2001/3/19



佐竹氏への系譜 清和源氏の謎4


さてそれでは経基王の本当の親とされる元平親王とは一体どのような人物だったのでしょうか??


元平親王は清和天皇の後を継いで第57代天皇になった陽成天皇の3男に当たるとされています。(諸説あり)貞純親王は陽成天皇の弟ですから元平親王とは叔父・甥の関係になります。元平親王は弾正台、式部卿などを歴任しています。しかし、これらはこの当時において既に親王任官の当て職になっていました。つまり地位に応じた給与だけを受け取っていただけだったのです。給与に対しての職務は一切無かったのです。つまり彼もまた貞純親王同様に経済的には何一つ不自由のない生活が保障されていたのでした。そして業績を何一つ残してはいないのです。さらにこの人に関する逸話も全く見当たらない点なども貞純親王にとてもよく似ているように感じられて来ます。この点が二人の共通点として挙げる事が出来るのかも知れないと思っています。この様な影の薄いところが両者が混同されるようになった原因なのかも知れません??


しかし、元平親王と貞純親王の接点とは叔父・甥の関係だけだったのかという疑問は依然として残っているように感じています。本当は更にもっとこの二人だけを繋ぐ深い秘密が隠されているようにも思われてくるのです。つまり業績を残していない親王であるという点だけでは彼らを結びつける接点が弱すぎるように思われるからです。今までの清和源氏説では元平親王の子供であるはずの経基王が貞純親王の子供であるとされています。しかし、清和天皇には前に書いたとおり陽成天皇を筆頭にして14人の男子がありました。これほど多くの男子の中で何故清和天皇6男の貞純親王が敢えて選ばれて元平親王とクロスオーバーするようにされたのか、その理由については何か特別に深い原因があってもいいように感じられるからです。


この点に関しては私の単なる思いこみの可能性も大きいように思っています。しかし、この両者が平凡な人生を送ったために記録上特筆すべき特徴が見当たらないが故に系譜を詐称出来たからであるとする説は説得力が乏しいようにも感じられてしまうのです。もちろん貞純親王なら系譜を書き換える相手としては最も適した人物であると判断されたのかも知れませんが...


ところで陽成天皇といえば芳しからぬ風評の持ち主としても有名です。彼は「悪逆の王」、「乱国の王」、「悪君の極み」などかなりきつい表現をされている天皇なのです。このために彼の子孫が「陽成源氏」とは自らの系譜を胸を張って言えなかったために「清和源氏」を詐称したのであろうという意見もあります。自分の先祖がこの様な天皇に遡るであればそれは不名誉であり、「源平合戦」において頼朝は平氏に向かって自らの系譜を堂々と宣言する事を出来なかったからだというのです。


勿論私が源氏の一員でも「やーやー、我こそはあの悪逆非道の陽成天皇の末裔なり!!」とは口が裂けて言えなかったように思います。しかし、頼朝ほどの有名な系譜であれば既にこの時点において広く知られていたと考える方が自然であるように思われます。つまり頼朝が「陽成源氏」を隠蔽して「清和源氏」を詐称しようと試みても相手方の平氏によって「頼朝は悪君の極みの陽成天皇の末裔なり!!」と暴かれてしまったはずだと思うのです。ところがそのような形跡は全く見られません。この点から考えると頼朝の時代には頼朝自身のみならず回りの全員が彼の系譜は「清和源氏」であると認識していたようと思われるのです。頼朝が清和源氏を作り上げたと考えるのはどうしても無理があります。また頼朝の時代よりも前に書かれた大鏡においても清和源氏と書かれています。すると詐称したのはいつになるのでしょうか??


私は一時期、義家が最も怪しいのではないかとも思っていました。しかし、いかに義家が多大な名声を得ていたとしても天皇家の公式記録を書き換えることは不可能です。そうなると天皇家そのものが事実を隠蔽したのではないかと結論づけざるを得ないように思われてくるのです。この様に清和源氏詐称問題の根とはかなり深いところにその原因があるように思っています。