2003/02/25



神功皇后の煌めき4


神功皇后の活躍した時代とは一体いつの頃に相当するのでしょうか。西暦に換算しないと、世界史的な時間軸の中で日本史を理解する事はなかなか出来るものではありません。これは現代人特有の感覚だといえるのかもしれませんが、基点を定めないと連続した時間の流れを掴みづらいのは誰にとっても真理であると考えています。つまり現代人ばかりでなく、例えば江戸時代に生きた人にとっても、1000年以上のスパンの時間軸の中で様々な事象をトータル的に捉えるのはなかなか難しく感じられたはずだと思います。


私たちが複雑に絡み合った数々の出来事を、なかなか有機的に組み立てて理解できないのは、古代に生きる人にとっても同様だったような気がしています。ひょっとしたらですが、紀伝体と編年体という二つの代表的な記録方法があるのは、お互いがお互いを補完し合うために考え出されたような気がしてきます。もっとも、古代に生きた一般の人にとって歴史とは、自分に関わる部分だけが必要とされたのだと思います。そうなると日本史の全体像とは、「かつての記録」というだけのものであり、一族に伝承されているものがあれば特に不便を感じなかったのかもしれません。


日本書紀における時間の表記は、現代の私たちからみると非常にアバウトに感じられて仕方がないはずです。何しろ、何人もの古代の天皇が100年間も生きていたと書かれているのですから、これを読んだ時点で「おかしい」と感じるのは当然の感覚だと思います。寿命には限りがある、という絶対的な時間制限に関して言えば、古代の方が劣悪だったのは間違いがありません。それは自然環境に対するものであったり食生活に依るものだったりします。現代のように医療技術の進歩した時代ですら、100歳以上の長寿を達成出来る人は希なのですから、古代の環境で100歳以上の天皇が続出するのはどう考えても不自然なのです。


しかし、この一点をもって日本書紀が「ごじゃっぺ」(※茨城弁 ぱんださんの茨城弁変換ソフトを参照のこと)であると結論付けるのは、余りにも性急すぎるものであると思います。何しろ日本書紀が「ごじゃっぺ」であるとするならば、ここからは真実を得る事が出来るはずがないからです。日本書紀に書かれている特定の部分だけを取り出して再構築する事は、極めて恣意的であり、いかに理屈を付けたとしてもダブルスタンダードに陥るように思うからです。要するに、そんな都合の良い方法が許されるのであれば、どんな物語でも作るのが可能になってしまうからなのです。


日本書紀における時間の表し方は天皇の在位に合わせています。これは、その世代に生きた人にとってみれば、同時に時を生きていたわけですから、私たちが考える以上に理解しやすい方法なのかもしれません。特に文字のない伝承の時代にとっては、「○○天皇15年時〜」のような覚え方の方が誤差を少なく出来るものだったのかもしれません。そして伝承はそれを重ねて行く度に少しずつ誤差を生じるものであるとしても、木の幹に当たる本質的な部分に関しては極めて正確に伝えられてきていると思っています。天皇在位何年というのは元号的発想に極めて近いものがあると感じています。


同じ用語(あるいは単語)が同じ意味を持つものであると考えるのは当然の事ですから、同じ意味を持つ必要があります。もし同じ意味を保持する事が出来ないとすれば、いくらこれを読んだとしても、書かれている内容を正確に理解することが出来ないからです。専門用語の場合は特に当てはまると思っています。同じ単語が同じ意味を持たなければ、内容を共有する事が出来ないのですから事態は深刻です。英語のような外国語の場合だと、日本語と徹底的に違っているために私達は初めから「異質」であると十分に認識しています。ところが「漢字」の場合は、古代から全く意味が変わらずに使われてきたものである、と無意識のうちに信じ切っているところがあるのではないでしょうか。


これは同じ漢字を使うからといっても、中国人の使用する場合の単語の意味と、日本人が使う場合のそれとでは違った意味に使われている事に似ているのかもしれません。例えば「東洋」という単語は日本では「東アジア全体」を指しています。しかし、中国では「日本だけ」を意味しているのです。「東洋一」と日本人が言った場合と、中国人が言った場合とでは意味が徹底的に違ってしまう一例がここにはあります。


「年」という漢字に当てはめた言葉の意味が、古代と現代では違っているのは明らかです。「年」という漢字に限らずとも、その意味するところが昔からずっと全く変わらずに同じであると仮定することは少し危険だと思っています。おそらく、古い伝承の時代の「年」という漢字は「季節」という意味合いで使われていたのではないかと思っています。あるいはもっと大まかに「時間」のような意味だったのかもしれません。これは当時の言葉に「季節」と「年」の区別をつけるものが無かったのかどうかを推し計っている訳ではありません。しかし、もし季節という意味を持っている別の言葉があったとしても、「年」という漢字を当てはめてしまった可能性は否定できないような気がしています。よく言われる天皇の在位年数にしても、果たしてこの「年」という用語が、今のように365日の長さの時間を意味していたのかという点については、かなり疑わしいと思っています。


天皇在位が異様に長いという疑問は、必ず合理的説明が付くはずだと私は考えています。例え同じ漢字や単語だとしても、それらが持っている意味は一つばかりではありません。ある概念を幾つかの表現方法によって現そうとしているのが「単語」であるわけですから、主として使われる意味の順位が変動する事は十分に考えられるからです。また、漢字とは本来は日本人が話す言葉を記録するために生み出された物ではない、という歴史的事実から判断しても、当てはめた漢字がジャストフィットするのかどうかについては疑問が残るような気がしています。何故ならば古代の天皇が100歳も生きたわけがないからです。もちろん、例外的に長寿だった人物の存在まで否定するものではありません。しかしそれは一般的に見て殆ど不可能であると断言出来る事象です。これは人間に限らず動物の生命は物理的制限を受けているのは今も昔も変わらない真理だからです。


「年」が季節を意味していたとしても、春夏秋冬のそれぞれの季節から次第に「二季」を指すようになり「四季」へと変わっていったような気もします。この考えを推し進めたのが「春秋年」という発想だと思います。いずれにしても同じ単語であっても同じ意味ではないのです。


しかし、もしそうであったとしても「伝承」とはテープレコーダーの人間版ですから、「口から発せられた音」を忠実に記録する事こそが最優先されたはずなのです。語り部が伝承を意訳することなどあり得ません。勿論、記録(記憶)違いの可能性は否定できません。伝承の継続とは伝言ゲームでもあるために、内容がオーバーになっていく部分は否定できないと考えています。もっとも、これは文字によって記録するようになっても、同様の瑕疵は起こり得ます。原本を写本していくうちに、書き間違いなどを起こす可能性が十分にあった事を考えれば、原本の完璧な保存はどちらにしても難しいものなのです。日本書紀に多くの異伝が並立して記録されているように、日本書紀の編集者達は「あるがまま」に記録することを選択しているのです。不可解だと思われる点については「後世の学者に期待している」(=後勘校者、知之也)と書かれています。ちなみにこの精神は大日本史編纂にも受け継がれています。


要するに日本書紀の編纂者たちは「年」という「違った意味に使われている同じ単語」を、そのまま正確に記録したのだろうと思うのです。この根拠は、同じ季節が巡ってくるためには360日(くらい)が必要になるのは古代に生きた人であっても当然知っていた事柄だからです。そしてこれは予想通りに現代でも混乱を招いているのです。


ちなみに広辞苑によると以下のようにあります。
とし【年・歳】
@(同じ季節のめぐるまでの間。年に1度の収穫を基準にしたとも) 時を測るのに用いる単位。通常は1月1日から12月31日まで。1年。暦年。ねん。「―の始め」「―の暮」
A太陽暦では、地球が太陽の周囲を1周する時間で、365日5時間48分46秒。
B太陰暦では、月が地球の周囲を12周する時間。
C惑星がその軌道を1周する時間。
D年齢。積み重ねた年月。よわい。「―の割に若い」
E穀物、特に稲。また、そのみのり。万一八「わが欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも―は栄えむ」
F季節。時候。宇津保梅花笠「今年はあやしく―急ぎて、遅き花とく咲き」


今までに数多くの方たちが「紀年」を解読しようとして様々な説を出されています。神功皇后の時代ばかりではなく、神武天皇とはいつ頃の人物なのかと研究をされています。私の場合はこのような説から見ると自分でも非常にアバウトだと思うような捉え方をしています。歴史上からみた似たような事象と思われるものに注目して、これらを比較対照をする事によって紀年を推論してみました。天皇家の歴史は余りにも長いために、その性質もずいぶんと変化してきているのは当然のことです。そのためにも120代以上にわたる全体を見てしまうと、覇者として存在していた頃の天皇家の状態を理解出来なくなってしまうと考えているからです。あくまで創立者を基点にして10代、20代、そして30代くらいまでが、その組織や一族の活力が溢れていた時間であると考えています。


室町幕府や江戸幕府の成立とは、名目上は別にしても実態は一種の革命による新政権の樹立である事は間違いがありません。新政権が成立するという事は、旧政権から「国譲り」を受けた結果であると考えることが出来ます。室町幕府の存続期間は235年間です。そして歴代の将軍数は15人でしたから、1人あたりの将軍の平均在位年数は15.6年になります。同様に江戸幕府の場合をみると、264年間で15人の将軍がいましたので、平均は17.6年間になります。ちなみに鎌倉幕府の場合は源家が3代で滅亡していますから、上に挙げた両幕府の場合とは異質になりますが、それでも141年間で9代というのを平均年数に換算すると1代あたり15.6年になり、殆ど同じくらいの年数になります。つまり、3幕府とも将軍の在位年数の平均は16年前後の誤差のレベルと判断出来るのです。


私の基本的発想は「1人あたりの在位年数が○○年なので、◎◎代だとこの位の年数であろう」という考え方ではなく、15代というある程度の大きなまとまりを一つの単位として、これを適応させて時代を推し量ろうというものです。要するに一人一人を調べるのでは各人の誤差が大きくて「モデル」を見つけ難いと思うからです。しかし、15代くらいの期間を一つのスパンとして判断するのであれば、各人のイレギュラーが相殺し合って「平均的」になってくるはずだと考えたのです。室町幕府、江戸幕府の例をみても、250年間を経過するためには、15代くらいの代替わりが必要になると仮定するのは可能だと判断しています。江戸幕府の例を見ると、宗家直系が4代で途絶え、5代目は兄弟相続になり、8代目は分家からやって来た人物が宗家を相続するというパターンになっています。このように非常にバラエティに富んだ相続形式を徳川将軍家に見ることが出来ますので、天皇家にしても将軍家にしても個々に焦点を当てる事から全体像を構築するのが難しいと思うのです。


そのために250年間の時間を経過するには15代が必要である、という幕府の例をそのまま当てはめてしまう方が、大まかな捉え方としては正しいような気がしています。そうすると、分かり易く西暦600年の推古天皇を起点として逆算していくと、神功皇后の時代とは大体ですが、西暦350年くらいに相当します。神功皇后とはこの時代に存在した人物だと想定する事が出来ると思います。丁度この時代には倭が新羅を攻めたという記録があります。