2003/03/11



神功皇后の煌めき5


神功皇后の時代は、大体ですが西暦350年付近に想定する事が出来ます。この時代は「空白の4世紀」とか「謎の4世紀」などとも言われています。しかし、この言葉が正確な使い方ではないのは余りにも明らかです。「空白の4世紀」の意味は「中国の資料には書かれていない」という事を意味しているものだからです。「空白」の本来の意味とは、「書いてあるべき部分に何も書いてなくて白い所」とか「あるべきものが何もない、または何も行われないこと」というものです。ですから、この言葉の使い方はかなり飛躍したものだと言えるように思っています。この例のように主語を省いた使い方をするのは日本語として正しくありません。この言葉に接した読者は誤って理解してしまう可能性が極めて高いのではないかと感じています。用語をセンセーショナルに使うというのは「効果的」であると判断したからだと思われます。しかしこれでは、もし対象となるものが真実だとしても、逆に訴える力が減少してしまうように思えてくるのです。いずれにしても、この時代に対する「基本的認識」として大きな誤解を生じてしまいますので、この点は是非改善して欲しいと思っています。


「空白の4世紀」とは、単に中国大陸に興った歴代王朝の資料に4世紀の日本の状態が書かれていないと言っているに過ぎません。つまりは、中国側の資料には4世紀の日本史を再構築する手がかりがないために分からない、と言っているようなものなのです。これは日本の古代史を考える上でちょっとピントがずれているように感じています。日本古代史の最も重要な資料が中国に保存されているはずだ、という基本的な仮定そのものが元々間違ってるのではないかと思うからです。中国側の資料とは、あくまで自分たちと接触(=交渉)を持った相手を、自分(=中国側)の視点によって書き留められている物だからです。日本の古代史を再構築する手がかりは中国にだけ存在しているわけではないのです。常識的に考えれば、日本のことは日本に最も多く痕跡が残されているはずなのです。中国の資料に書かれていてもいなくても、この時代にも日本列島で生活をしていた人々がいたのは当然の事です。


ちなみに4世紀の東アジアの状態とは、中国大陸北部の各地域に生活する各部族がそれぞれ活発に自立のための活動を行っていました。これは中国の政治史では「暗黒の時代」と呼ばれる政治的中心を欠いた大きな混乱の時代だったのです。後漢の滅亡から三国志の時代を経て成立した晋の弱体化から、混沌の時代は始まっているような印象を受けます。しかし、実際は秦・漢帝国の統治が広大な大陸の遠方にまで行き渡ったために、辺境(もちろん、中華から見て)の各部族がこれに接して覚醒したためだ、と捉える事が出来るように思っています。殷や周などの古代王朝の存在は漢民族が世界史的にみても有数の「早熟」だったことを体現していると思っています。つまり時代を遡れば遡るほど、成熟度の高い漢民族は他民族に対して圧倒的優位を誇っていたという事です。ところが時代が下るとともに、匈奴などに代表される各部族との力関係が逆転していったという事なのでしょうか。


この時代の華北地域では五胡十六国と呼ばれる興亡がありました。五胡十六国とは西暦304年に前趙が建国してから、同439年に北魏が統一するまでの約130年間に、五胡が建てた13国と漢族の建てた3国の総称を言っています。13国とは成、前趙、前燕、後趙、前秦、後燕、後秦、西秦、後涼、北涼、南燕、夏、南涼であり、3国とは前涼、西涼、北燕です。ちなみに五胡とは匈奴、羯(けつ)、鮮卑、低(てい、本来は人偏無し)、羌(きょう)の各部族を指しています。東アジア世界の住人にとって、「世界の中心部」とも言える華北地域では猫の目のように覇権が移動する状態にあったのです。これではとても海を越えたところにある「圏外」の事などにかまっていられなかったのは容易に想像がつくと思います。


日本列島は大陸から切り離された環境にあります。陸続きである大陸の各地域と比べると、漢民族の衰退と北方系民族の勃興による影響はかなり減少されたものになったとしても、このダイナミックな動きに全く無関係だったというわけではなかったと考えています。「やまと」が勢力を拡大して日本列島を統一し、更に勢力を朝鮮半島にまで伸ばすという事も、東アジアの各部族の勃興という面から見れば特殊な出来事であるとは思われません。「やまと」が全体力を増加させて勢力を拡大する行動は、4世紀の東アジア全体で見ると理解しやすいように感じています。


「神功皇后架空説」に代表される日本列島未開地論は、古代東アジア史からみると極めて不十分な意見のように思われます。つまり「空白の4世紀」とは中国の資料に書かれていないことを良いことにして、「神功皇后架空説」を作り出すための根拠とされたような気がするのです。神功皇后架空説とは、4世紀のような早い時代に日本が海を越えて朝鮮半島にまで兵を送れたはずがない、という結論から成り立っているものです。このように「先に結論ありき」という姿勢は科学的態度による考察とは正反対のものです。日本は未開の土地であり後れていたはずだ、という意見は黄河文明や殷・周などの古代文明と比べれば間違いありません。しかし、古代文明に接した各民族はそれぞれが触発されて国家形成のための活動を続けていったのです。極東アジア地域から朝鮮半島に焦点を当ててみると、まず紀元前1世紀に高句麗が興り、4世紀に入ると三韓の中から百済や新羅が建国されました。


実は日本書紀や古事記ばかりではなく、神功皇后の新羅征伐を裏付けるような記録が各地に残っています。神功皇后を祭神とする神社は宇佐八幡宮をはじめとして全国に800社以上あるのです。そのうちの100社以上が山口県に存在しています。これは神功皇后の活躍したエリアを示しているのではないでしょうか。確かに「紀年」とは日本古代のオリジナル性が高すぎるために、スタンダードに換算した場合の「年代」の特定が何処まで正確なのかという判断が難しいのは事実です。しかし、「キリストが生まれてから何年である」という意味を持つはずの「西暦」ですら、キリストの生誕年が6年もずれているのですから、正確な年の特定とは容易に出来るものではないのです。


トンデモ的に言うとですが、神功皇后の三韓征伐を正当化(=理由付け)するために、本来は朝鮮半島と全く無縁である神功皇后や応神天皇のために、遠い先祖として「天日矛」を作り出したという事も可能なのではないかと思われてきます。あるいは天日矛が実在の人物だった場合なら、彼は新羅とは無関係の人物だった可能性も出てくるような気がしています。つまり神功皇后が新羅と全く縁もゆかりない全くの「赤の他人」であっては、いくら強烈な神託の結果だったとしても、わざわざ海を越えてまで遠征する事の説明をどうしても納得させる事が出来ないからだ、と理由付けすることが可能だからです。これは胎中天皇という異名から、応神天皇によって神功皇后が生み出されたという「神功皇后架空説」にひねりを入れたものです。


世界史のいつの時代でも、広大な領土を征服した人物は栄光とともに「大王」として誇らしく語られています。これが「世界標準」なのだろうと思います。しかし、更に「もっともらしい説明」が付けば鬼に金棒なのはいつの時代でも真理なのではないでしょうか。そのために、かつて行われた三韓征伐が、単純な勢力拡大ではなく、正当性を持ったものだったという理論武装を計ったのであるという説も成り立つような気がします。これは現代とは違った理屈が通用していたであろう古代社会でも通用する真理なのではないか、と思えてきます。何故ならばいくら神託が大きな力を持った時代であったとしても、それを多くの人たちに理解納得させるようにするには、分かりやすく伝える必要があるのではないかと思うからなのです。新羅と熊襲との関係もその一つかもしれません。同様に新羅と出雲の関係も考えられるような気がしています。天日矛によって神功皇后の新羅征伐や「やまと」による支配の正当性を作り出したのかもしれません。そして、応神新王朝説などは、この「いい訳のトリック」に陥っているような気がするのです。


江戸時代までは「何処の家に生まれたのか」という点が、その人の一生を決定していたと言っても過言ではありませんでした。江戸時代にみられる「家柄制度」の原点は「やまと」にあるのです。ここで誇るべきものは「血統」でした。これを正確に記録するために、日本書紀の編纂に30年以上の年月をかけているのだろうと思っています。何故ならば、「血統」を現す系譜に関しては、全ての豪族達が納得出来るような「正確で公平」なものでなければならなかったからです。つまり、「やまと」の豪族達全員による相互監査システムが働いていたようなものだったからなのです。もし、編纂スタッフの独断が許されるのであれば、2〜3年もあれば「一書に曰く」などの並記をせずに合理的にまとめることが可能だったはずだと思います。


基本的に言えば「血統」とは、新参者がどのように誤魔化そうとしても誤魔化しきれるものではないと思っています。これは名門などの意識が21世紀の現代でも依然として残っているという事実から判断しても、古代に於いては最上位にくる価値観だろうと思うからです。「血統」に対する認識は現代の私達が思う以上に、古代に生きる人たちにとっては遙かに重要なことだったはずだと私は思っています。「やまと」の構成員として「やまと」にどのように貢献してきた家柄であるのか、という事が日本書紀に書かれているのです。何しろ、どの家に生まれたかどうかでその人の一生が決まってしそまうと言っても過言ではないのですから、自分だけではなく先祖の努力を正確に記録していない書物が豪族全員に認められるわけがないのです。


新羅のような弱小地域からやって来た者が一国の王になるという話は、一種のアメリカン・ドリームのようなものであり、心躍る冒険小説としてはグッドな題材だと思っています。「王になろうとした男」というショーン・コネリー主演の映画がかつてありました。これは軍隊上がりの山師コンビがアレクサンドロス大王遠征以来、白人がひとりも足を踏み入れたこともない秘境・「カフリスタン」なる国に潜入し、その国王になろうという野望を抱いたという物語です。


確かに日本人は舶来品に対して「信仰」に近いような有難味の感情を持っている人が多いように思われます。しかし、いくらこのような感情を持っているとしても、外の世界からやって来た人を自分の「主人」と崇めて、自らは彼らの奴隷になるような「お人好し」は存在しません。また、このように考えるのは余りにも倒錯した感覚だと思います。明治時代になってこれまで知らなかった知識が西洋から到着して、日本社会は「新しい物」としてこの文化を受け入れました。例えば「迎賓館」はヴェルサイユ宮殿をモデルとして造られた建物ですし、大日本帝国憲法はドイツ憲法を参考にして作成されました。しかし明治時代の日本人は、彼らの奴隷になろうとは露程も思っていないのは余りにも明白です。古代であろうともこの感情は不変であると思うのです。


七支刀は「対高句麗戦」のお礼として百済から贈呈されたものであるとみられています。これは時期的にも神功皇后から応神天皇の時代と一致しています。高句麗の軍事的な朝鮮半島南下策というのは、華北地区で争われた五胡十六国の盛衰に極めて密着した動きになっているのです。高句麗は鮮卑族の前燕(西暦337年〜370年)の軍事的圧迫を受け続けていました。北方からの脅威に対抗していた高句麗は南下策を取りようがなかったのです。しかし、西暦370年に前燕が滅亡すると状況は一変したのです。これ以降、高句麗は百済、新羅に対して侵略行為を強める事になります。神功皇后の新羅征伐により「やまと」の軍事的実力を知った百済が、高句麗に対抗するために「やまと」に援助を求めた、という図式こそが「白村江の戦い」までの国際関係を決定したように思っています。


好太王碑文の時代とは391年からおよそ10年間にわたる「高句麗」対「やまと・百済」の攻防戦に相当するのです。当時5万人もの大兵力を動員して戦う相手「倭」とは「やまと」以外には存在していません。5万人もの騎兵を繰り出す高句麗の国力がものすごい事なのは当然ですが、敵対した「やまと」が動員した兵力もまた高句麗が5万人もの大軍団でなければ対抗できなかった程の大軍であったはずです。これは神功皇后の息子である応神天皇の時代だろうと考えています。


新羅征伐から生還した神功皇后たちは、香坂王(かごさかのみこ)、忍熊王(おしくまのみこ)と王位継承戦争をすることになります。この時に神功皇后を助けて大活躍した人物として武内宿禰が挙げられます。「やまと」の勢力を拡大させた新羅征伐を遂行し、息子である誉田別皇子(ほむた わけ の みこと=応神天皇)の擁立をする神功皇后の姿は、40年間も皇位にあってプロイセンなどの列国と「継承戦争」などを戦い抜いた大女帝「マリア・テレジア」の姿に、とてもよく似ているように感じています。16人の子供を産みながら20年以上も戦い続けた彼女の姿は、時代と場所は違っても、まるで双子の歴史のように感じられて来るのです。オーストリア皇帝にして神聖ローマ皇帝妃だったマリア・テレジアは、夫フランツ1世の神聖ローマ帝国の帝位を確保し、息子であるヨーゼフと共同統治を行いました。まさに歴史は時空を超えて繰り返される思いがします。



参考
※五胡十六国

匈奴 前趙(漢)304〜329 羯(ケツ) 後趙 319 〜351 鮮卑 前燕337 〜370
北涼   397 〜439 後燕384 〜409
夏(大夏)407 〜431 西秦385 〜431
南涼397 〜414
南燕398 〜410
低(テイ) 成(大成・漢)304 〜347 羌(キョウ) 後秦384 〜417 漢族 前涼301 〜376
前秦351 〜394  西涼400 〜421
後涼386 〜403 北燕409 〜436


※神功皇后系譜

天日矛
開化天皇 多遅摩母須玖
日子座王 多遅摩斐泥
山代之大筒木真若王 多遅摩比那良岐
迦爾米雷王 −−−− 高材比売 多遅摩比多訶
気長宿禰 −−−− −−−− −−−− 葛城之高額比売
神功皇后


※マリア‐テレジア

神聖ローマ皇帝カール6世の娘、オーストリアの皇帝(在位1740年―1780年)、神聖ローマ皇帝妃。
プラグマティッシェ・ザンクツィオンにより1740年に即位し、ハプスブルク家の全領土を相続しました。
しかし、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト、スペイン王フェリペ5世、ザクセン侯アウグスト3世たちがその王位を要求し、さらにプロイセン、フランスが介入して「オーストリア継承戦争」が起こりました。
プロイセンにシレジアを割譲しましたが、夫フランツ1世の神聖ローマ帝国位を確保しています。
「7年戦争」に敗れましたが、農奴の解放や中央・地方行政組織や軍制の整備、産業育成などに努力した典型的な啓蒙専制君主の1人に挙げられています。