2003/01/16



神功皇后の煌めき1


大倭国(やまと)がその勢力を拡大して全国をその支配下に置いていく様子は、日本武尊の物語の中に凝縮されているように感じています。景行天皇=大足彦忍代別天皇(おおたらしひこ おしろわけの すめらみこと)の息子である日本武尊が、大将軍として全国を転戦した話はあまりにも有名です。ヤマトタケルなくしては、日本列島の各地に根を張って成長した独立勢力である多くの豪族達を、「やまと」の下にまとめ上げることは不可能だったに違いありません。「やまと」による日本列島統一という偉業は、日本武尊の力に寄るところが極めて大きなものであったと日本書紀を読んだ人なら誰でも感じるだろうと思っています。


しかし、このヤマトタケルの話は真実を現したものではないという意見があるのもまた事実です。この説に従えば当然の事ながらヤマトタケルは実在の人物ではありません。当時に生きた多くの名も無き(あるいは名のある人も)武人達の集合体であるというのです。つまりは日本国統一のために血や汗を流して奔走した、あるいは活躍したであろう、数え切れないほど多くの兵士たちの逸話を一人の人物に集大成した物語という事になります。実のところ私も以前は同じように考えていました。


確かに日本武尊の活躍を「ヤマトタケル英雄伝説」として架空の物語であるとする説は一見すると正論のように感じます。でも何となくですが、架空の物語であるとする説には感覚的に納得できない部分を感じていたのも事実だったのです。勇者ロトさんの「崇神朝の謎」を読んだ時にヤマトタケルは実在の人物であるとした方が遙かに整合性を持てると感じたのです。


確かに一人の個人が日本列島を九州から山陰、更には関東まで平定するのはものすごい困難が付きまとうのは当然だと思います。しかし、いかに記録(伝承)されている内容が困難だからとしても、それを理由にしてヤマトタケルの巡幸が不可能であり架空の物語であると決めつけられるわけではありません。一人の超人的な意思力によって異民族を制圧し、空前の大帝国を作り上げた実例が世界史では既に紀元前に存在しているのです。ギリシアのマケドニアに生まれたアレクサンドロス大王の名前は余りにも有名です。彼は僅か33歳でその生涯を閉じたにも拘わらず、ギリシア世界からインドに至るまでの広大な空間を転戦し続け勝利を収めているのです。昨年有名になったアフガニスタンの南部にある都市のカンダハルは彼によって建設されたと言われています。


アレクサンドロス大王の例から考えても、日本武尊のとった行動範囲は物理的にみて決して不可能なレベルではないと判断出来ると考えています。勿論、日本武尊は皇子にして大将軍として行動しているのですから、単身もしくは水戸黄門漫遊記のように数人で全国を渡り歩いた訳ではありません。若き将軍が地方勢力の制圧に向かうからには、アレクサンドロス大王と同じように「やまと」の最強軍を率いていたはずだと考えられるからです。彼の従者とは強力な軍隊を持っていた久米氏や吉備氏ですから、これは信長が家康や秀吉を従えて全国を転戦したようなものと考えれば分かり易いと思います。


信長の下に秀吉や家康がつき従うというのは彼らが指揮している軍団を同時に連れて行くという事です。これは古代統一戦争においても全く同様と考えるべきなのです。あるいは徳川秀忠が3万人以上の軍勢を率いて中山道を関ヶ原に向かったようなものなのかもしれません。いずれにしても全国統一戦に出発した日本武尊に軍事貴族がつき従っているのは当然のことであり、相当数の兵力を持って東国平定に出かけたものであると判断すべきだと思っています。


日本武尊が超人的な人物として描かれている理由を考えてみると、敵方の真っ直中で行われている宴会場に単身、もしくは供の者を少数つれた程度で乗り込んでいく事が出来る剛胆さを持っていたからだろうと思っています。大将軍や大将の身分にありながら単身敵陣に乗り込んだという例は、毘沙門天の化身であると言われた上杉謙信の川中島の戦いにおける「伝説」以外には存在していないのです。当然のことながら日本武尊は剣術を含めたあらゆる格闘術に相当の腕前を持った人物であったのだと思います。


世界最大級の前方後円墳という人工の構造物が関西平野の地に造られた歴史は1200年以上経って秀吉により再現される事になりました。大坂城という世界最大規模の城が大阪という同じ場所に建造された事実を思うと、天下統一を果たした秀吉の行動が正に歴史の繰り返しであったような錯覚を覚えるほどです。巨大な人員動員力を備えた政権があればこそ大坂城築城は可能でした。同様にあれほど巨大な古墳を作り出すには、たとえ1200年前であっても莫大な人員の動員が必要になるのは全く同じことなのです。建設における動員力は兵力増員力と同じものなのです。


巨大建設が可能になった背景は、ヤマトタケルの活躍によって統一を果たした大倭の力が、豊臣政権と同じように超巨大な軍事力を備えた存在であったからだと考える事が最も整合性を持った推論だと思っています。秀吉のように、全国統一を達成する程の超強力な権力と財力と兵力が伴わなければあのような巨大な物を作り出す事など、「夢のまた夢」なのは小学生でもわかる理屈だからです。人間の意志力は歴史に大きな力を与えることが出来ます。しかし、思っているだけでは何も実現することなど出来ないのです。天下統一を成し遂げたパワーは統一により更に集中されてその力を増大させて行きます。この様にして、大坂城を作り出し「唐入り」として海外に兵力を送るほどの超巨大なスケールになっていました。


島国である日本列島の最大権力を得た大豪族「やまと」が、海を越えて朝鮮半島と政治的な関わりを持つようになったきっかけは日本書紀に描かれています。有名な神功皇后の三韓征伐がこれに当たります。神功皇后とは日本武尊の息子である仲哀天皇=足仲彦天皇(たらし なかつ ひこの すめらみこと)の皇后である気長足姫尊(おきなが たらし ひめの みこと)こそが神功皇后と呼ばれる人物なのです。彼女は開明天皇の曾孫であり、この血統を有しているからこそ「皇后」になれたのです。また「おきなが」という名前からも彼女の所属していた集団が「海の民」であることが伺われます。


仲哀天皇が反乱を起こした熊襲を征伐するために九州に向かった事が「おきながたらしひめ」の伝説の始まりでもありました。熊襲とはどう考えてみても神武天皇に付き従った隼人の地元に残った人たちの末裔にしか思えません。あるいは神武天皇東征の時に隼人は二つに分裂したのかもしれません。そのために「つちくも」「えみし」などの言葉と同じように、自分たちに「まつろわぬ」からこそ「熊襲」という言葉が使われ始めたのでしょうか。一種の近親憎悪のようなものなのかなという気がしています。いずれにしても、景行天皇は熊襲に対して騙し討ちをしてようやく勝利を得ることが出来たのです。ヤマトタケルにしても父親と全く同じように騙し討ちにより相手を倒しただけのことでした。


「やまと」の勢力拡大の最大の理由とは「恭順すれば滅ぼさず」という相手勢力を組み込んでいく方式にあると思います。ところが熊襲にはこの方式があまり効果を発揮しなかったのかもしれません。調略という手法が効果を及ぼさない相手だったために、一転して徹底的に相手を叩きつぶすという戦法を採ったでしょうか。この理由は、彼らが「やまと」と同格の血統を有していたからなのかもしれません。


仲哀天皇に残された仕事と言えば日本統一をより強固なものにすることであったと思います。そのための九州出陣だったはずなのです。熊襲を従わせる事とは祖父の景行天皇から始まって父親の日本武尊、そして自分へと三代にわたる大事業でもありました。しかし熊祖が従わなかったというのは立場を変えれてみれば当然とも思われるのです。何故ならば彼らは「やまと」による「騙し討ち」という卑怯な手法で肉親を殺されているからです。これでは相手に対する恨みや憎しみが増すことはあっても、親しみを感じたり相手に従おうなどと思う気持ちが起きるはずがないからです。熊祖側としては遙かな過去は別にしても、現在では「やまと」を不倶戴天の敵だと感じていたように思います。誰でも自分の父親を騙し討ちにされて従うわけがありません。この点からみると、本来ならば是非とも懐柔すべきだったはずの相手に対する景行天皇の判断は愚かであると思います。日本武尊の採った戦法もまた、大胆さだけが表面に現れただけの愚かな選択であったと言わざるを得ないのです。


九州に到着した「おきながたらしひめ」は強烈な天啓を受けたのでした。これはジャンヌ・ダルクが神の啓示を受けたものに極めて近いものがあるように感じています。インスピレーションの究極のかたちとは神の言葉を啓示として具体的に感じる事であり、それは時空を超えて現れるものなのかもしれません。