2002/9/16



古代史の風景2


秦の始皇帝が中国大陸を統一した事により歴史上初めて初めて「中国人」が登場する事になりました。今からおよそ2200年くらい前の出来事です。それまでは中国大陸に住む人たちにとって彼らの住んでいる国々がそれぞれ(小さな)中心であり必ずしも長安付近が世界の中心であるという認識はなかったように想像しています。当然の事ながら辺境という意識もほとんど持っていなかったと考えています。ところが始皇帝による中国大陸統一という偉業はこの土地で生活する人々に巨大な版図(=世界)を十分にイメージさせる事になったのではないかと思うのです。


勿論、人力の時代に広大な東アジア大陸を政治的に統一するためには武力以外にも圧倒的権威・権力のパワーを必要としたのはいうまでもありません。そのためにちょっとでも求心力が弱まった場合には広大な空間をまとめるのが困難になり、積み木崩しのようにあっさりと中央を頂点とした権力構造が崩れるのだろうと思っています。中国大陸では政治的に分裂していた期間の方が統一されていた期間よりも遙かに長期にわたるという事実が人間の能力の限界を明らかにしているように思っています。中国大陸の地形はヨーロッパ大陸に比べて平原部分がかなり多いとはいえ、この広大な空間を一つの王朝が統一を続ける事が如何に困難であるのを私達に教えてくれているように思っています。約2200年の時間の中で約3分の1くらいの期間しか政治的に統一されていないといっても過言ではありません。本来ならば人力の限界を遙かに超えた距離を持つ空間を統一しようと試みる事の方が不自然なのではないかという疑問も持っています。それでも彼ら(=中国人)が統一という幻想を捨てないのは始皇帝のおかげと言っていいのかも知れません。


古代東アジア地域の更に極東地域に日本列島は存在しています。この地域の歴史は世界史にみても文明の有数の早熟地域であった中国の影響を多く受けているのは明らかです。遙か古代の時代において大陸から海を渡り日本列島に向かった人の流れがあったことは確かです。尤も日本列島から逆に大陸へと向かった人も相当数いたはずなのですが、こちらの方はあまり考えられていないのは不自然な感じを持っています。


中国で前漢が滅んだ頃から日本列島の歴史を考えてみようと思っています。中国大陸の統一政権の成立以前に稲作が日本列島にもたらされていますから社会構造はそれまでの狩猟形態から農耕社会へと変貌を遂げつつあった時代でもあります。西暦0年頃とは史上初の中国統一から約2世紀ほど時代が過ぎていますが、地中海世界では大ローマ帝国の発達がありクレオパトラが実在したのもちょうどこの時代に相当しています。大ローマが共和制から帝国へと変わった頃とはキリストの活躍した時代でもあります。


「漢委奴国王」の金印は57年に後漢の光武帝から「奴国王」に与えられたものですから、この時代に既に日本列島が中国大陸と政治的な交渉を持っていた事実が分かります。後漢の皇帝から金印を貰ったということは当然の事ながら朝貢をした証拠であると考えられるからです。そして朝貢をするというのは単なる交易レベルではなく、かなり高度な政治的関係を持っていた証明になるように考えています。後漢書倭伝には倭国大乱の様子が書かれていますから、大帝国「漢」により「漢委奴国王」を任命されるように画策??したのかもしれません。つまり戦国時代と同じような群雄割拠の状態の中で自らのポジションが一段高いものであるとライバルである周りの国々に示そうとした事が動機かも知れないと思っています。


中国大陸に成立した統一王朝が強大であれば圧倒的国力の差のために、この王朝の周辺にある諸国は服従関係を結ぼうとする事になりました。これを大雑把に日本史で例えれば秀吉と諸大名、あるいは徳川幕府と諸大名の関係のようなものだろうと考えています。ところが後漢が滅んだ後の中国大陸は一転して政治的混沌の時代に突入することになりました。後漢の滅亡から隋による中国大陸再統一までの期間を魏晋南北朝時代と私達は呼んでいますが、この期間は何と4世紀近くにもわたる長期のものだったのです。この時代は中国に触発された周辺地域の覚醒・発達の時期と捉えるべきではないかと思っています。求心力を持ったワールド・パワーが存在しなくなれば力のバランスが一気に崩れて地域紛争が活発化するのはソ連崩壊後の近年の状況が物語っていると思います。


高句麗は中国東北部に位置しているという地理的要因のために歴代北朝と深い関係を持っていたと言えます。即ち北朝と正面から敵対関係に入る事は安全保障上どう考えても下策になるからです。高句麗は北朝に朝貢したために対立関係にある百済は海路から南朝に朝貢する事になりました。これはある意味では当然の結末だと思われます。そして軍事援助を受けるため百済は日本にも朝貢をしていたという図式になるのです。このようにして「北朝・高句麗」対「南朝・百済・日本」という対立関係が朝鮮半島における国盗り物語を中心として成立したのは当時の国際関係からは当然の結果だったと思われてきます。


朝鮮半島で一番遅れた地域であった新羅は高句麗からの侵攻圧力のためにほとんど従属しているような印象を受けます。高句麗の傘下参加に入ったものと判断していいのかも知れません。これは弱小国であった新羅にとっては存亡の危機に立った上でのぎりぎりの判断であると思っています。同様に海を越えた所にある軍事大国の日本に対しても百済と同じように朝貢をしていますがこれも安全保障からのものであることがよく分かります。一歩間違えれば滅亡してしまうという、このような厳しい環境に日本は歴史上なったことがありません。ですから本当のところ彼らの「必死」さを理解する事は不可能なのではないかと思っています。一見すると実に信義に劣ると思われるような彼らの態度も、生存を賭けた必死さからきたものであると考えれば理解することが出来ると思うのです。


日本の場合は「調」を持ってくればそれで満足していたという事が日本書紀を読むと分かります。要するにこれは「服従すれば滅ぼさず」という方針であったからだと思います。自分の部下を送り込んで直接統治するのではなく服従した現地の豪族の支配権をそのまま認めるという方式を日本統一の代表的手段として採用してきたからなのでしょうか。服従している判断材料がその地方から送られてくる「調」だったのです。これは秀吉の統一方式に実のところよく似ているのではないかと思っています。秀吉も家康のような強力な敵には懐柔策を使って自分の勢力に取り込みました。島津などは服従したために「本領安堵」をしています。しかし、関東や東北の弱小大名に対しては情け容赦なく取り潰しているのです。これは神武天皇の東征の様子によく似ていると思っています。


ちなみに私は神武天皇架空説に対して反対の考えを持っています。伝承の間違いや潤色された部分があることを否定するものではありませんが、基本的には史実に基づいて書かれていると考えた方が話の辻褄がしっかりと合うからなのです。また日本書紀は天皇の神格化のために作られたものであるから嘘であるという話をよく聞きますが、これは全くの事実誤認であるのは明かです。このような考えを唱えている人は実は日本書紀に触れた事すら無いのではないかと思っています。つまり、ちょっとでも日本書紀を読んでみれば日本書紀に書かれている天皇がどのようなものなのかは分かるはずだからです。例えば二代天皇である綏靖天皇は兄弟を殺して帝位(この時は大王の位)についていますが本当に神聖化を画策しているのであればこのようなマイナス面を敢えて記録に残す必要を感じないからです。その他にも天皇のプライバシーを至る所で暴露しているのが日本書紀なのです。普通に考えれても天皇の神格化を目指すのであれば、このような内容を記録する必要など全く舞い筈だからです。人間の最も興味を引くワイドショー的対象だからこそ、このような伝承が多く残っていたのは理解出来ます。しかし天皇の神格化を正に阻害するような内容を敢えて記録に残したという事実は正確であり公平であろうとした証明に繋がると考えています。このような点からも改めて日本書紀の編者達の公正さがよく分かると思うのです。