2003/01/22



神功皇后の煌めき2


玄界灘という巨大な障壁を越えて出兵する事が可能であったのは、「やまと」による全国統一が日本武尊によってなされために巨大な軍事力を有するようになったからだろうと思っています。いくら「気長足姫尊」の神託が強烈なものであったとしても、物理的や能力的に不可能なものはどのようにしても出来るはずがないからです。神功皇后の神託を可能に出来たという事は即ち「やまと」がその時点で軍事的実力を備えていたという事になります。これは西暦でいうと4世紀半ば頃に当たりますから、考えてみると(考えなくても??)ものすごい出来事だと思います。


もっとも、人間の個々の能力は1000年や2000年経ったとしても、それ程大きく変化するわけではありません。今から1000年前の平安時代に生活していた人よりも、自分の方が優れていると感じるのは完全な思い込みだと思っています。社会システムや科学技術の発達によって、現代の私たちは過去の人達よりも恵まれた環境に生きていますが、この事と個人の能力とは全く別物であるからです。例えば、各部族で伝えてきた「伝承」とは語り部の頭脳に記憶されたものですが、現代人なら誰でもが彼ら以上に伝承を記憶出来るできるわけではない事からも明らかだと思います。


明治に至るまでに日本列島から玄界灘を超えて朝鮮半島に戦線を展開した例を挙げてみると、中大兄皇子の「白村江の戦い」や秀吉の「唐入り」などほんの数回しかありませんでした。一方、大陸側から日本列島へ侵略してきた例にしてもユーラシア大陸を席巻した元の指揮の下にたった一度あるだけなのです。このように大陸と日本列島を隔てた天然の大濠である「海」は巨大な防御力を持っているのです。この極めて防御力の高いバリアを超えて相手側世界へ軍勢を繰り出すには、想像を絶するほど超絶したパワーが必要にされるのです。特に「人力の時代」にはこれが100パーセント当てはまると考えています。島国である日本からみても、あるいは朝鮮半島側からみても、この大自然によって作られた海原はとてつもなく大きな境界線であったのです。これを超えるためには極めて強大な国力が必要とされたわけです。


ちなみに茨城県が明治維新以降、昭和後半に至るまで後進県であった理由も同じようなものなのです。つまり、利根川の広大な川幅が巨大な壕として東京と茨城の間に立ちふさがっていたからなのです。利根川の下流部は自然の壕としての能力が高すぎたために、これを乗り越えるには多大の資本投下が必要だった事が発展を阻害した大きな要因に上げられています。


朝鮮半島には有史以来数え切れないほどの侵略があったといわれています。しかしそれが日本列島にまで及んだ例が僅か1度しか存在していないのは、「海」を超えて兵力を送ることがいかに困難な事柄であるかという事をはっきりと私達に示していると思っています。また戦略上から考えても退却路を絶たれる可能性があるところに軍団を送るというのは、軍勢が全滅する可能性が高いわけですから、このような点から考えても上策ではありません。


漢民族を中心とした東アジア世界とは農耕民族と北方遊牧民族の角逐の場所であり海戦とは無縁の場所でした。また日本海北側に当たる東北部では半狩猟、半農耕民族が活動していた場所になりますから、海戦を行えるほどの全体力が無かったように思います。要するに東北アジア地域では海戦に対するノウハウがほとんど存在していなかったように思えるのです。


いずれにしても歴史上日本列島に対する侵略者の軍勢が到達したのは元だけであり、この事実は朝鮮半島までが大陸世界の限界である事を示しているように感じています。日本列島はその地理的条件のため、にモザイク世界である東南アジア世界から更に孤立(独立)した世界として存在し形成されていくようになったのではないでしょうか。勿論、海外に対してあらゆるチャンネルの交流が皆無だったわけではありませんし、人的交流は古代から続けられていました。ですからこれは決して日本孤立論ではありません。しかし「東アジアは一つ」というイメージは人が移動するスピードを無視したものであり、現代のように短期間で往復できる環境ではなかったという事実の前には余りにもアバウトすぎる虚構のように思われるのです。アジアは各地がそれぞれに独立した存在であり、それぞれが特殊であり、それそれが特徴を持っていた世界であると私は考えています。


中国歴代王朝との交流の頻度を朝鮮半島と比べてみれば、あらゆる面での交流がいかに少ないものであったのか良く分かると思います。これが結果として日本社会が中国社会とは異質の存在である最大の理由なのかもしれません。そして大文明圏から隔離された場所の住人だからこそ、日本の知識人は純粋に中国の文物に憧れたという面が強かったように感じています。これはアメリカ社会に対する憧れが第二次世界大戦以後の日本社会を覆っていた事実とよく似ているようなものなのかもしれません。反米の人にとってもその対象が違っているだけで本質的には相似形だったと思います。これは海外にユートピアがあると信じてきた日本人の持つDNAのなせる技なのでしょうか。


人間の思考を実現するためにはそのためのバックボーンが必要であるのは全てにおける必然の法則です。これは100メートルを最大限速く走るには最も合理的な体の動きが必要になるのと何ら変わるところがないのです。勿論各人の運動能力差によりタイム的には差が現れますが、その人にとっての最高値を出すための方法に差があるわけではないからです。


「鰐浦から出発された。そのとき風の神は風を起こし、波の神は波をあげて、海中の大魚は全て浮かんで船を助けた。風は順風が吹き帆船は波に送られた。舵や楫を使わないで新羅に着いた。」と日本書紀には書かれています。


この部分を読むとますます神功皇后が所属していた「おきなが」グループが海に精通していた集団であると思われてきます。何故ならば、ここに書かれている事柄は本当に実在するからなのです。カツオ等の大群がイルカや鮫などに襲われた時に、襲ったものよりもより大きくて無害な物にぴったり取り付く事が知られています。これは「なぶら」といって襲った相手よりも大きな魚に似せる事によって身を守る方法なのです。カツオ近海漁業者には常識だそうですが、海に精通していない人にとっては分かるはずがない事柄だからです。魚の大群が「やまと」の兵を乗せた船を運んだというのは決して空想的な表現ではなく、事実だった事をそのまま伝えたのだと考えた方が説明がつくのです。それにしてもタイミング良く魚の大群に遭遇するとは神の恩恵を感じたように思います。


新羅までの海路を最短の時間で渡りきるために、決行の日時は周到に計画されていたと考えた方がいいと考えています。強烈な追い風の日を選んで、カツオの大群に船が背負われるようにして一気に進むという戦法は、「海の民」のノウハウがあればこそ可能だった戦法だと思います。また、乗船している兵士達もまた水に慣れ親しんでいる事が、乗組員としての必要条件になるのは当時の技術からして当然であるといえます。島国である日本では主な移動手段が船であったのは間違いがありません。このような水上交通の発達が「水軍」の発達を形成する大きな背景として挙げられるように思っています。


電撃的に新羅を制圧する事に成功した神功皇后は、新羅王城の門に手にしていた「矛」を立てたと書かれています。この事は彼女の一方の先祖である「天日槍」に因んで行われたものなのかもしれないと思われてきます。しかし私はこのシーンを読んで「インデペンデンス・デー」のシーンを思い出してしまいました。新羅という小国家からすると、「やまと」は宇宙から突然来襲したエイリアンのようなものなのかもしれません。いずれにしても、この瞬間から「やまと」と朝鮮半島の政治的な関わりが始まったといえるのです。