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まちがいた 投稿者:安部奈亮 投稿日: 5月31日(金)23時43分22秒
推古天皇のときじゃありませんでしたね、もとが作られたと言う説はあったと思いますが
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古事記は 投稿者:安部奈亮 投稿日: 5月31日(金)22時07分32秒
継体天皇以降は当時の現代史扱いで、しかも推古天皇のときに作られたものですから、そのあたりはあまり詳しく書かれていないのが、聖徳太子が書かれていない理由ではないでしょうか?現在の歴史の本でも、現代史はさらっと書くだけのものは多い。評価が定まっていなかったからではないでしょうか?それに古事記には、当時権勢が絶大だった蘇我氏のことも一行も出てきませんよね。継体天皇から後は、まだ記憶に残っていることで、歴史ではなかっただけではないでしょうか?
国書に激怒…
前漢は武帝の時までは匈奴の属国でした。それに取りたてて屈辱感を抱いていたような記録はないです。漢民族が自分の国を絶対無二と思い始めるのはいつ頃からでしょうね。唐のころくらいまではまだ国際感覚はあったのではないでしょうか?宋の科挙官僚たちが頭でっかちでそのあたりから中国人の国際感覚はおかしくなってきたのではないかと私は思っています。国書紛失は、日本を朝貢国として認める、といった内容だったから、太子と小野妹子で相談してなかったことにしたのでしょう。秀吉と石田三成と小西行長が明の国書にだまされたふりをして戦争を終結させようとしたのと同じではないでしょうか。この時は加藤清正と言うあほのせいでぶち壊しになりましたが。
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天智と天武 投稿者:太田守人 投稿日: 5月31日(金)16時45分12秒
私は、天智と天武は余りにも違いすぎていると思います。天智は、ぼんぼんだと思います。これに対し、天武は苦労人で我慢する時は,徹底的に我慢する。家康タイプの人間だと思います。
天武は、遁甲の術に優れていたといいますので、人を韜晦することには長けていたのかもしれませんね。私は、天武が兄で、天智が弟だったと思っています。
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百済・高句麗分断策 投稿者:太田守人 投稿日:
5月31日(金)12時45分58秒
隋・唐は、高句麗に散々苦しめられました。隋の煬帝が有名ですが、唐の2代皇帝太宗も、高句麗を攻め、負けています。しかし、不肖の倅、唐3代皇帝高宗は、成功しています。これは、先に弱い百済を滅ぼすという、実に巧妙な方法を用いますが、これも、武則天の発想だったとか。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:
5月31日(金)08時39分42秒
武則天ですが、私は,スーパー婆さんだったと思っています。唐繁栄の礎を築いたのは、彼女ですからね。唐の黄金期である玄宗皇帝も、武則天の登用した人物で、黄金時代を築いていますからね。ある意味、唐の太宗より名君だったと思っています。彼女の不幸は、生まれたところが中国だったからで、日本に生まれていれば、名君として称えられていたと思いますが?まー、日本みたいな所だったら、あんな功績が残せたかは疑問ですが。大体、名君の第一条件は、情にほだされない事だと思います。彼女は、寵臣でも、失敗したり、ダメだと思うと、ポント捨ててますから、家来は、全力を傾けざるをえない。
龍門石窟の阿弥陀如来像の顔が、彼女の顔をモデルにしたとか言いますが、非常に美人でふっくらしていて、聡明で意志の強そうな女性だったと思います。
楊貴妃は、政治に口を突っ込んでいないのが、武則天と違って、偉いとある本に書いてありましたが、楊貴妃は、政治に首を突っ込めるほどの聡明さはなかったと思います。
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唐は 投稿者:きんたろう 投稿日: 5月30日(木)22時48分10秒
618年から907年まで300年近くも続いた帝国です。
皇帝も20代までいますからこれだけを見るとものすごい長期安定政権だと思ってしまいますが、実は3代目で唐は周に乗っ取られている訳ですよね。
この皇帝が有名な則天武后です。
則天武后は武氏ですから彼女が皇帝になるということは厳密に言えば易姓革命を意味していると思います。
ですから周という別の国名を建てているのだろうと思います。
しかし現実には皇后は夫婦ですからね^^;;
それでも実子を廃嫡して自らが帝位につくというのはやはり尋常ではないとつくづく思っています。
一種の日野富子か北条政子かというところなのでしょうか??
妻の実家の勢力が夫の一族の勢力と拮抗して李氏よりも武氏の方が勝利を得たという図式なのでしょうか??
額田王は額ほどの小さい田んぼしか持っていないのに王なのか、と子供の頃思った記憶があります、笑
漢字はまだまだ当て字でしょうからここから推測するととんでもない方向に進んでいってしまいますよね^^;;
天智天皇と天武天皇とはひょっとしたら双子のようによく似た人物だったのかもしれないと思うことがあります。
みのるさん
なかなか大変そうですね^^;;
2000字だと原稿用紙5枚程度ですね。
私が作っているページは大体1600字から2000字程度にまとめてありますから分量のイメージはすぐに掴めましたv(^o^)
確かに中央大学法学部はずっと司法試験合格者で1位か2位の数を出してきていた記憶がありますから3分の1のボリュームは嘘ではないような気がします^^
編集済
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中央の法ってところは 投稿者:みのる 投稿日:
5月30日(木)16時19分20秒
日本の法曹の三分の一を占めるそうです。
ホンマかいなー?
怪我が治るうちに今年の過程を終了しそうです。
先日、第一号答案が帰ってきました。
「不可」にもなりませんでした。
短すぎると言うのです。
二千字は書いてくださいと書いてありました。
無理だー
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:
5月30日(木)12時32分14秒
おっしゃるように、楊氏は鮮卑ですから、煬帝も遊牧民族の慣例として、父兄が死ねば、その妻妾を貰うのは当たり前だと、思っていたのかもしれませんね。唐3代皇帝高宗も、2代皇帝太宗が危篤の時、やつれはてるほど父の看病をし、太宗をして「朕のような幸せ者はいない。普通、親というものは、子に煩わせるものだが、朕は子に、ここまで孝養を尽くしてもらった。」言わしめたくらいですからね。高宗も父の死後、その妾の武照(後の即天武后。)をちゃっかり自分のものにしていますから。唐の李氏も、遊牧民族の出ですから、このようなことに、余り頓着はなかったのかもしれません。
唐の太宗の妻の長孫皇后は,偉い人だと思っています。太宗が、中国歴代皇帝最大の名君と言われるのも、彼の力量もありますが、半分以上は長孫皇后の補佐の良さでしょう。太宗が、長孫皇后に先立たれた時、「我、一良佐を今喪えり。」と言って、嘆いたのも分かるような気がします。
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額田王 投稿者:太田守人 投稿日: 5月30日(木)08時41分24秒
私が、小学校の4年位のとき、ある船の本を読んでいて、世界軍艦の名前という記事があり、世界的に、人名と都市名を冠した、軍艦の名前が多いが、日本には今まで、一隻もない。不思議なことだ。戦艦「柿本人麻呂」と「額田王」が艦隊を組んでいても好いように思うと書いてありました。柿本人麻呂は知っていましたが、額田王って名前は初めてでした。これが、万葉最大の女流歌人額田王を知った最初でした。中学校まで、額田王の王という字で、男性だと思っていました。
しかし、額田王は不思議な女性だと思います。天智と天武の恋の鞘当がありますし、天智は、彼女を得るために、娘2人を天武に与えています。しかも、その時には、大海人皇子(天武よりこちらが好いかも。)との間に、十市皇女という娘までいた。それを無理やり、天智が奪ったのですから、尋常でないと思います。当時は、儒教思想は最先端思想として、日本に入ってきていたと思います。天智が、いくら額田王の人妻のフェロモンに迷っても、鎌足あたりが反対しそうに思います。弟(?)の嫁を取るのですから、世間様には、好い様には,言われないと思います。
そこで、天智としては、どうしても額田王を妻にした方が、政治的に有利だった。それで,鎌足も反対しなかった。推古が、額田部皇女と言いましたので、額田王は推古の近親者だった。推古は、
蘇我系の大王であったと思います。推古と天智では、王朝断絶があった。私は、彼の母宝皇女と高向王の間に生まれた、漢皇子が後の天武だと思っています。高向王は,入鹿だとも思っています。
そこで、天智としては、大海人と蘇我勢力が結びつくと、非常にまづい。そこで,額田王を是が非でも、自分の妻にしなくては、ならなかったのではないかと、疑っています。
まあ、恋は思案の外と言いますので、案外、天智は本能の赴くままに行動したのかも、しれませんが。
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一気 投稿者:きんたろう 投稿日: 5月30日(木)02時01分23秒
に隋を大陸の覇者にのし上げた感のある文帝ですが唯一の弱点が奥さんには弱かった事のようですね^^;;
この辺は徳川秀忠とお江の関係に似ているようなイメージを持っています。
>古代中国では、特に父兄の妻妾を年下の者が、肉体関係を持つことを蒸(じょう)と言い、もっとも忌み嫌うことだったと言います。
でも煬氏は鮮卑族と見られていますからこの辺の感覚はちょっと違うものがあったのかも知れません。
遊牧民族の場合は父親から相続したものは全て自分のものになりましたから煬帝の場合はフライングであるというのが本当のところなのかもしれないと思っています。
太田さんの聖徳太子は大岡越前という発想はグッドだと思いました、笑
これは史実としての徳川光圀と漫談の水戸黄門の関係に似ているような気がしています。
伝説が自己増殖していく過程は同じ様なパターンを辿るという事なのでしょうか??
でも日本書紀に書かれている内容が聖徳太子をそれほど持ち上げているとは感じられないのですが...
同様に蘇我三代が、諸悪の根源のように書かれていると、そこまでは感じませんでした。
これは例えば日本書紀を読んだ人が書いたテキストに込められた感想(感情??^^;;)の部分が多いような気がしています。
日本書紀では実際に何人もの天皇が人殺しをしたと書いてあるのですから、蘇我氏だけを特別に悪者にしている訳ではないと思いますよ^^;;
kitunoさん
新島建設作業は大変だったでしょう^^
早速探検をしてきましたよ。
確かに写真が出てこないページが少しありました、笑
編集済
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kituno新島 投稿者:kituno 投稿日: 5月29日(水)17時47分53秒
一日かかって、新しく島を作り直しました!!
ところが、何だか迷子になってしまいそうな島になってしまいました。
(まだ荷物の整理ができていない状態^^;)
皆さんもkituno島のサバイバ−になってみて下さい。^^;;
kitunoの旅を整理したのですが、どうしても四天王寺と藤ノ木古墳の写真が掲載できません。
どうしてかな〜?^^;;
あ〜ん、HP作りの理解が全然できていない証拠。
疲れた〜!
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聖徳太子は大岡越前 投稿者:太田守人 投稿日:
5月29日(水)12時43分08秒
きんたろうさん、聖徳太子のことですが、どうも私が火をつけたようで・・・。火を付けた者が、火を煽るようで、なんとも申し訳ないのですが、ご勘弁ください。
私は、聖徳太子に関しては、高坂さんに共感できる部分が多いです。日本書紀においては、聖徳太子は,大岡政談の大岡越前のように思っています。大岡政談で、大岡越前の取り扱った事件のほとんどは、他人が扱った事件だったと言います。このように、日本書紀の聖徳太子の功績で、相当の部分は、蘇我三代の功績であったと思います。私は、聖徳太子の本名は、タリシヒコで隋の遣使がきた時の大王だった。高坂さんのおしゃるように、厩戸王というふうには呼ばれていた、しかし、本名のタリシヒコと書けば、世間に「なーんだ、あのタリシヒコ大王か。」と言われるので、あえて隠したと思っています。でなんで、そんなタリシヒコ大王を、持ち上げなければならなかったか。それは、彼が、日本で最初に、中央集権国家を作ろうとした、人物だったからだと思います。
きんたろうさんは、欠徳の天皇として、後醍醐天皇を上げていらしゃいますが、私は、天智も充分その欠徳天皇に入る人物だと思っています。
蘇我三代が、諸悪の根源のように書かれるのは、蘇我本宗家が族滅したからだと思います。馬子の崇峻暗殺にしても、古代にあっては、帝王殺しというのは日常茶飯事だったと思います。なにも、馬子の専売特許でないと思います。この前も書きましたが、大伴金村が武烈を殺した可能性は高いと思っています。でないと、倭彦王が山の中に逃げ込んで,行方不明になるとは思えません。ところが、この大伴氏は、壬申の乱で大伴吹負が、天武軍で大活躍しています。そんな、大伴吹負の前で、お前の先祖の金村は、武烈天皇を殺した悪い奴だなんてことは、書けないと思います。蘇我三代は、目立ちすぎた上に弁護する子孫もいない、絶好の標的だったと思います。私は、タリシヒコ大王の尻拭いをしていたのが、推古であり馬子だと思っています。
大化の改新でも、蘇我蝦夷は戦わず、自邸に火を放っています。日本書紀は、味方がいなくなったからだと書いていますが、味方がいなくなり、世間に見捨てられた、人間を葬りたいという人がいるでしょうか?少なくとも、蝦夷・入鹿に徳を感じていた人がいたと思います。
この時、旧辞だったかを蘇我邸から、救い出すのに成功した。と日本書紀にあったと思います。私は、蝦夷が自邸に火を放つ前に、中大兄に渡したと思っています。
聖徳太子の長男の山背大兄皇子が、滅亡する時に、「庶民に迷惑はかけられない。」と言っていますが、これを言ったのは、本当は蘇我蝦夷だった可能性もあると思います。
聖徳太子は善、蘇我三大は悪という、従来の価値観から脱却するべきだと思います。
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文帝 投稿者:太田守人 投稿日: 5月29日(水)08時38分47秒
「日出国・・・。」の国書も、隋の文帝だったら、こんなに目くじらを、立てなかったように思います。彼だったら、「これだから,野蛮人は仕方がない。」ぐらいで、終わっていたように思います。第一回遣隋使の国書が、文帝に「ゆえなし。」と指弾された。このことは、日本史の教科書にはありません。この国書を出したのも,聖徳太子だと思います。そうゆうことで、聖徳太子は、二度外交上の失敗をしています。
私は、隋を滅ぼしたのは、煬帝でなく、文帝の皇后であった独孤であったと思っています。独孤皇后は、聡明であったが、非常な潔癖症で、特に女性にだらしない人をきらった。皇太子が廃嫡されたのも、側室をもったことに、独孤皇后が腹をたてたことにあったと言います。そして、表面非常に良いように装っていた、煬帝を皇太子とします。更に、彼女は、ある重臣がつれあいを亡くした時に、再婚を勧めますが、彼はその女性が気に食わなかったのか、断ります。しかし、その後、若い女奴隷を買ったことを知った,彼女はカンカンに怒り、この建国の功臣である,重臣を素手で猛獣の入っている檻に閉じ込め、猛獣と格闘させます。この時は、この重臣の親友が、檻に短刀を差し入れたため、ことなきをえましたが、これなども、彼女の異常な性格の一端のように思います。
文帝も彼女の存命中は、側室を持てなかったそうです。文帝が、不治の病で床に付き、命が旦夕に迫った時に、煬帝は文帝の側室を犯します。古代中国では、特に父兄の妻妾を年下の者が、肉体関係を持つことを蒸(じょう)と言い、もっとも忌み嫌うことだったと言います。危篤状態の文帝も、煬帝の蒸には、腹を立て煬帝を呼べと宦官に命じます。煬帝が、文帝の病室に入った直後、文帝は死にます。私は、煬帝に毒殺されたと思っています。この時、文帝は「独孤。我をたばかれり。」と言ったと言います。
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突厥 投稿者:きんたろう 投稿日: 5月28日(火)22時55分59秒
さすがに高坂さん、詳しいですね^^
突厥は北朝の更に北側にある大草原を活動の根拠地として勢力を誇りましたが、隋が成立して勢力を拡大していくのと反比例するように内部分裂をして中国内陸部との力関係は逆転してしまいました。
この突厥王が隋皇帝に送った国書が聖徳太子の「日出処天子〜」のモデルになったのではないかという説ですよね??
確かにこの国書をモデルにして作られた可能性は高いと思いますが、突厥の方が遜っていたような文章だったような記憶です。
多分、突厥のような北方民族は北朝と国書の交換が前々からあってその形態が「対等」だったのではないかと思っています。
何しろ突厥の方が勢力が強かったと言われている位ですからひょっとしたら対等より上位にいるような意識を持っていたのかも知れません。
そして統一王朝である隋に送った国書は力関係が逆転したためにかなり遜った書き方に変わって行ったのではないでしょうか??
編集済
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Sinさん 投稿者:きんたろう 投稿日:
5月28日(火)21時42分16秒
1ヶ月で120冊とはものすごいです、笑
読み終わった物は私の方へ送って下さい^^
ところで骨折は完治されましたか??
みのるさん
中央大学法学部はなかなか厳しいカリキュラムのようですね??^^
でもその方がやる気のある人に答えていると思います。
なかなか難しそうですが頑張ってくださいねv(^o^)
聖徳太子の話題は太田さん、高坂さん、kitunoさんがさすがに詳しいですね。
感心するばかりです。
私は憲法17条というのは冠位12階を補足するものとして作られたものだと思っています。
これについては続編で触れると思います^^
編集済
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高坂さんの書き込み 投稿者:kituno 投稿日:
5月28日(火)17時31分14秒
kitunoの掲示板にちょっと反論を書かせてもらいました。^^;
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kitunoさん 投稿者:太田守人 投稿日: 5月28日(火)17時28分49秒
>「聖徳太子」のことだけではありませんよ。
勿論です。でも、記紀は一応天武天皇が、勧進元になっています。しかし、書紀には詳しくて、古事記は、継体以降は、紀年体になっている。高坂さんは、紀と記の違いであるとおしゃってましたが,私には解せません。もし、同時進行で編集されたとすれば、もっと共通性があっていいと思いますし、古事記が天皇家の私蔵版であれば、記述が簡素でも,推古で切れているということはないと思います。少なくとも、書紀で取り扱っている、持統まであるべきだと思います。
私は、古事記が天武の史書で、書紀を完成させた、持統・不比等が弾圧を加えたため、古事記は世から隠れ、それが平安位に世に出たと、先代旧辞本紀を読むまでは思っていましたが、今は、古事記という書物は、そんな単純なものではないと思っています。古事記の性格というか、そうゆうものが益々分からなくなってきました。
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『古事記』に書かれていないのは 投稿者:kituno
投稿日: 5月28日(火)17時07分11秒
太田さん、「聖徳太子」のことだけではありませんよ。^^;;
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不発に終わった新羅遠征 投稿者:太田守人
投稿日: 5月28日(火)12時33分22秒
聖徳太子の時代、2度に渡り新羅遠征軍を組織しますが、いずれも不発に終わっています。一度目は、来目皇子が将軍でしたが、これは来目皇子の死亡で遠征軍を引き上げていますが、奇怪なのは、2度目の遠征軍です。この時は、当摩皇子が将軍でしたが、その理由が,確かその妻が病気なのでということだったと思います。遠征軍をこんな理由で引き上げるでしょうか?変わりの将軍を任命すればいいわけだと思います。別段、国内に磐井の乱のような、大乱が起きた形跡もありません。
私は、聖徳太子の政治に豪族がついて行けなくなっていた、馬子も聖徳太子の顔を立てたが、豪族の不満を抑えきれなくなった。そこで、遠征軍を引き上げざるを得なくなった。聖徳太子としては、起死回生の策として、あの「日出ところの天子。」という国書を送ったが、反対に煬帝をカンカンに怒らせた。私は、裴清世は世に言う答礼使ではなく、詰問使だったと思います。彼の国書には、見栄坊の煬帝の性格から、「必要とあらば、倭を踏み潰すぞー。」くらいは書いてあったと思います。これ以降、聖徳太子の政治生命は完全に絶たれてしまった。
山背大兄皇子に、推古が「あなたは幼い性格だ。人の言うことを聞きなさい。」と遺言したのも、彼女は、聖徳太子の不遇を知っていて、それが不憫でならなかった。そこで、聖徳太子と性格の似ていた、山背大兄皇子に限りない愛情を抱いていたのではないでしょうか?そこで、父と同じ失敗をしそうなので、それを思ってという、推古の愛情のように思います。
聖徳太子は、「人生は虚仮。」と言っていますが、理想主義者の彼は、最後までその原因がわからなかった。そこで、このような発言になったと思います。
私は、仏教の父は聖徳太子でなく、蘇我馬子だと思っています。物部守屋を論破し、聖徳太子という弟子(?)を作り、飛鳥寺を作り、初期の仏教に残した彼の功績は大であると思います。
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聖徳太子の話題 投稿者:高坂英吾 投稿日:
5月28日(火)11時34分07秒
こんにちは。
せっかく、私も論議に加われそうな話題だというのに、しばらく、ゆっくりネットをしている時間がないのです。とても残念です。
なので、ちょっとだけ、私のページにも書いていない情報(?)を追加させて頂きます。
あの有名な「日出ずる処の天子〜」の国書ですが、実はあれは聖徳太子のオリジナルではないです。(知っていらしたらゴメンなさい)
他にも隋に朝貢している国はたくさんありますが、それら他国の国書のいくつかを編集し、真似たもののようなのです。かなりの情報収集がなされたようですね。
これは、隋と対等でありたいという願いが込められていたともとなくはありませんが、
隋と対等に近い状態であった突厥の国書をそのまま真似、怒りを買ってしまい、その結果、『日本書紀』にも記載出来ないほどの失敗外交に終わってしまった(600年)という、失政だったと思います。
『日本書紀』にこの事実が記載されていないことは、スーパーマン・聖徳太子に汚点がついてしまうという編纂者側の思惑があったからではないかと思います。
もちろん、これは日本側の失敗ですから、スーパーマンでなくても、例えば蘇我氏の失敗だったとしても、積極的に記載する気にはなれなかったでしょう。
確かに言えることは、600年時、かなりの情報収集をして準備したにも関わらず、大失敗に終わってしまった事実があったこと。
その時の担当者が誰かはわかりませんが、「大失敗をしたのは蘇我氏だ」と書いていないことや、すでに聖徳太子が政界に出ていることから、この失敗は聖徳太子ではないか、と予想されること。
そして、聖徳太子でも失敗を犯し、実はスーパーマンではなかったこと、等がわかります。
それでいながら、聖徳太子がスーパーマンのように描かれているのは、明らかに作為的だと思います。
それから、憲法十七条ですが、聖徳太子が声を大にしてこの憲法を主張すれば、おそらく当時の情勢から、崇駿天皇の二の舞いを踏んだだろうと思います。
いかに聖徳太子が偉大であろうと、あからさまに蘇我氏を抑えつけるようなことは出来ないと思います。
これを踏まえて『日本書紀』を読んでみると、憲法十七条に関しては、聖徳太子がこれを大々的に発表したとは書いてありません。冠位十二階の時とは違い、たんに作ったとだけ書いてあります。
私は、律令制度のモデルになるものを、彼が調べ、学び、導入しようとした、というだけで、実際には彼の在命中に「憲法十七条」と言っても、誰も知らなかったのではないかと思います。
彼のスーパーマンの仮面を剥がし、ただの一人の人間・厰戸として見たいと思っています。
そこには、蘇我氏を抑え、理想の国を目指す姿や、数々の画期的な政策を打ち出した姿、また、悪の権化・入鹿の姿も、『日本書紀』の中だけの作られた物語のように感じます。
http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:
5月28日(火)08時39分55秒
私の持論は、日本書紀の近・現代史は信用ができない。ということです。きんたろうさんも、ご存知と思いますが、古事記に聖徳太子はありません。これは、高坂さんとも議論したところですが、日本書紀が持統まで書いてて、なんで古事記が推古できれているのでしょうか?最低、天武まであって然るべきだと思います。更に、古事記は古代のスーパーマン聖徳太子(この呼び方は、天武以降のように思いますが。)がない。古事記では、継体以降は紀年的になっている。これも不思議です。古い方が、紀年的であれば、これは記録の逸散等が考えられますが、近・現代でそんなことはないと思います。理由としては、詳しく書きたくなかった。若しくは、書けなかった。だと思います。私は、推古あたりまで書いたときに、勧進元の天武が死んだ。持統・不比等コンビには、あまり都合のいいものでなかった古事記を、アレンジしたのが日本書紀のように思います。
私は、天武と持統は従来言われているように、仲良し夫婦でなかった。長屋王の邸宅から、長屋親王という木簡が出てきたので、彼の父の高市皇子が,ワンポイントリリーフとして、天皇位についていたように思っています。
聖徳太子の時代の政界の激動の余波が、持統朝まで続いていたと思っています。
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中央大学法学部ってところは 投稿者:みのる
投稿日: 5月28日(火)01時32分08秒
問題の解答はすべて記述式です。問題の程度は司法司法試験より少し難しい
でしょうか?解答は年に最低72個は出さねばなりません。お盆にはスクーリjングが
あります。
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悪い病気が久々に発生しまして 投稿者:Sin
投稿日: 5月28日(火)00時28分52秒
近所の古本屋で100円均一本の半額セールが行われておりまして・・・
気が付いたらマンガ、小説その他を含めて今月だけで購入した書籍が
本日で120冊を越えたことが判明しました(笑)
部屋が本で埋まり、ネットに書き込みをする時間が無い理由が判明しました(爆)
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太田さん 投稿者:きんたろう 投稿日: 5月27日(月)22時31分57秒
読んでいただいて有り難うございました。
太田さん説は大変興味深く思いました^^
>私は、この時の国書は、高句麗の恵慈や恵便といった僧の謀略に、おぼちゃまのタリシヒコ大王がコロット乗せられた。高句麗にすれば、隋と倭という二大軍事大国が同盟するということは、えらいことです
確かにシビアな国際関係においてはこのような可能性、もしくは意図を否定することは出来ないと思っています。
確かに太田さん説は面白いと思います^^
私の場合太田さんよりもこの時代の知識量が不足しているように感じています。
その為というわけでもないのですがとりあえず正統派で進めていこうと思っています、笑
実のところ高坂さん説に対しても私の場合は聖徳太子を弁護する知識が不足しているのですが要するにその辺のところはアバウトにおいといて(^^;;)当時の状況を再構築してみたいと思っています。
小野妹子の返書紛失事件については確かに不可解だと思います。
私としては新羅のスパイによる犯行ではないかと思うのですが...??^^;;
ちなみに聖徳太子の軌跡は(たぶん??)3か4まで続く予定になっていますのでよろしくお願いしますv(^o^)
みのるさん
中央大学の問題とはどのような形式なのですか??
例えば小論文方式とか選択式とか??
法律を一字一句覚えるのは難しいですが判例を読むのは為になると思いますv(^o^)
編集済
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きんたろうさん 投稿者:みのる 投稿日:
5月27日(月)20時22分54秒
中央大学の答案をどんどん出して暇を潰しています。
法律を勉強するといままで如何に自分が危ない橋を
渡ってきたかわかります。
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小野妹子の国書紛失事件 投稿者:太田守人
投稿日: 5月27日(月)17時13分06秒
も、実に奇怪な事件だと思います。一国の外交団が、国書を取られたにせよ,無くしたということは、懲罰ものだと思います。更に、隋という強大な国の国書を奪うということは、隋との戦争に発展する可能性が、非常に高いと思います。そこで、国書を奪われたことにして、廃棄したのではないでしょうか?これには、相当高度の政治判断があったと思います。兎に角、この時の隋の返書が、当時の豪族の目にとまると、更に一波乱も二波乱もある、そこで、推古と馬子が共謀して、国書が奪われたことにした。そこで、小野妹子も懲罰を受けなかったと思いますが、いかがでしょう。
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きんたろうさん 投稿者:太田守人 投稿日:
5月27日(月)12時49分04秒
新作「聖徳太子の軌跡」を読ませたいただきました。ありがとうございました。折角の大作に、異議をはさむようで、まことに申し訳ないのですが、私の聖徳太子感は、次のようです。
私も、先代旧辞本紀を読むまでは、聖徳太子=馬子でした。しかし、この本の序文を読んでから、少し変わりました。後世、聖徳太子と言われた人物と馬子は、別人格であったと。この書物は、偽書説が強いことも承知しています。しかし、日本書紀と先代旧辞本紀にあれば、そう思わざるをえないと考えています。歴史上の天皇は、崇峻の次は推古ですが、私は、この間に、もう一人大王がいたように思います。それが、隋書に見えるタリシヒコでないかと思っています。この、本名タリシヒコ大王が、大失政を起こした。それを,処理したのが馬子だった。そこで、日本書紀がこのタリシヒコ大王のことを書くと、馬子の功績を書かざるをえない。そこで、タリシヒコ大王を隠した。この大失政は、有名な「日没する所の天子。云々。」の国書です。これを見て、煬帝がカンカンになった、豪族達にすれば、隋がせめてくりゃどうするんだー。という意見が出たと思います。
私は、この時の国書は、高句麗の恵慈や恵便といった僧の謀略に、おぼちゃまのタリシヒコ大王がコロット乗せられた。高句麗にすれば、隋と倭という二大軍事大国が同盟するということは、えらいことです。そこで、隋と倭の分断を図るために、これら高句麗僧を、新物好きのタリシヒコ大王に送った。推古も慌てた。彼女は、この当時、皇太后か後年の上皇のような立場で、政治から遠ざかっていたが、タリシヒコは好きだった。そこで,馬子大臣に相談した。馬子も娘婿のタリシヒコ大王を捨てておくわけにはいかない。そこで、隋には「田舎者で。」という平身低頭の国書を出すとともに、タリシヒコ大王を斑鳩に謹慎させた。そこで、推古が大王位についたと思います。
私は、斑鳩が明日香から離れすぎていたことが、従来から気になっていました。20kmくらい離れていますが、車でも30分位かかるところから、皇太子という重職にある人が、毎日通勤するでしょうか?当時の一番早い、馬でも半日はかかると思います。国政を預かる身で、こんな遠くにいたとは思えません。私は、タリシヒコ大王の王宮は、上宮にあり離宮が斑鳩にあったと思っています。急な決裁もあったでしょうし。今のような、携帯電話なんて便利なものはありません。
私は、天皇位は、崇峻→推古ではなく、崇峻→タリシヒコ→推古か崇峻→推古→タリシヒコ→推古でなかったかと思っています。聖徳太子の年齢を考えると、後者のように思いますが。
で、タリシヒコ天皇を入れると、馬子の功績を抜くわけにいかない。そこで、辻褄あわせのために、タリシヒコ天皇自体を隠したように思います。
このこと以降、蘇我氏の影響力は大きくなっていった。日本書紀では、推古は現代史です。そこで、ホント言うと,タリシヒコの存在を認めたくなかったが、そうもいかない。そこで、皇太子にしたのではないでしょうか?日本書紀は、持統と不等人の合作だと思います。そこで、大化の改新(私は、食い詰め者のクーデタと思っています。)を正当化するためのものだったと思います。
中大兄は、大化の改新後、すぐに即位はしていません。当時の官人達の間で、タリシヒコ大王事件で、蘇我氏の評判は大変高かった。そこで、母を風除けにしなくてはならなかったように思います。
また、ヘソマガリのトンデモ説ですが。
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久々の更新^^ 投稿者:きんたろう 投稿日:
5月26日(日)13時48分41秒
何と3年間の構想による(笑)新作「聖徳太子の軌跡」をアップしました^^
下記のアドレスです。
編集済
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/shotokutaishi1.htm
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「草燃える」 投稿者:きんたろう 投稿日:
5月25日(土)23時34分54秒
5巻を見ていたら承久の変が描かれていました。
ダイジェストなのが惜しいと思いました、笑
実は先日借りた時ビデオをつけながら完全に寝ていたのです^^;;
そろそろ何かアップをしようとファイルを探していますがファイル名だけでは何が書いてあるのかよく分かりませんね、自爆
もう少ししっかりとしたファイル名を考えようと思いました(;^_^A)
以下は使った部分があるような気がしますが結構気に入っているところです^^
このパターンをさらに日本史で見てみると、平家と源氏の関係にも似ている様に思います。
平家が初めて武家として政権を樹立しましたがこれは短期政権に終わってしまいました。
それを打倒して跡を継いだ源氏は長期政権を樹立しています。
これを鎌倉幕府内でみれば親政(この場合頼朝直径を指す)が短期に終わりその後北条氏が長期にわたって支配力を行使した事です。
日本史は制度的には律令制のままで何も代わらないという意見がありますがこれには懐疑的な立場を採っています。
どちらかといえば中国史の方が金太郎雨のように同じ事の繰り返しのパターンが多い様に思っています。
しかし、そう言い切ってしまうのはあまりにも大ざっぱ過ぎると思いますが...
隋の煬帝は歴史上ただ一人贈り名が「だい」とつきます。
ただ中国史上においては煬帝と同様のとても徳を備えているとは思われない皇帝があまりにも多く現れていますよね。
煬帝が「疾風に珪藻を知る」と言ったらしい事でも知られていますが、これなどは見方によってはあまりにも身勝手な発想とも言えます、笑
やはりこれは光武帝の故事として使う方が正統かなという気もします。
煬帝は日本史で言えば後醍醐帝並の欠徳の王として捉えられているのでしょうか??
豊臣家が全国を支配したパワーも徳川期に劣るものでは決して無かったと思います。
隋を継承した唐が長期安定政権になった事もまた漢と似ていると思います。
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みのるさん 投稿者:きんたろう 投稿日:
5月25日(土)23時30分02秒
確かに法律は面白いと思います。
行動を起こした時に法律を知らない方が悪いと言うのは法治国家の原則ですから、法律の知識は絶対に必要だと思います。
という私はほとんど無知なのですが...^^;;
kitunoさん
千枚漬けといえば私に任せて下さいv(^o^)
はっきり言ってあの味もまた「さすがに京都の味どすなぁ」というべき優れものだと思っています、笑
確かに、たかが大根の薄切り漬け物にしては値段が高いのが欠点だと思っています。
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さすがに 投稿者:きんたろう 投稿日: 5月25日(土)23時28分45秒
安部さんです^^
これはとても面白い発想だと思いました。
それもただ面白いだけではなくとても納得してしまいました。
古代における帝国の版図は正に点と線で結ばれたものだと私も考えています。
現代の版図とは線ではなく面になりつつありますが、それでもまだ人の入らない場所は多くありますよね。
海の中にある小島ならば小さな勢力範囲のポリスとしてイメージが明確になると思うのですが、誤解を生みやすい原因は陸地が続いているからのように思っています。
でも実際は瀬戸内海の小島をイメージしたようなものだったのではないでしようか??
ところが陸地にあるために全ての面積が領土=支配地という誤解を生んだのではないでしょうか??
陸地であってもポリス以外の場所は海と同様だったのです??(の様な感じ^^;;)
瀬戸内海では大帝国のイメージを掴みにくいというのであれば太平洋に点在する小島をイメージすればよいように思っています。
あるいはスターウォーズの世界をイメージした方がより具体的なイメージが出来るかも知れませんね。
広大な銀河に点在する人の住める惑星を超高速ネットワークで繋いでいる姿が銀河帝国や銀河連邦の姿ですから、笑
ローマ帝国と日本列島は写真を逆さにしたような関係かなとふと思いました、笑
つまりローマでは内海の海岸線にポリスが出来たのに対して日本列島の場合は外側の海岸線に沿って出来たという点です。
日本の場合は大化の改新によって内陸の開墾が政策のトップに位置づけられたものと考えています。
それにしてもキリスト教がウイルスとはものすごい慧眼だと思いました。
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今夜は 投稿者:kituno 投稿日: 5月25日(土)22時45分56秒
我が掲示板で、信長に燃えました。
今は燃えかす状態です。^^;
先日は、聖徳太子。
でもこの盛り上がりって気持ちいい〜!!
ここでの話は、とっても難しいな〜。
ついて行けそうなのは、「奈良漬け」の話。
小さい頃は全然おいしいと思わなかったのですが、薬師寺の近くの奈良漬け屋さんの奈良漬けを食べて以来填ってしまい、奈良に行ったときは必ず宅急便で送ってもらっています。
電車で持ち帰ると匂いが車両中を立ちこめてしまいそうなので、。^^;;
お酒のおつまみにもいいですよね。
京都の千枚漬けは、我が家でもあまり評判はよくありません。
でもすっごくお値段が高い!!
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ローマ帝国=インターネット 投稿者:安部奈亮
投稿日: 5月25日(土)22時21分39秒
ローマ帝国=インターネット説をもう少し深めてみます。
小さなコンピュータを並列につないで、情報を処理している状態が、元老院による寡頭制と言えます。しかしこれでは大量の情報を早く処理することができません。
そこでスーパーコンピュータによって大量の情報を、一元的に、迅速に処理することになる。これが帝政といえるでしょう。
スーパーコンピュータといえども、基本的には多くのコンピュータを組み合わせて作ります。ものすごい数の小さなコンピュータを組織的に組み合わせてスーパーコンピュータは作られます。これは帝政が官僚制であることを意味しています。
サーバーに接続するユーザーが増えすぎると、情報を処理しにくくなります。サーバーのダウンも頻繁に起こるようになるでしょう。そしてスーパーコンピュータといえども処理も遅くなる。これはローマ帝国が繁栄の頂点を迎えて、ローマ帝国がポリスの連合体から領域国家になったときに当たるでしょう。こうなるとこれまでただのユーザーだった人が個人経営で子ホストコンピューター、孫ホストコンピューターになって、サーバをホストと別に個人経営しだす。あるいはその方が地域的には効率が良くなる。しかしこうなるともとのホストコンピュータに力はなくなる。あるいは処理すべき情報が増えすぎたホストコンピュータ自身を分割して負担を減らそうと言うことになる、これがローマ帝国の東西分裂に当たるでしょう。
このようにローマ帝国をインターネットそのものと考えると、ローマ帝国が消滅したときと言うのは、ローマ帝国がポリスの連合体から、領域国家になって、ネットワークの管理者としてのローマの役目が終わって、各地域が自立したときと言えるのではないでしょうか。
ローマは多民族国家です。文化摩擦は、プログラミング言語の違いによる混乱で説明ができるでしょう。そしてこういう場合の言語の統一は、全く新しい効率的な言語を新しく作り出すよりも(例えばエスペラントのような)、一番普及している言語を中心にして統一がなされる(ギリシャ語とローマ語)ところもそっくり。
最後にキリスト教が何に当たるだろうかと考えてみましたが。宗教というのは何も生産しませんから、コンピュータとか電線とかの設備には当たらないでしょう。とすると新しいアルゴリズムかウィルスかと言うことになりますが、私はウィルスではないかと考えます。特に、ある程度感染者が増えると一気に爆発的に増えるところ、神学という無意味で非生産的なループを無限増殖するところ、キリスト教本来の教義はともかくとして感染者は正常な動作をしなくなってしまうところなどです。
この例え結構いけてるかも!?
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中央大法学部通信は面白い。 投稿者:みのる
投稿日: 5月25日(土)20時00分39秒
法律というのは実に面白いと思います。
刑法なんか勉強してると私が抵触してる節があって
ゾーとします。今までよくつかまらなかったものだと思います。
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古代の帝国 投稿者:安部奈亮 投稿日: 5月25日(土)18時40分26秒
「じゃあローマ帝国とか漢帝国はなんなんだ」と言う話になりますが、
ローマ帝国の場合、あれはポリスの連合体です。一つ一つのポリスはあくまで独立したポリスであって、最も強いローマと個別に契約を結んでいる状態です。
これはローマというホストコンピュータとプロバイダ契約してインターネットに接続しているユーザーを思い浮かべればぴったり来ると思います。電話線が「ローマ街道」と言う訳ですね。あるいは電話線は凸凹道で、舗装されたローマ街道は光ファイバーだったのかもしれません。ポリスとポリスの間はこの時代はまだ荒野です。これはドラクエのマップを思い浮かべればいい。
多分秦とか漢も同じでしょう。お釈迦様が生きていた頃のインドも似たような状態だったのでしょう。現在の広い国家とは少し違うと思います。いや、アメリカとかロシアとか中国はイギリスや日本と同じような領域国家だと言い張っていますが、実際は古代の帝国のように、点と線で結ばれた国に過ぎないのかもしれません。
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国境 投稿者:安部奈亮 投稿日: 5月25日(土)18時25分06秒
ちょっと前にきんたろうさんが、昔の国の国境は、よく歴史の教科書なんかに描いてあるようなものだったのか?と疑問を呈しておられましたが、それについて、
この前読んだ「アラブが見た十字軍」と言う本によると、イスラームの世界では、人々が所属意識を持っているのは、都市の住民ならその都市まで、外に住んでいる人はせいぜい自分が所属する部族まで、であって、例えば「セルジューク・トルコ」の版図が中東全体に及んでいた、と言っても、それはそこの都市や部族がみょうぶを差し出しているだけであって、たとえスルタンが命令したところで、顔も見たこともないスルタンの言うことなど誰も聞かないらしい。そしてセルジューク・トルコの版図は、王族に細分化されていて、その王族どうしが激しく反目しあっている、したがってアラブの世界には領域を持った国家と言うものは過去も現在も存在しない。と言うことでした。
これは国民国家ができるまで、どこの国でも共通だったのではないでしょうか?
人々が自分の世界と思っているのは邑・ポリス・遊牧民なら部族、これがせいぜいであって、広い領域と言うのは、一時的に強い武将などが現れた時に一時的現れるだけであって、それもすぐに王族に分割されたりして消滅してしまう。私達が今思っている国境などと言うものは過去にはなかったと考えるほうが正しいでしょう。日本の「クニ」と言うのも邑やポリスと一緒であろうと思われます。
中国の戦国時代の人口は三千万だったそうです。これは戦国時代の日本の2倍です。戦国時代の中国の領域も日本の倍くらいですから、戦国時代の国の規模や戦いの規模というのは、日本の戦国時代と同じくらいではないかと考えられます。教科書に出てくるような秦の広い領域というのは、多分はじのほうは秦の人が一度は行ったことがあるという程度だったのでしょうから、威令が行き届いたのは多分日本の倍くらいでしょう。となると、始皇帝と言うのは織田信長を思い浮かべれば、スケールとしては丁度ぴったりなくらいなのかもしれません。
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足首 投稿者:きんたろう 投稿日: 5月24日(金)18時05分45秒
の骨折はよく治しておかないと後々響いてきますから気をつけて下さいね。
スカートの丈は確かに短いようですね。
特に女子高校生の場合は冬もミニで頑張っていますが、見ていて寒そうと思うことがありますね(^o^)
スカートの丈の長さはきっと流行の範囲なのではないでしょうか??
たぶん数年後にはスカートの丈が足首まであるのがスタンダードになったりとか??笑
それにしても大学の講座を受けようとは、みのるさんはものすごいエネルギーを持っているものだと思いました。
私も時々歴史の公開講座で面白そうなものはないかと探しているのですが、面白いと思うものに限って都合がつかない場合が多いですよね^^;;
安部さんはどんどん読書をして知識量が増えていくのが羨ましいほどよく分かりますよ。
黄先生の本は読みやすいにも関わらず中国人の視点がいかに柔軟なのかをよく教えてくれていると思います。
尤も黄先生もずいぶん苦労をされているようですね。
戦争の記憶には絶対値はありませんから同じ事をしても受け取り方は様々だと思います。
ましてある意図を持って作文をする場合にはどのようにでも表現する事は可能だと思います。
これは黄先生も同じようなことを言われていたと思います。
基本的には日本帝国軍は当時の列強の軍隊と同等のモラル(指揮系統を含めて)を持ったものだと判断するべきだと考えています。
日本軍の悪行にされているものは軍閥の敗残兵が匪賊と化して民衆から略奪したものが殆どだと思っています。
それらも日本軍のせいにしているというのが本当の所だと思います。
先進国の軍隊としては標準的なものだったと思いますよ。
太田さん、奈良漬けについてありがとうございました。
漬け物とは古くから飢饉に対する備蓄とか収穫が多かった場合に備蓄するための防腐貯蔵とか美味しい味を求めて発達したものですよね。
奈良漬けはアルコール漬けですから粕漬けの仲間でしょうがちょっと変わっているように思っています。
あの味は食べてみるとなかなか美味しいので私は好きですよ^^
でも、もう少し薄味の方がいいかな、笑
編集済
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奈良漬 投稿者:太田守人 投稿日: 5月24日(金)12時46分37秒
古代は奈良が銘酒の産地だったとか聞いた事があります。灘の酒まで、奈良あたりが銘酒のさんちだったかも知れません。そこで、酒かすに野菜をつけたらどうなるかなーということで、漬け込んだら美味かった。こんなところが、奈良漬の起源かもしれませんね。
清酒も、虐められた小僧が頭に来て、灰を酒樽にぶち込んだのが、起源だと聞きました。
ただ,私は京都の漬物は、しば漬け以外はいけません。兎に角、千枚漬けと来たら・・・。
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日中戦争 投稿者:太田守人 投稿日: 5月24日(金)12時13分11秒
私の伯父が、駆逐艦の砲術長で日中戦争に参加しました。伯父は、長江に入った時、兎に角,その広いのに驚いた。航海長が、揚子江だと言ったので,間違いないと思うが、水平線しか見えず、海と同じだったそうです。長江流域の宣撫活動に付いていった時、土地の老人達が、「お前らどこから来た。」と聞かれたので、「日本だ。」と言ったところ、「日本。それどこにある。」と言いので,説明したが,相手は全然わからない。そのうちに長老が、長江を指差し、「この川の向こうか。それともこっちか。」と聞くので、「向こうだ。」と答えたところ、「じゃ、お前達が変な言葉をしゃべるのも当たり前だ。」と、あらゆるところで納得された。と笑っていました。北京語と広東語の違いかもしれません。
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こうしてみると 投稿者:安部奈亮 投稿日:
5月24日(金)11時26分27秒
日本軍が残虐でああったか、あるいは神兵として歓迎されたかは、その日本軍が進駐した土地が物資潤沢であったかそれとも災害で疲弊していたかにかかっていたのではないでしょうか。そして疲弊していた場合でも、指揮官がしっかりしていた場合は災害復旧に手を貸した例もあって、結局日本軍すべてに共通するような性格は何もなく、指揮官が優秀かどうか、そして部隊内に威令が届いていたかどうかにすべてがかかっていたのではないかと言う気がして来ます。
日中戦争は日本側に大義がなくいつ終わるとも果てない戦いでしたから、もともと兵卒のやる気も低く、平原で戦った日露戦争などと違って現地人との接触の機会も多かったので、まあすます一つ一つの部隊の性格が出てしまい、片方では日本軍は神兵だったといわれ、片方では残虐であったと言うまちまちの印象を残す結果となったのではないでしょうか?
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納得 投稿者:安部奈亮 投稿日: 5月24日(金)11時15分56秒
黄文雄の「日中戦争知られざる真実」と言う本を買ってきて今読んでいます。
これは日中戦争を清末から続く中国内戦の一環として、日中戦争をそれぞれ日米ソの支援を受けた汪兆銘の南京政府、蒋介石の重慶政府、毛沢東の延安政府の内戦であると説明しています。
説くに説得的だったのが日本が盧溝橋事件から戦線拡大していく過程で、蒋介石による統一を望まない共産党、華北の諸政権、国民党内の左派などによる工作、特に日本人居留民に対するテロ、に本軍に対する挑発、が相次ぎ日本が中国の内戦に巻き込まれていくのがうまく説明されている。
それでも私は日本の国論が統一されておらず、国内の各勢力の間で主導権争いがあって、そして中国の内情を見誤った事が最大の原因であると考えますが、日本人であれば、おそらく今でも、これだけの事をされればおそらく冷静な判断が出来なくなって戦争まで進んでしまうであろうと理解が出来ます。
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恐怖の学士入学 投稿者:みのる 投稿日:
5月24日(金)05時49分19秒
私はこないだ中央大学3年に編入学した。法学部であり通信である。
入学理由は法学を身に着けないと我が身が危ないと思ったからである。
こないだは背任に問われそうになったからである。
新入生ガイダンスに行った所、新入生はみんな白髪でかつ学士入学であったことには
驚かされた。説明にあたった教授が一番若いくらいだ。
いったい一年と二年の過程は何のためにあるのだろう?
慶応も考えたが民事執行法、民事保全法などがないため中央
にした。これで法律上は立派な大学生になり学割も使える。
昨日の夜、待望のテキスト、問題が届きやっと暇つぶしの材料が
出来たと言ったわけだ。
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6月は給料が出ない!! 投稿者:みのる 投稿日:
5月24日(金)04時33分35秒
公休を食いつぶし病欠扱いになってるこの頃、
考えてみれば六月は確実に給料がでない!
病院費と生活費を考えると株か車を売らないと
生活出来ない!
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最近の女子高生 投稿者:みのる 投稿日:
5月24日(金)01時29分43秒
最近の子はスカートがやたら短い。目の保養になると思う人が多いようだが
私はそうは思わない。日本国の美麗伝統に背くものであり、
天皇陛下にもうしわけない。
最近痴漢の発生が話題になっているが、あんなスカート履く方が悪い。
スカートの丈は学習院女子波に膝まで伸ばすべきである。
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外務省も猫になれ! 投稿者:安部奈亮 投稿日:
5月24日(金)00時06分22秒
http://inva.plaza.gaiax.com/neko/neko.cgi?KEYCODE=sjis&KEY1=外&KEY2=国&URL=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/shinyo/index.html
これは久々の傑作です(笑)
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みのるさんへ 投稿者:安部奈亮 投稿日:
5月23日(木)22時35分32秒
あんまり相手方の名前をウェッブ上で出すべきではないと思いますよ。誰が見ていてどうつながりが在るか分かりませんし。御自分のことをさらけ出すのはいいと思いますが…
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キムチは 投稿者:安部奈亮 投稿日: 5月23日(木)22時33分45秒
NHKの「ためしてガッテン」でやっていましたが、おかずとして見ないで「調味料」として使うと良いらしいですよ。たいていの日本料理に合うそうです。こまかく刻んで、魚料理や肉料理、野菜だけの料理とかに入れると美味しいそうです。
キムチだけで食べているとさすがに飽きますよね。
キムチは時々無性に食べたくなるのですが、三日くらい続けて食べると半月くらいはいらなくなります。そこらへんが食べなれている味噌汁とか納豆との違いでしょうか。こっちは毎日食べても飽きない。
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自損です。 投稿者:みのる 投稿日: 5月23日(木)22時02分41秒
休日に自転車に乗ってて、突然、前輪がもげ前につんのめりました。
数日間激痛でインターネット出来ませんでした。
くそおー、宮田工業の奴、訴えてやる!!!
今日は株式放送を見て回転売買してました。
東京女子医大に行くときしか外出することがないので超
ひまです。お手伝いさんと話したり、猫と遊んでいます。
ちなみに足首です。
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みのるさん 投稿者:きんたろう 投稿日:
5月23日(木)20時35分23秒
事故に遭われたのですか??
骨折した場所にもよりますがリハビリがまた大変ですよね。
私も昔、足首を痛めた事がありますが松葉杖を使うだけで両手がまるで鉄棒をしたかのように皮膚が硬くなって豆だらけになりました。
また、どうしても脇の下のリンパ腺を刺激するのでかなり痛かった記憶があります。
当分の間は動けなくて大変だと思いますがその分はネットで活躍して下さいね^^
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太田さん 投稿者:きんたろう 投稿日: 5月23日(木)20時33分31秒
奈良漬けは不思議な食べ物ですよね。
日本の漬け物と言えば白菜や大根がメインだと思いますが奈良漬けは異彩を放っているように感じています。
瓜をアルコール漬けにするというのは何となくですが西域辺りが原産の舶来物という感じを持っています。
奈良漬けは食べてみるとなかなか美味しいものだと思いますよv(^o^)
ちなみにキムチも好きなのですが、最近はいい加減飽きています、笑
もう少しデリケートな味の白菜の漬け物の方が美味しいと感じています。
そして冬季限定では北海道産の鮭とか松前漬けがサンドイッチされた漬け物が好きです。
らっきょうといえば日光のたまり漬けは美味しいですね^^
最近マイヒットなのは「キュウリのキュウちゃん」です、笑
これもキュウリのたまり漬けだと思います。
キュウリのような安価な品物を使って、かつこれによって日持ちさせ、更には美味しいのですから「キュウちゃん」を開発した人の貢献度は素晴らしいものがあると思っていますv(^o^)
編集済
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安部さん 投稿者:きんたろう 投稿日: 5月23日(木)20時26分20秒
どのトピでもいいのですが、画面の下に「掲示板検索」がありますからここにkintaro2と入力して検索をかけるとkintaro2の文字のあるページを引っ張ってきます。
このページです(^o^)
http://search.mb.yahoo.co.jp/search?p=kintaro2&M=&sid=
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835396&tid=4z9qbfma4nffckdca53a5sa5wa5la5ca5afa59&sid=1835396&mid=2029&thr=2026&cur=2026&dir=d
ここには似たIDの別人の書き込みもあるのですが一番下にあるのがそうですよv(^o^)
編集済
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=1835396&tid=4z9qbfma4nffckdca53a5sa5wa5la5ca5afa59&sid=1835396&mid=2027
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福井県三国 投稿者:太田守人 投稿日: 5月23日(木)12時58分56秒
に三里が浜という、ラッキョウの産地があります。このあたりの浜辺は、一面のラッキョウ畑で、ラッキョウの香りがすることがあります。私は、ラッキョウが好きですが、ここのラッキョウは、非常にうまいです。車で、一時間強かかりますが、良く買いに行きます。
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みのるさん 投稿者:太田守人 投稿日: 5月23日(木)12時33分50秒
骨折ですか。大変ですね。お大事になさってくださいね。私も、中学の時、足を骨折しましたが、しばらくは風呂に入れない。ギブスの所が、そのうち蒸れて,痒くなってくるで大変でした。
この時は、割り箸で掻いていましたが。ギブス取れたときは、やったーって感じでした。ただ、一つだけいいことがありました。運動音痴の私は、半年位だったか、体育の授業を受けなくても良かったことです。
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アメリカ海兵隊 投稿者:太田守人 投稿日:
5月23日(木)12時25分34秒
は、アメリカ軍の中では、最精鋭部隊で主に、揚陸戦の橋頭堡の確保が主な任務です。このため、海兵隊は、昔から全員志願兵だそうです。この他、海軍艦艇の警備等、艦艇内の警察任務も海兵隊の仕事で、海軍軍人からは嫌われているそうです。
アメリカの在外大使館には、海兵隊は1個分隊規模(30名くらい)で配属され(公使館は知りませんが。)、大使館の警備とともに、その国で内乱等の擾乱が起きた場合、在留邦人の保護もその目的だそうです。このため、アメリカの在外公館には、ヘリポートがあり、擾乱が起きた場合、空母がその沖合いに来て、在外公館のヘリポートを使い、ヘリコプターで在留邦人を収容するまで、その人々を守るということも、海兵隊の大切な任務だと言います。
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骨折しました。 投稿者:みのる 投稿日:
5月23日(木)12時10分38秒
日頃の行いが悪いせいか土曜日に見事足を折りました。
全治二ヶ月、数週間は会社に行けないと東京女子医大の
医者に言われました。日頃あまり話さないお手伝いさんと
お話して日々過ごしてます。
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奈良漬 投稿者:太田守人 投稿日: 5月23日(木)10時05分16秒
私もダメです。ただ、嫁さんが大好きなので・・・。加賀野菜に、金時草という青菜があります。ぬるぬるの野菜でこれもだめです。珍しいねーって言われるのは、ゆばです。ゆばも一寸という感じです。大体甘いおかずはダメですね。なんか、菓子を食ってるみたいで。
安部さん、中国は、日本をもっとナメテいたのではないでしょうか?あれだけ、反中国の世論が出てこないだろーとタカをくくっていた。でも、あの日本領事館の警備担当の副領事は、山口県警の警察官だと新聞に書いてありましたが、日本の在外公館は、警察官が警備しているのでしょうか?
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そうですか 投稿者:安部奈亮 投稿日: 5月22日(水)23時44分18秒
アメリカはそのようにして守っているのですね。大田さん勉強になりました。でも当然のことですよね。
しかし中国も・・・ちょっと日本で反中国の世論が高まっただけであれほどトーンダウンしてしまうのは、普段の強い態度からして情けないですよね。もうちょっと尊大であってほしいのですが(笑)やはり国民に基盤もってない政権というのは根無し草ですから、いざと言う時に腰砕けになるのでしょう。案外外務省が毅然とした態度で常に接していれば、それだけで日中関係ももっと健全になるのかもしれません。
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私の苦手な食べ物 投稿者:安部奈亮 投稿日:
5月22日(水)23時16分38秒
奈良漬けとラッキョウです。それ以外はたいてい食べることが出来ます。子供の頃は少し偏食気味だったのですが、今はほとんど好き嫌いはありませんね。
私の意見を参考に?どこですか?
大筋は間違いはないのですが、ところどころ誤字脱字とか、少し間違いもあるからなあ。面映いですね。
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