏っていたと言えるのかも知れません。動物性タンパク質をほとんど摂取してこなかった日本人の食事の歴史的特徴にこそ日本誕生の秘密があるように思っています。これには日本という島国は平野部分が少ないという地理的要因が大きいのは事実です。しかしそれ以上に大和の基本形とは「海の民」である点が大きいように思えるのです。つまり稲作文化と言っても日本版弥生式は東南アジアで一般的なものとはこの点で決定的に違うと言えるのではないでしょうか。これは日本人が海洋型農耕民族を主体として発達したものだからだと思っています。


神話を読んでいると天皇家の始祖とは隼人=海の民と蝦夷=山の民の血統を合わせ持った一族なのではないだろうかと思われてきます。要するに海の民と山の民の混血=ハイブリッドが天皇家の始祖なのではないかと思うのです。「かぐしま」が各地方において現地化、つまり混血を進めていった結果として彼らは隼人系??、蝦夷系??、出雲系??などと分化していったのではないでしょうか。しかし、海の民にとってそれは隠すことでも忌む事でもなかったのだと思っています。この理由は海の民の場合は指導者としての能力こそが重視される社会であり、ある意味で開放的な意識を持っていたのではないかと思っているからです。これは環境によって発達した姿の一つだと思います。


そして常陸や出雲、日向というように空間的に大きく隔たっている場所が結びつく理由とはこの「かぐしまネットワーク」の賜の様な気がしています。「かぐしまグループ」とは特定の地方の代表者というよりは日本各地に渡ったネットワークの代表者ではなかったかと思えるのです。あたかもそれはウェブ・ネットワークのようなものなのかも知れません。


これこそが神話において「天高原=高天原」の場所が一定の所ではなく捉え所の無い印象を受ける理由なのではないでしょうか。つまり全国各地に点として存在していた「かぐしま」の全てが「高天原」なのではないかと想像しています。一カ所に特定できない理由とはこれかも知れません。日本全国にある全ての「かぐしま」が「高天原」の候補地とすれば正にこの理由も分かってくるように思われるのです。「かぐしま」と他の有力豪族達との根本的な違いとはこの蜘蛛の巣のように張り巡らされたネットワークにあったように思っています。要するに他の豪族たちがいかに力があろうとも地方勢力に過ぎなかった事と比べると根本的に違っている点なのです。


私は「高天原」とは全ての「かぐしま=鹿島」がその候補地に挙げられると思っています。しかし国譲りにおいて最大の功績をしたのが常陸国の鹿島である点から見ると常陸鹿島に天高原が限定された事すらもあったのかも知れません。鹿島地方の地図を見ると鹿島神宮の飛び地に高天原の字名が今でも残っています。ひょっとするとこれは証拠の欠片なのかも知れません。常陸風土記には神仙思想の影響が強く見られると言われています。この理由も「天」がこの地方にかつて存在した痕跡を残していたためと見ることも出来るのではないでしょうか。「天」とは「天高原=高天原」であり、つまり天孫一族の本拠地の事を指している筈です。そして葦原国とはそれ以外の日本の場所と考えられるように思っています。


茨城県には古墳が約3000基ありますがそのうち鹿島郡内には約550基の古墳が存在しています。これは古代にこの地域が大人口を抱えていた証明になると思っています。(古墳時代と神話の時代は多少ずれています)


分社の配置図(下手な絵^^;;)



古代の地形(太線の所が陸地です)


鹿島神宮と香取神宮は海を挟んで砦のように存在していました。その直線距離は約12キロですから当時は丘の上に相対していたお互いの姿を見ることが出来た筈です。この両者によって囲まれた内部が霞ヶ浦という内海になるのです。そしてこの内海の西の果てに「神立」という地名があります。この場所こそが南九州の「かぐしま」へ天孫降臨するために神々ならびに神兵たちが旅立たれた場所の名残なのではないかと思われてきます。そしてこの過去の記憶があったからこそ常陸国から九州へ防人として旅立つ事を「鹿島立ち」として表現しているように思われるのです。「鹿島立ち」とは「神兵」が天孫降臨のために鹿島の地を出発した故事にちなんだものなのではないでしょうか。歴史は同じような事象を何度でも繰り返すものなのです。


常陸国においても出雲の「国譲り」にちなんだ神事が行われています。鹿島、大洗間40キロの間で「伊佐間浜の故事」を再現しているのです。しかし、そればかりではないのかも知れません。


「かぐしまネットワーク」の重要拠点の一つである常陸鹿島において最後まで友好関係を築くことが出来なかった豪族集団が存在していました。この代表者の名前は天(=甕星)香香背男と呼ばれています。この豪族集団はかなり強力な武力を誇っていたようです。何しろ建御名方神を長野県富士見町??において撃破した武甕槌命の武力を持ってしても敗色が濃厚だったのです。この時に武甕槌命と提携したのが常陸国における二宮である静神社の主神の建葉槌命でした。この連合軍によって大甕の軍勢は敗退する事になるのです。彼らは東北地方へと敗走して行きます。ひょっとすると甕星香香背男の子孫こそがアテルイなのかも知れません。


このように常陸国に本拠地をおく三大集団の戦いは鹿島・静連合軍の勝利に終わりました。武甕槌命並びに経津主神はここでも「国譲り」を達成したのです。彼らは実のところ非常に近い血縁どおしの者達だったのではないかと思っています。お互いの距離から見ても血縁的には近親者どおしの戦いであった可能性が高いのではないかと思えるのです。この戦いの結果として近親憎悪のような感情が芽生えたのではないでしようか。だからこそ時代は下りアテルイが京都に連行されたときにあっさりと首をはねたのかも知れません。


蝦夷(北方系日本人を指す)が第一級の敵になった以上は自らの体内に同じ血が流れているとはどうしても公表する訳にはいかなかったのではないかと思います。これこそが天皇家の秘密を生み出した最大の原因なのではないでしょうか??


ひょっとすると武甕槌命と鹿島の繋がりとはこの「かぐしまネットワーク」の危機に他の地域から派遣されたのが始まりなのかも知れません。あるいは「かぐしま」本体は瀬戸内方面を進み、武甕槌命が率いる別働隊は常陸国北部平定のためにやって来たのでしょうか。それは諏訪湖付近の戦いにおいて建御名方神を滅ぼしたと同時にそのまま関東へ進軍したのかも知れません。


常陸風土記には以下のような一文があります。(口語訳=意訳)
伝えられているところを言うと、美麻貴(崇神)天皇の御代に大坂山に白妙の立派な服を着られ、手に白い鉾を杖にされた神様が現れて「自分の居るところを治め、また祭るならば、(私が)あなたの治める国を穏やかにして大きな国も小さな国も全てあなたの思うままにしましょう」と教えました。そこで天皇はそう申された方がどなたであるかを人々にお聞きになりました。すると大中臣神聞勝命(かむききかつのみこと)が進み出て「言葉をかけられましたのは香嶋の国に座しておわします天の大御神様(武甕槌命)です」と申し上げました。天皇はそれを聞かれて驚かれるとともに申されることを受けて幣帛を神の宮に奉納されたのです。


常陸風土記のこの記述こそが鹿島神宮とは大和朝廷の関東の前進基地などではなく、もっと巨大なものであるという事実を明らかにしている証拠であるという意見があります。私も全く同じ意見を持っています。

各本拠地の配置図