2000/10/31



藤原氏の秘密5(その2)


日本の各地において「鹿島」の地名を見つけることが出来ます。茨城以外にも佐賀や愛媛、三重??にもあるのです。日本海へ目を向けると何と出雲でも見つける事が出来ます。さらに北上すると能登半島に到着しますがここの七尾地区も実は鹿島だったのです。全国の鹿島と呼ばれる(た??)場所とはそれぞれが古代において重要な意味を持っていたと見られています。


ところで鹿島とは古代においては香島=香嶋と書かれていました。ここから「かしま」ではなく「かぐしま」と呼ばれていたと推察されているのです。この意味とは「香しい島」のことですから「住むのに素晴らしい島」という意味になると思っています。つまり「かぐ」と発音されていたからこそ「香」という文字が使われたのではないでしょうか。これは「天の香具山」の例を取れば分かりやすいと思います。ここからは伊弉諾尊、伊弉冉尊の国生み神話が連想されてきます。さらに「かごしま」とは「かぐしま」の訛りではないかと推測しています。恐らく全国の鹿島=香嶋と呼ばれる場所とは九州南端の「かぐしま」から海流に乗って日本列島を北上していった隼人??の一派が各地で拠点として植民した場所なのではないでしょうか??


鹿児島の錦江湾と能登の七尾地区は地形がとても似ていると聞いていましたが確かにそのとおりでした。私も錦江湾と能登の風景はとても似ていると感じました。錦江湾を少しスケールダウンしたものが能登の鹿島のようなイメージを受けたのです。正に相似形です。これだけならば単なる地形の類似に過ぎないのですが同じ(と見られる??)名前を冠しているとなると偶然だけではないように思われるのです。全国の「かぐしま=鹿島」を地図上で見ると当時の「日本の範囲」を囲んでいる事が一目瞭然です。つまり各々の「鹿島」によって囲まれた内側こそが日本の領域そのものだったのです。

「かぐしま」ネットワーク図

白い地図工房さんからお借りしたものです

この植民町が長く続いたという事はそれぞれの地域で現地化に成功した事を意味していると思っています。つまり彼らは近くに住む他の部族=豪族たちとの婚姻関係を成立させて勢力を増大させていったのではないでしょうか。この結果としてますます各地に根付いていったものと考えています。これはある意味では自然の行為であるように思っています。勿論途中で滅んだ鹿島も相当数あったであろうと思っています。


現代でもすぐ隣どおしの本家と分家は仲の悪い場合が多いですがこれはお互いの利害が正面から衝突するからです。しかし、全国の鹿島は物理的に十分以上離れていた場所に存在していました。このために各地の鹿島は世代が代わっても利害で対立する事が無かったと想像されます。これによってお互いに遠方にあっても精神的には逆に一体感を持ち続ける事が出来たのではないでしょうか。現地化が進んだことによって血統的に見れば(あるいは外見も??)ほとんど他人そのものであったとしても共通の始祖をもつという事に関しては疑いようがなかったからです。このようにして「かぐしま」ネットワークが成立していったのではないでしょうか??これは系譜信仰へと繋がる様な気がしています。


この一体感とは室町幕府成立時における足利本家と三河に分家した細川氏の関係に似ているのかも知れません??足利尊氏は三河国で兵を集めましたがここは足利分家の支配する土地だったのです。ところが一方の親戚である新田氏との関係を見るとこれはあまり仲がよくなかったようです。この理由としては両者の物理的な距離が近すぎたという点をその要因に挙げてもいいように思っています。


出雲の中に「かぐしま」グループが加わっていったのか、それとも出雲に降り立った「かぐしま」=「鹿島」の発展した形態が出雲なのかについては実のところイメージがはっきりしていません。しかし日本海から瀬戸内に至る地域については出雲の主導的立場が確立されていたように思っています。この地域において既に確立されていた出雲ネットワークに加えてもらったの可能性は十分に高いと思われます。いずれにしても出雲と鹿島とは良好な関係(協調路線)であったように思っています。


彼らの関係の変化とは稲作の普及とともに訪れたのではないでしょうか??大国主命は穀物の神として崇められています。これは日本全国に稲作を普及させた主体が出雲であった事を意味しているように思っています。全国に稲作が普及した結果として食糧の安定供給という新局面が出現したのです。この画期的な出来事は16世紀の技術革新に匹敵すると思っています。この結果として稲作普及後の約30年後には人口ボリュームの大幅な地域格差が起こったものと推定しています。


食糧確保の手段が大きく変わった事により新しく台頭してきた場所がありました。その一つに常陸の鹿島が挙げられると思います。この鹿島地域とは潮来や水郷で名高い場所でもあります。海から見て鹿島の後方地帯とは稲敷郡と呼ばれています。これはその名の通り大穀倉地帯であることを表した名前です。いかに稲作に適した場所であったのか分かると思います。


地理的環境に恵まれた鹿島は大人口を有する地域に成長したのではないかと思っています。大人口を保有するということは大軍団を持っていると同じ事なのです。この時点で鹿島は全国でも有数の集団に成長したとみることができると思っています。更に鹿島の浜からは砂鉄を採取する事が出来ました。鹿島の製鉄は古代からの伝統だったのです。大軍団が鉄製武器で武装しているのですからもはや鹿島に敵はいなかったのです。このようにして鹿島は全国でも最強集団になったのではないかと思っています。これは豊臣政権下における徳川家をイメージしてもらえればいいのではないでしょうか。


全国各地の台頭とともに出雲の地位は相対的に減少していったのではないでしょうか。そして「かぐしま」グループにリーダーシップを奪われた事が「国譲り」の神話が語っている事なのではないでしょうか。この「国譲り」の主役に遙か遠方の武甕槌命が現れる理由とは「かぐしまネットワーク」があればこそだと思っています。それにしても自らの蒔いた種によって自らの地位を失う結果になろうとは大国主達は想像も出来なかったのかも知れません。


鹿島と出雲の類似点を意外なところで発見する事が出来ます。それは鹿島神宮と出雲大社の内部の配置が類似しているという点です。大社造りの特徴はいくつかありますが、その中でも神座が中心になく奥で横向きになっている点が出雲大社の最大の特徴であると見られています。ところがこれは鹿島神宮においても同様なのです。この理由としては出雲大社を創った主催者が武甕槌命である事を考えるとある意味では当然なのかも知れません。あるいはこの様式とは古代において一般的な様式だったのかも知れないと思っています。つまり出雲発祥というよりも天孫一族にとっての住居をモデルとした可能性が高いのではないでしょうか??いずれにしても出雲大社オリジナルと見られている配置を遙か東国の鹿島神宮でも見ることが出来るのです。


出雲の国譲りの後の天孫降臨の場所とは何故南九州だったのでしょうか??その答えとはこの「かぐしまネットワーク」にある様な気がしています。