過去ログ161(2002年〜6月10日)


--------------------------------------------------------------------------------
日立市 投稿者:太田守人  投稿日: 6月10日(月)17時40分22秒

>日立市は何かと言うと日曜日の朝に艦砲射撃みたいな花火を挙げます。市や日製が運動会とかの開催をお知らせしているのですが、これは迷惑です。

日立市って、終戦間際に、アメリカ艦隊の艦砲射撃を受けたところでなかったでしょうか?室蘭、釜石、日立の順番で、アメリカ艦隊が、北から艦砲射撃を加えたと聞いたことがあります。この時は、戦艦アラバマ、マサチューセッツ等の40cm砲で艦砲射撃を加えられたとか・・・。この時、釜石で砲撃を受けた方いて、貫通力は爆撃と違い、艦砲射撃の方が数段高く、防空壕がいつ壊れるかビクビクものだったそうです。更に、爆撃は1時間程度で終わるが、艦砲射撃は4〜5時間続くので、精神的にもまいったそうです。この人が、ベトナム戦争後、アメリカ戦艦ニュージャージーの40cm砲の砲撃を受けた、北ベトナムの将軍と対談し、話が艦砲射撃になり、お互い40cm砲の砲撃を受けた兄弟だと、変なところで、この将軍と、意気投合したと書いたありました。



--------------------------------------------------------------------------------
納豆 投稿者:太田守人  投稿日: 6月10日(月)16時54分15秒

水戸と言えば納豆ですが、この納豆八幡太郎義家様が、東北遠征の時、藁に包んだ、馬の飼料の大豆を食料が乏しくなったので、これを食ったら美味かったということのようですが、なんで、水戸が名物なんでしょう。義家は、水戸で納豆を食べたんでしょうか?秋田出身の人に聞いたんですが、秋田も納豆が名産だそうです。秋田は、引き割り納豆だそうですが。
この前、水戸出身の人の納豆の食べ方で、砂糖を入れるという方法があると書いてありました。その人は、この食べ方は、水戸の人間でないと分からないだろうとも書いていましたが。



--------------------------------------------------------------------------------
東京 投稿者:太田守人  投稿日: 6月10日(月)13時19分43秒

なんかでもそうですよね。私が、東京駅だったかで、お巡りさんに一寸止まって下さい。って言われて、5分ほどしたら、菊の御紋章つけた黒塗りの車が、昭和天皇のせて、目の前を通っていきました。実にスマートなものでした。



--------------------------------------------------------------------------------
その点は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月10日(月)11時58分37秒

京都の警察は慣れていますね。皇室が来る時の交通整理は非常に手際が良いので、見ていて気持ちが良いですよ。皇室が来る10分ぐらい前まで車が流れています。



--------------------------------------------------------------------------------
安部さん 投稿者:太田守人  投稿日: 6月10日(月)11時47分05秒

のおしゃるように、こんなことで文句いっていたら、京都には住めないでしょうね。でも、石川県警という田舎県警は、交通規制にしても、えらい早くからします。今の天皇が、皇太子だった時に、全国植樹祭だったか国体だったかの時、石川県に来て、通過時間の2時間前から、警察はとうせんぼしていました。丁度、正午に私がとうろうとして、おまわりに止められました。そこで、「こんな道路横断するのに、2時間もかかるか。さっさと渡らしたほうが、よっぽど警備もらくだろ。」って言ってやったら、そこの責任者みたいのが、「どうぞ。」って言ったので、渡りましたが、その時、私のほかに10人位渡ったのには,驚きました。これで、私も警察のブラックリストです。



--------------------------------------------------------------------------------
やはり不可欠? 投稿者:輔住  投稿日: 6月 9日(日)23時44分49秒

>実用的ではなくても武芸と言うのは必要性があったのかもしれないと思いました。
確かに世が乱れたときは戦う人がどうしても必要ですね。
だから平和なときでも武家政権・武士の建前として(多少うさんくさいけど)軍学もはやったし!



--------------------------------------------------------------------------------
京都 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 9日(日)21時31分28秒

は確かに毎日がお祭りの様なものですから市民生活をしている人にとっては実際迷惑を感じるところが多いように思います。
そう考えると京都で生活をしている人はエライですね^^
東京の場合は京都を更に拡大してようなものといっていいように思います。

座敷牢に押し込められた殿様の例としては阿波の蜂須賀がそうだったように思います。
この殿様は確か佐竹から来た養子だったと思いますが...??
確認はしていません^^;;
編集済



--------------------------------------------------------------------------------
敬虔な 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 9日(日)21時30分35秒

敬虔な仏教徒もキリスト教徒も同じ様なものなのかもしれませんね??
日本人の場合は生まれながらにしてほとんどの人が仏教徒ですから特に意識をする必要がないという点がアバウトになっている大きな部分かなと思っています。
更には仏壇の上には神棚が飾られていますがこれにしても神様というのは「遠い先祖」といった感覚であるように思っています。
そうすると仏壇に飾られているのは自分の近い先祖であり、神棚は遠い先祖という事になりますから神仏習合は何となく分かるような気がしています^^

みのるさんの場合は自覚を持ってキリスト教に接したからこそ緊張感を感じたのではないでしょうか??
安部さんがいうようにヨーロッパでは誰でもがキリスト教徒であるというのは日本人が仏教徒であるというのと同じ様な事なのかも知れませんね。
同様に現代のイスラム教徒のほとんどもそうなのかなと思います。



--------------------------------------------------------------------------------
下手に君主が自分と言うものを持つと 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 9日(日)16時22分44秒

座敷牢に押し込められてしまいます(笑)

例えばラストエンペラー溥儀がコロコロと変節したことを非難する人もいますが、あそこまで上に行くと自分と言うものを持たないで下に黙って担がれるのが仕事ではないかと思います。それに自分を持ったことによって殺されてしまった中国の皇帝も多いですからね。そういう立場でちゃんと生きて行くためにはやはり特別の教育が必要なのではないかと思います。

太田さんがおっしゃる様に、組織が大きくなって来ると統治の責任は君主よりもそれを補佐する立場の人にかかってくるでしょう。幕末に活躍した雄藩の英主たちには必ず知恵袋となる人がいました。逆にその知恵袋が死んでしまうと途端に冴えなくなってしまった人もいます(藤田東湖を失った斉昭や橋本佐内を失った松平春岳)。後ろについているスタッフも含めて藩主なのでしょうね。これは現在の政治家や財界人と同じだと思います。

家斉の時代(文化・文政)の頃の歴史は文化史は出て来るのですが、政治史はあまりでてこないですね。なんだかんだいって田沼意次や松平定信の改革がうまく行って幕府には蓄えが出来たと言うことでしょうか。

私は武士道と言うものはあまり評価していないのですが、綱吉と光圀のことを書いていて思うところがありました。

幕末に活躍した藩は、学問と共に戦う精神を忘れない様にした藩が多いですよね。水戸も薩摩も会津も、やはり自分の本来の精神を忘れなかったことがエネルギーを持続させたのでしょうか。実用的ではなくても武芸と言うのは必要性があったのかもしれないと思いました。

逆に人材や技術力や財力で、圧倒的に優位であったはずの幕府があっけなくつぶれてしまったのは幕府の官僚が完璧な文人になってしまっていたことが原因かもしれません。



--------------------------------------------------------------------------------
交通規制 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 9日(日)16時05分16秒

そんなことを言ったら京都は月に一辺はどこかで交通規制が行われていますよ。
まあ車を持っていないのでまだ不便は感じませんが(笑)

自動車教習で初めて公道に出たときは祇園祭の日で車も人も多くて恐かったです。

日立市は何かと言うと日曜日の朝に艦砲射撃みたいな花火を挙げます。市や日製が運動会とかの開催をお知らせしているのですが、これは迷惑です。



--------------------------------------------------------------------------------
kitunoさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 8日(土)10時45分57秒

読んでいただきましてありがとうございました。

私も確かに午年生まれの子は、きっと優しくて元気な子だと思います^^

私達はどうしても漢字の意味から深読みしてしまいがちになりますが、少なくとも古代においては「万葉仮名」の時代だと再認識すべきだと思っています。

最新アップ「聖徳太子への疑問に答える」を拝見しました^^
さすがだと思いました。
皆さんもご覧になって下さいね。

下記のアドレスです。
編集済

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8918/gimon_taishi.html



--------------------------------------------------------------------------------
安部さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 8日(土)10時39分25秒

が書かれているように綱吉の時代にはまだ戦国時代の殺伐とした??感覚がまだ残っていたと何処かで読みました^^。
綱吉が生類哀れみの令を出したのはこれによって簡単に殺傷事件が起こるのを防ぐ目的であったというわけですね。

でも綱吉が将軍になったのは1680年ですから大体信長が没して100年(98年、^^)も経ってからですよね。
これだけ時間が経っているのですから戦国時代の殺伐とした風習というのはちょっと変だと思った記憶があります。
でもこれはアメリカ西部の町が「力が全て」という感じで発達してきたように江戸も発達してきた一面を現しているのかなと思いますが...

ひょっとしたら、綱吉は学者でしたからこのように「ぎらぎらした」無秩序と感じられるようなエネルギーを嫌ったのではないでしょうか??^^

生類哀れみの令は悪法だと言われますが、これによって今まではあっさりと刀を抜いて人々が簡単に殺し合いをしていた社会がここに来て「命の価値」に目覚めたような思っています。
ドラマでは犬こそ全てのように描かれていますが、「犬ですら命を大切にすべきなのだから人間については言うまでもない」といった捉え方だったように思っています。
この辺は話を面白くするためだと思いますが、これは綱吉の人物評価を歪めていると思っています。



--------------------------------------------------------------------------------
太田さんの 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 8日(土)10時37分13秒

前田に対するトラウマを面白く拝見させて貰いました^^

>市内が交通規制で、いい迷惑です

これは全くその通りだと思います。
娯楽で使用する人は別にしても生活空間に大イベントが入ってくるとちょっとの距離でも大渋滞になりますしゴミを捨てられたり風紀が乱れたりします。

「お祭り」という正義に正面切って反論など出来ませんが、これからはプラス面ばかりを強調するのではなくマイナス面もしっかりと表示して、それでもやる価値があるのだというコンセンサスを得る努力をすべきだと実行する側は考える時代になったと思っています。

それで歴史の知識について自分の場合はどうだったのかなと思い返してみたところ、ほとんどが伝承によるものだったのです、笑
この辺は大三元さんがよく言われている「伝承のゆれ」をひょっとしたら実体験してきたのかも知れないと思いました。

更には本からの知識もほとんどが立ち読みで得たものばかりだったのです。
ですから出典は何ですか??と聞かれた時に「そんなの知るかい、笑」「気が付いた時には知っていた^^」と思った理由はここにあるのです。

立ち読みで鍛えた私の特技は「超速読」です。
その本が何を言おうとしているのかとか、あるいは感動したフレーズはいつまでも心に残っているのですが何しろ本のタイトルを読んでいないのですから、誰が書いた何というタイトルの本か後から調べる事が出来ないのです、自爆^^;;

でもさすがに最近は本を買う余裕が出来ましたよ(;^_^A)
編集済



--------------------------------------------------------------------------------
もっと詳しい人がいそうですが 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 7日(金)18時04分27秒

私の知っている限りでは,主要な街道では幕府の取締りがあったので,サービスは一定で値段も均一だったそうです。そして江戸時代の払いは,掛けじゃない場合はどこも前払いが基本なので「置いていくよ」と言うことはなかったそうです。それとサービスに対しては,チップを払うのが基本だったそうです。



--------------------------------------------------------------------------------
肉食 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 7日(金)17時22分05秒

江戸時代も日本人は,割合肉を食べていたようですね。江戸にも、「もんじや」という肉屋があったとか聞きました。イノシシは山鯨といっていたとか。鬼平犯科帖で、長谷川平蔵が猫殿に、「これは、ノウサギだな。」とかいうところがあったように思います。明治になって、肉食が割合すんなり入ったのも、欧米に対する憧れもあったかも知れませんが、割合肉を食っていたのが原因だと思っています。
時代劇なんかを見ると、茶屋で休んでいた人が、「ここに置くよ。」と言って、席を立つ時、料金を置いていくことがありますが、茶屋で,休んだらいくらとか料金がきまっていたのでしょうか?
江戸時代は、組合といいますか、そのようなものが、多くありましたので、料金が決まっていたのかなとも思いますが、ご存知の方は教えてください。



--------------------------------------------------------------------------------
長いので二つにしました。^^;; 投稿者:kituno  投稿日: 6月 7日(金)15時59分03秒

遅くなってしまいましたが、「聖徳太子の軌跡2」も読ませていただきました。

>聖徳太子のもうひとつの有名な「憲法十七条」とはこれが単独で存在するのではなく、冠位十二階と密接な繋がりをもったものとして捉える必要があるように思っています。

きんたろうさんの主張される通りだと思います。
太子は、『十七条憲法』に先立ち『冠位十二階』を定めていますが、これは今までの古代豪族による政治体制(家柄による姓の世襲)ではなく、天皇が冠位を授けることによる能力主義の体制作りをしようとしたものです。『憲法十七条』は『冠位十二階』への理解を説いたものだったと思います。

>例えば制度が冠位十二階であるとすれば憲法十七条とはこの魂に当たるものだったと思うのです。だからこそ憲法十七条は一般に公布された訳ではなかったのです。

私も聖徳太子が作った『十七条憲法』とは、現在の『日本国憲法』のように国民全体に対してのものではなく、「官僚の心得が厳しく説かれているものである」ということ前提に
HPの中で「十七条憲法の考察」をしました。
『冠位十二階』や『十七条憲法』は当時の社会ではあまりにも画期的・理想的すぎたのですね。

>朝鮮半島というフィルターを通すが故に「本物」が変質したものになった可能性に対するこだわりもあったのかも知れません。

「遣隋使」が実施されるまでは、朝鮮半島を通して様々な技術・文化が入ってきました。
しかし聖徳太子は、遣隋使を派遣することにより、直接中国の文化や政治体制を取り入れようとしました。それが生かされるのはずっと後世になってからです。

きんたろうさん、続編を期待しています。
「聖徳太子の軌跡」は今も続いています。



--------------------------------------------------------------------------------
長くなってしまいました^^; 投稿者:kituno  投稿日: 6月 7日(金)15時57分30秒

>明治時代の歴史学者久米邦武は、唐に渡った僧がキリストが厩で生まれたという説話を倭国に紹介し、それを付会したと主張した(『聖徳太子実録』)。
>類似している点は確かに興味深いのだが、傍証する史料もなく、単なる偶然の域をでないだろう。

私のHPの中でもこの説を紹介させていただいたのですが、梅原猛氏なども景教の影響について『隠された十字架』の中で主張されています。
一時私自身、この説にとても興味を持ち魅力を感じていたのですが、最近「穴穂部間人皇后が厩戸皇子を産んだのは本当に厩ではないか」と思うようになりました。

つい最近まで日本の農家には家の中に「厩」がありました。
それも家の中で最もよい場所か、玄関(昔は広い土間だった)を入ってすぐのところに「厩」があったのです。馬は家族同様、とても家の中で大事にされていたそうです。
太子の時代はもっと貴重だったはずです。きっと「厩」も大切な場所だったのではないでしょうか。現代人が考えるよりずっと神聖な場所だったのかもしれません。

>この年の干支は「甲午(きのえうま)」で、この「午(馬)」にちなんで「うまやと」と命名されたと推定する考えである。

午年生まれの子は、きっと優しくて元気な子なのかもしれません。^^



--------------------------------------------------------------------------------
オットセイ将軍 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 7日(金)13時15分27秒

11代将軍徳川家斉は、ご存知のように多くの女性と子供を持っていました。特技は、七面鳥だったかホロホロ鳥だったかの鳴き声だったらしく、奥女中あいてに鳴き声を真似しては悦にはいっていたとか言います。(しかし、どんな泣き声なんでしょう。)官僚機構が発達してくると、口八丁,手八丁の君主よりも,「よきに計らえ。」なんて言ってる君主の方が、名君になるのかも知れませんね。



--------------------------------------------------------------------------------
今日から 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 7日(金)12時36分24秒

私の住んでる金沢では、百万石まつりが始まります。また、市内が交通規制で、いい迷惑です。利家が、金沢城に入場したのは、6月14日だそうで、昔は、6月14日に百万石まつりをやっていました。しかし、5年程前から、人が集まり易いということで、6月の第2土曜日ということになっています。私が、小学生の頃は、金沢市商工会議所主催、金沢市協賛でした。そして、利家役は、商工会議所会頭だったですが、今は、俳優がやっています。今年は、風見しんごらしいです。
小学校の時には、金沢市役所から、半径4kmぐらいにある小学校の5・6年生は、6月13日に前夜祭で、ちょうちん行列をやっていて、それに私も動員されていました。私のうちから、繁華街まで4kmあります。ぎりぎりのところでした。更に、繁華街を4km歩かされます。夜7時から始まるのですが、いつも帰れるのは、11時頃でいい加減腹が立っていました。
私の前田嫌いは、あるいはこのことが原因かも知れません。しかし、その頃の私は、歴史も好きでしたが、天体観測が大好きで、風邪で40度くらいの熱があっても、晴れれば、天体望遠鏡にかじりついていました。その時、ふっと思ったのが、旧暦6月14日って、梅雨の終り頃です。なんで、こんな雨の時期に金沢城に来たのだろうと思いました。



--------------------------------------------------------------------------------
それに綱吉と光圀は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 7日(金)11時16分43秒

元々殿様になるべき運命になかったと言う点では似ていますし。相通ずる所があったのかもしれません。



--------------------------------------------------------------------------------
こう考えてみると 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 7日(金)11時14分32秒

光圀と綱吉と言うのは思った以上に因縁が深そうですね。

綱吉に儒教を強く勧めたのは光圀かもしれないと思いました。日本を儒教を中心にしてまとめようと考えた点では両者共通していたのではないでしょうか。綱吉の初めのほうの政治には、光圀の意向が出ているのかもしれません。でも綱吉は武士を完全に官僚として飼い馴らそうとしたのに対して、光圀のほうは戦う精神の方も残すべきだという点で、最後の方は分かれてしまったのかもしれませんね。

戦国時代の日本人は肉を食べていたそうですから、光圀はそれを残そうとして牧場を作ったのではないでしょうか。野菜や魚ばっかりでは戦えない、と言うことを示そうとして。



--------------------------------------------------------------------------------
きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 7日(金)08時33分12秒

黄門様は、蝦夷地までいっているのですか。知りませんでした。光圀は、若いときは、ワルだったとか聞きました。修羅場くぐっているので、綱吉や吉保ぐらいなんじゃいという意識があったのかもしれませんね。私は、綱吉ってあれで結構名君だったと思っています。彼の失政は、生類哀れみの令ぐらいだと思います。安部さんのおしゃるように、公衆衛生政策なら、失政ともいえないかもしれません。私も、彼がクソ真面目すぎたので、庶民の反発を食ったのだろうと思っています。
光圀が、牧場を持ち肉を食っていたのも、グルメより、綱吉に対するあてつけだったと思います。



--------------------------------------------------------------------------------
享保の改革というのは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 7日(金)00時12分28秒

あれは幕府が続くための改革であって庶民のための改革ではありませんでした、庶民にとっては綱吉の時代の方がよかったはずなのですね。まあ幕府がつぶれたら、治水工事とかも出来なくなるし、治安も維持できなくなるので、庶民のためにもなるのですが。享保の改革によって、経済はむしろ長く停滞してしまいます。

綱吉が悪く言われるようになるのは、富士山の宝永の大噴火を皮切りに世界的な寒冷化が始まり、さらに享保の改革によって経済が停滞し、吉宗が進めた無理な開墾によって天災(人災)が頻発するようになった責任を押し付けられたのかもしれない、とふと思いました。

ただし吉宗の改革がなかったら18世紀の天候不順を乗りきれなかったのかもしれませんが?吉宗と言うのは結構問題がある人なんです。

18世紀と言うのは、天候が悪くて飢饉が頻発します。幕府も藩も、
(1)改革で蓄えが出来る→(2)飢饉が起こる→(3)蓄えを吐き出して再び困窮する→(4)飢饉が収まる→(5)経済的に発展する→(6)経済的に積極的な政策を行う→(7)飢饉が起こる→(8)積極的な政策が破綻する→(1)改革
この繰り返しです。

そして、(6)の政治家よりも(1)の政治家のほうが高く評価されています。これは儒教の影響なのか、それとも飢饉のときに救済を行ったからか、どっちでしょうね?



--------------------------------------------------------------------------------
生類哀れみの令 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 6日(木)23時57分29秒

あれは本来は公衆衛生を改善するための法律だったらしいですね。
それまでの江戸と言うのは、まだ戦国の風が残っていて、それにまだまだ発展する途中で、スラムが広がっていたらしい。
で、江戸っ子と言うのは全国から集まった食い詰め者なので衛生感覚が全くない。子供は捨てる、それを犬が食べる、辻斬りは横行するとまあとんでもない状態だった。
これを改善するために綱吉は厳しい法律を出します。子供や老人を捨てるな、犬がいたら強暴にならないようにちゃんと餌をやれ、これで日本人の意識も大分直ったらしいのですが、江戸っ子はこれを茶化して、それに対して綱吉がもっと厳しくする(綱吉はクソ真面目でした)の繰り返しで何時の間にか行きすぎた動物愛護法になっていたらしいです。

綱吉は立派な政治家でした。綱吉の悪口を広めたのは案外吉宗あたりかもしれません(笑)



--------------------------------------------------------------------------------
太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 6日(木)21時51分16秒

水戸光圀は鎌倉までは行ったことがあるそうですね。
勿論、領国である常陸国北部をお忍びで歩いた事はあったようです。
農家に立ち寄った時、米俵の上に腰をかけて「この罰当たりじじい」と怒られたという水戸黄門の話にも出てくる有名な話の元になった家が近くにあります^^

また水戸藩は蝦夷地開発??という名目で北海道を探索しています。
これなども全国を歩いたという話の元になっているように思います。

光圀にしてみれば綱吉を将軍にしてあげたのは自分だといった自負があったと思います。
また彼らが価値のある人だという条件は家康の血筋を引いているからですよね。
この点で見れば光圀は孫であり綱吉はひ孫ですから、光圀には自分の方が濃く大権現様の血筋を引いているのだから実はえらい(笑)と思っていたのかも知れませんね^^;;

漫遊記が実際に出来たのは江戸時代末期頃だったと思いますが、その下地はもっと前からあったような気がしています。
編集済



--------------------------------------------------------------------------------
やっぱり 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 6日(木)21時48分48秒

FIFAはトンデモない組織だった事がまたまたはっきりしましたね。

鹿島スタジアムでも3800名分の追加販売をするようです。
鹿島スタジアムは収容人員が3万人くらいだったのにFIFAの「指導」で5万人も収容できるように観客席を増設しました。
このための費用は当然県が出資しています。
要するに税金投入ですよね。

元々ワールドカップだけしか満員にならないと分かっているにも拘わらずワールドカップのためだけに巨額の税金を投入して増設工事を行ったのです。
それなのに欲しい人にチケットが渡らず空席だったとは一体どういう事だと茨城県知事が抗議していましたが当然だと思います。

パソコンを買ったら内職を紹介するので儲かりますなどと詐欺にあって騙された人のことが話題になっていますがワールドカップ誘致に名乗りを上げた地方自治体も似たようなものだと思います。
過疎の活性化に繋がるなどと甘いそろばんを弾きましたが、外国人がそれほどお金を落としていく訳がありません。
ましてサッカーが盛んな国々とはどちらかと言えば第三世界が主流です。
ここにはお金持ちが数多くいるはずがないのですから尚更だと思います。
編集済



--------------------------------------------------------------------------------
吉村先生 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 6日(木)21時46分31秒

の本に下記のように書かれている部分があります。

それでは、「うまやと」の名は、どのようにして生じたのであろうか。
一つは、生まれ年の千支である。
ただし、誕生した年は、必ずしもはっきりしない。
古代の書物によると、生年は三説に分かれる。
(1)五七三年(敏達元年、『扶桑略記』。『聖徳太子伝暦』)
(2)五七三年(『本朝阜胤紹運録』)
(3)五七四年(『法主帝説』)である。
このなかでは(3)の五七四午説が妥当であろう。

この年の干支は「甲午(きのえうま)」で、この「午(馬)」にちなんで「うまやと」と命名されたと推定する考えである。
ついでにいえば、没年にも二説ある。
『日本書紀』では六三一年(推古二九)だが、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘・『法王帝説』などでは六二三年(推古三〇)。
古代では満年齢ではなく、数え年で計算する。
後者の六二三年説をとれば、没年齢は四九歳なので、生まれは五七四年になる。
あるいは、厩戸皇子の娘の一人に馬屋古女王がいることからすれば、干支よりも「馬屋」の方に意味があるかもしれない。

この「うまやと」という名前の由来を説明する話、すなわち名前の起源詳が『書紀』にある。

「(穴穂部間人主女)懐妊開胎さむとする日に、禁中に巡行して、諸司を監察たまふ。
馬官に至りたまひて、乃ち厩の戸に当りて、労みたまはずして忽に産れませり」(推古元年条)とみえるのである。
この説は、「厩戸」を文字どおりに説明する典型的な例である。

当時の出産は、新たに産屋を建てて行なわれた。
古代では、その用途にもとづいて建物が建築されるからである。
馬屋(厩)の建物と出産用の産屋との間に、何らかの関係があったのかもしれない。

かつて明治時代の歴史学者久米邦武は、唐に渡った僧がキリストが厩で生まれたという説話を倭国に紹介し、それを付会したと主張した(『聖徳太子実録』)。
類似している点は確かに興味深いのだが、傍証する史料もなく、単なる偶然の域をでないだろう。

いずれの説を操るにしても、当時の権勢者蘇裁馬子と「馬」が共通することは注目される。
馬子の「子」は尊称であり、実名は馬と想定される。この馬の名と関係するのである。

厩戸に何かの意味があるとすれば蘇我馬子に関係があるのではないかと私も思っていますが実のところよく分かりません^^;;
少なくとも干支説よりは面白いと思っています。



--------------------------------------------------------------------------------
きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 6日(木)13時01分57秒

聖徳太子では,ご迷惑をお掛けしました。
ところで、話は全然変わりますが、水戸黄門様。全国漫遊はしていなかったが、領内は身分を隠して、ちょくちょく見回っていたとか、聞きましたがどうなんでしょう。この逸話に、大日本史編纂のため、介さんと格さんが、光圀の紹介状を持って諸侯に資料を見せに貰って歩いたのが、全国漫遊の話になったとか。私は、これに生類哀れみの令に、徹底的に反抗したのが、庶民に受けたのかなと思っています。



--------------------------------------------------------------------------------
でもみのるさんは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 5日(水)22時26分10秒

かなり真面目に教会へ通っていらっしゃたんですね。すごいです。

私の場合は授業だから何も考えずに賛美歌とか歌っていました。友達のインド人は歌っていませんでした。宗教が違う場合は別にその授業には参加しなくても良かったらしいです。

せっかく教会に興味を持ってもみのるさんのような理由で離れて行く日本人は多いようですね。私は遠藤さんが言っているように、これは日本の教会の方に問題がるのではないかと思います。パリサイ人になっているのではないでしょうか(笑)でもこれは先進国のプロテスタントはみんなそんな感じになっているそうです。ただの道徳守り競争の場になっているとか。



--------------------------------------------------------------------------------
聖徳太子 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 5日(水)21時01分29秒

に景教を結びつけるのは可能性が大きいからといった判断によるものではなく「結びつけたい」という願望がまずありきかな、というのが感想です^^;;
安部さんが書かれているように「納得が行かない」のは「不自然」さを感じるからでなのです。

>「遠い国にこんな偉人がいた、その逸話を借りよう」くらいのことがあったのではないかと
Toshyさんのこの推論は太田さんとほとんど同じ様なものだと思いますが、やはり根拠としてはかなり弱いと云わざるを得ないと思っています、笑
その理由については何度も書いていますが、自前で沢山持っているのですから、遠くからわざわざ寓話を取り入れる必要性が無いからです。

ですから、もし敢えて取り入れようとするのであればそれなりの強力な理由が必要になると思っています。
でも仏教にも聖者伝説のプロトタイプは事欠きませんからね。
理由が見つかりません^^;;

そして古代の人達の頭脳もまた現代人と遜色がないのですから、少なくとも知識階級において景教と仏教を混同していた可能性は低いものと考えています。



--------------------------------------------------------------------------------
そうですかね 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 5日(水)17時03分50秒

ヨーロッパに行けば泥棒だってクリスチャンですからね。

道徳的に立派な人になるのとクリスチャンになるのとは違うはずです。

そもそもキリスト教は日本の浄土真宗に似たところがありますから、どうしようもないろくでなしだからこそクリスチャンになって、やっぱりどうしようもないろくでなしのままということもありえるわけです。でもそれでも立派なクリスチャン。まあここら辺は遠藤周作さんのテーマですが。

これはどの宗教にもいえることだと思います。道徳的に立派になることは大変結構なことですが、それと宗教を信じることは別のことです・・・

みのるさんの立場は江戸時代の鈴木正三や石田梅岩の心学、あるいは萩生徂徠や伊藤仁斎と同じですよね。日本の伝統的な道徳の立場です。



--------------------------------------------------------------------------------
キリスト者になるのは 投稿者:みのる  投稿日: 6月 5日(水)15時49分38秒

結構辛いですよ。毎週、貴重な日曜日を教会に費やさなければならないし、
献金をしなければならないし、牧師の機嫌を取らなければならないし、
戒律を守らなければならないし・・・



--------------------------------------------------------------------------------
と、横から… 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 6月 5日(水)15時29分39秒

安部さん&きんたろうさんが言われることは、
>聖徳太子がキリストの逸話で飾られる筈がない
という論なのかなと思いましたが、わしは太田さんの
>何らかの形で,イエス・キリストも残っていてもいい
に賛成してみよう。

昔と現在の宗教観、西洋と東洋さらに日本の宗教観の違いを見ると、
キリスト教と仏教の間に明確な対立があったわけではないと思うわけです。
ギリシャ・ローマの神話では、仏陀も神々の一人に入っているし、
となれば日本でもキリストが八百万の神の一人になってもおかしくない。

聖徳太子の全てをキリストから持ってきたのではないのは明らかですが、
「遠い国にこんな偉人がいた、その逸話を借りよう」くらいのことがあったのではないかと。
ただし政治家という立場にある聖徳太子にキリストを全てかぶせたのでは、
つじつまが合うはずがありませんね。
だから誕生シーンだけでも、ということは充分ありえると。

http://homepage2.nifty.com/snowwolf/index.htm



--------------------------------------------------------------------------------
安部さん 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 5日(水)13時07分03秒

景教は、マイナーなキリスト教のさらにマイナーな一派で、中国にまで来ているということで、こだわって見ました。もし、キリスト生誕の話が、書紀編纂時に伝わっていた可能性もないことはない。マイナーであるが故に、知っている人も少ないと思います。そこで、書紀編纂委員のなかで、こんな話もありますよ。と言った人がいる。じゃ、それを取ろうという話にもなったとも考えられます。ただ、この説は、景教が日本に入っていたという前提がなければ成立しないことも分かっていますが、聖徳太子の生誕の話が、キリスト生誕の話を基にしたという説を噴飯物として、片付けることに、異議があったからです。私自身、道教は入ってきただろうが、景教はどうだろうかと思っています。日本は、大体多神教だと思います。そうすれば、何らかの形で,イエス・キリストも残っていてもいいように思います。しかし、今の仏教や神道に、私が知らないのかもしれませんが、形跡はないように思います。
私は、聖徳太子は隋の使節が来た時には、天皇であったと思っています。外交上では、色々味噌をつけたが、内政上はある程度功績を上げた。しかし、憲法17条や官位12階で、豪族の反発を受けた。そこで、斑鳩に引退せざるを得なくなった。彼の政策は、一寸早すぎたと思っています。



--------------------------------------------------------------------------------
それに 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 5日(水)09時27分19秒

生誕のシーンだけキリストから拝借するというのはどうにも納得が出来ないです。

我々はキリスト教の影響が強い世界に生きていますから、「馬屋=キリストの生誕」と思ってしまいますが、調べてみれば馬とか牛の厩舎で生まれた伝説上の人物は他にもいるのではないでしょうか?それにイエスも聖徳太子も本当に厩舎で生まれただけなのかもしれないし(イエスはその可能性は高いでしょう、ただ単に馬屋で生まれたことを記述した)。あるいは太子の方は本名から後付けした話の可能性が高いですよね。

このことは聖徳太子が実在したかしなかったかとはほとんど関係のないことなんです。



--------------------------------------------------------------------------------
となると 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 5日(水)09時15分48秒

太田さんの意見にとって、景教は必要不可欠のものではないような気がしますが?

多分太田さんが読んだ何かの本にそれは書かれていたのだろうと思いますが、聖徳太子架空論を展開するのならば、とりあえずは景教からは離れた方が良いと思います。むしろ、シッダルタ太子をなぞったと言う線で攻めたほうが、架空論にとっても有益ではないかと考えます。多分仏教の説話とか中国の古典を調べるほうが、聖徳太子の説話に似たものがいっぱい出てくるのではないかと私は思います。



--------------------------------------------------------------------------------
安部さん 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 5日(水)08時54分10秒

私も聖徳太子の時代に、景教が日本に入ったとは思っていません。そのことは、前にも書いてあります。ただ、日本書紀の編纂段階で入っていたということです。聖徳太子と言うのは、タリシヒコ大王+馬子+αであったと思います。そうすれば、元明天皇の時代に、完成したのですから、この時代に、唐経由で入ってきた可能性がないとは言い切れないと思います。景教は、唐が拡大していく時点で、中国に伝播した。早くとも、日本に来たのは、天武以降になると思います。また、景教が、直接日本に来たとも考え難い、矢張りシルクロード経由できたでしょう。
私は、聖徳太子は、日本書紀がタリシヒコ大王を隠したいという目的で創作した人物だと思います。記紀には、タリシヒコ大王がありませんが、隋書にはタリシヒコがあります。この時代、国内で磐井の乱のような大乱があった形跡がありません。そこで、タリシヒコは大和の大王と考えるべきだと思います。重ねていいます。私は、聖徳太子と言う人物は、タリシヒコ大王の失政と馬子の業績を消すための、日本書紀の創作した人物であると。その編集段階で、キリスト生誕の話を利用したにすぎない。世紀をごっちゃにしてはいません。安部さんとの大きな違いは、聖徳太子が創作人物である家内かということだと思います。私は、聖徳太子に関しては、高坂さんのある人物をモデルに創作したというお考えに近いです。



--------------------------------------------------------------------------------
神とGOD 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 4日(火)23時12分39秒

いくつかある選択肢の一つとして一神教のGODを選ぶ我々日本人の中のクリスチャンと

初めから一神教のGODを選ぶことしか許されない人達とでは、宗教に対する考え方が根本から違っていると思っています。

キリスト教の神学者が書いていましたが、キリスト教で使う「信仰」と言う言葉は、むしろ「忠誠」と言う言葉に近いと言うころです。つまり、キリスト教世界にいる人にとっては、GODは一つしかないので、そのGODに対していかに忠実であるかしかあり得ないと言うことでした。信じるのではないと言う訳です。既に一つしかないから、後はその一つしかないGODに対してどうあるべきかしか問題にならない。

ただGODと契約を結ぶと言う考え自体が、別の神の存在を前程としているはずです。ここに矛盾があると思います。初めから一つしかなければ契約を結ぶ必要もないはずであるからです。これはユダヤ人がシナイ半島の荒野を放浪する間に、その地域の神(悪魔的だけれどもかなり御利益があると考えられていたらしい)と契約を結んだことに端を発しています。

キリスト教ほど人々を抑圧している宗教はありません。これに西洋はどこまで気付いているのでしょうか?私は彼等がキリスト教を捨てながら、キリスト教が持っていた独善的な部分はそのまま引きずっている様に思えてなりません。



--------------------------------------------------------------------------------
う〜〜ん 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 4日(火)22時56分40秒

太田さんは軍艦の話以外になると途端に時間感覚があやふやになってしまうところがありますね。

6世紀から7世紀にかけて生きていたであろう厩戸皇子と聖徳太子伝説ははっきりと区別しなくてはいけません。

厩戸皇子の時代には景教は伝わっていません。これはほぼ断言できます。景教の影響があるとしたらそれは神格化された聖徳太子のほうです。

ですから、推古天皇の時代に厩戸皇子が「太子」と呼ばれたかどうかは、この場合は別に関係がないのです。

厩戸皇子が神格化される過程で聖徳「太子」と呼ばれるようになったところに、私はシッダルタ太子の投影を見ているのです。


--------------------------------------------------------------------------------
太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 4日(火)19時43分33秒

聖徳太子の軌跡で触れられるかどうか分かりませんが馬子に対してこれと言って否定的な考えを持っている訳ではありません。
いい悪いではなくやはり歴史に名を留める人は尋常ではないと思っているからです。
でも馬子だけを持ち上げて聖徳太子のプラス面は馬子のものであった、という説もどうかなと思っています。

カエサルに因んでカエサルは皇帝という意味を付加されました。
これと正反対のベクトルを向けられたのが「蝦夷」という文字ではないかと思っています。
要するに大化の改新によって「蝦夷」という文字が悪字になったのではないかという考えです^^

みのるさん
PCを修理されたのですか??
このパソコンも電源ユニットの不調か先日インストールしたマイクロソフトのプログラムのせいなのかよく分かりませんが、つけたままにしておくとパソコンがストを起こすようになってしまいました^^;;

そのために常時接続でもこまめに電源を切るようにしています、笑

勇者ロトさん
安部さんが書かれているルカ伝に似ているような話は私が思うに事実だったのではないかと考えています。
当時はものすごい身分社会のコンセンサスを持っていたはずでしたから、高貴な身分の人がほんの少し下々の者に優しく言葉をかけただけでも「大事件」だったように思うのです。

今の常識からするとほんの些細な出来事であってもこのような事実があれば伝説を造り出す大きなエピソードになったように思っています。



--------------------------------------------------------------------------------
あっ 投稿者:勇者ロト  投稿日: 6月 4日(火)18時33分41秒

既出でしたね(爆)



--------------------------------------------------------------------------------
違うのかな? 投稿者:勇者ロト  投稿日: 6月 4日(火)18時31分52秒

>聖徳太子の死後、棺を開いたら遺体がなかったという話を聞いた事があります

この遺体消失は太子の遺体でなく、太子が、片岡でであい衣食を与えたという真人(マヒト)のことではないですか?それなら日本書紀が出典です。「尸解仙伝説」というやつですね。
太子にもそういう伝説もあるのかもしれませんが私は聞いたこと無いです。

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/index.shtml



--------------------------------------------------------------------------------
現代では 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 4日(火)18時30分31秒

キリスト教は世界一の勢力を誇っているわけですが、これが時間軸をずっと遡っても同様だったわけではないのは安部さんが書かれているとおりです。

キリスト教が悪いとか否定するというわけではなく、古代の日本社会を考えた時にキリスト教の伝播力がどれほどだったのだろうかと素直に歴史を見ればとても仏教の比ではなかったのは明らかです。

普遍的な寓話が導入されたところ、この二つの話が似ていたのは偶然であると考えないと説明がつかないのです。

何故ならばキリスト教と同様に(というか当たり前ですが)仏教にも聖人逸話は事欠きません。
それどころか、500年もの時間を先行している仏教の逸話の方がキリスト教に取り入れられた可能性を考えた方が現実的だと考えています。
たっぷりとある仏教にまつわる逸話を選ばないで敢えて当時無名だったキリスト教の逸話を持ってくる必要があるはずがないのです。

聖徳太子は「日本仏教の父」なのですから、彼がブッダではなくキリストの逸話で飾られる筈がないと思います^^

これはちょっと意味合いがずれてしまいますが、大航海時代の前にキリスト教国、もしくは白人の国が西の彼方にあるという信仰に近い思い込みがあったのと何処か似ているような気がしています。
(ピンぼけでした、笑)



--------------------------------------------------------------------------------
おひさしぶりです 投稿者:みのる  投稿日: 6月 4日(火)18時28分13秒

PCが壊れたのでしばらくぶりでした。
ところで神様というのはいるのでしょうか?
私は神は信じないが、運命というのいはあると思うのです。
松下幸之助も似たようなことをいっています。
私は中央にしようか慶応にしようかくじをつくって
ひいたら中央になりました。今でも中央にして良かったと思う時と良くなかったと思う時
があります。良い点としては安いこと、法律しかやらないことがあります。悪い点と
しては慶応のほうがかっこいい事、卒業できないことです。
これも運命だと思うのです。



--------------------------------------------------------------------------------
聖徳太子 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 4日(火)18時05分06秒

しかし、聖徳太子は偉いと思います。聖徳太子だけで、これだけ意見がでるのですから。古代史のスーパーマンだと思います。



--------------------------------------------------------------------------------
安部さん 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 4日(火)17時48分32秒

私は、太子という言葉自体が、後世のもの(天武以降か?)と思っています。聖徳太子の時代は、「ひつぎのみこ」若しくは「みこ」と言ったと思います。推古の時代に、太子といったとは思えません。タリシヒコというヒコは、男性の読み方だと思います。そこで、推古の時代は、太子という言葉は、まだなかったと思います。



--------------------------------------------------------------------------------
The 太子 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 4日(火)17時23分50秒

ちょっと違うかもしれませんが

日本では皇太子のことは「ひつぎのみこ」とか「東宮」と呼びます。普通今現在存在する皇太子を「太子」とは呼びません。

これはやはり日本には「The太子」と呼ぶべき人物がいるからです。それは下で書いたように、聖徳太子とシッダルタ太子です。



--------------------------------------------------------------------------------
それは多分記憶違いでしょう 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 4日(火)17時17分58秒

死体がなくなったのは聖徳太子ではない、行き倒れの方です。

それは聖徳太子と蘇我馬子が道を歩いていたら、行き倒れがあって、太子が行き倒れに自分の衣をかけてやろうとしたら馬子が「そのようなことをするのは政ではない」と言って止める。それに対して太子が「それでも一人一人の人間を救わなければならない」と言う風なことを言って、行き倒れに衣をかけてやる。しばらくして,その行き倒れの死体を確かめにいったら、死体はなくなっていて、「あああの行き倒れは弥勒菩薩だったのか、さすが太子様だ」と言うことになる説話のことだと思います。

このエピソードは事実と言うよりも太子と馬子の違いと二人の葛藤と太子の不吉な未来を暗示する大変よく出来た喩え話と考えた方が良いでしょう。

太子とキリストをつなげようとする時によくでてくる(ていうか唯一の根拠が)この説話と馬屋で生まれたと言う伝説です。

しかし、太子はやはり「太子」と書かれている時点で、キリストではなくてシッダルタ太子(=お釈迦様)をなぞったとしか考えられません。日本では「太子」と言えば聖徳太子かシッダルタ太子を指していたのですから。

聖徳太子の慈悲深い姿はキリストに似ていなくもありませんが、これはやはりお釈迦様に聖徳太子をなぞらえたと考えるべきでしょう。



--------------------------------------------------------------------------------
確認がとれなかったので、 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 4日(火)16時49分52秒

書きませんでしたが、聖徳太子の死後、棺を開いたら遺体がなかったという話を聞いた事があります。出典が分かりませんが、ご存知の方がいらっしゃったら教えてください。私自身、これは後世の作り話と思っていますが。
隋の使節が会った天皇というか大王は、タリシヒコであった。隋が他国のことで,ウソを書く必要がないからと思うからです。ところが,書紀でこの時代は、推古天皇です。また、聖徳太子の別名で、タリシヒコというのはなかったはずです。また、隋書には、その妻をキミといい、後宮に5〜600名の女性がいるという記述から、タリシヒコ大王は男性だったと思います。この記述も、間違いないと思います。私は、聖徳太子が厩で生まれたという説話が気に食わない。日本人は、古来から血の穢れという思想を持っています。出産は,産屋を建ててというのが、日本古来の伝統だと思います。神武の父親のウガヤフキアワスノミコトが生まれた時も、産屋が間に合わず、屋根をウの羽だったかで葺いたので、この名前があると言います。聖徳太子は、そんじょそこいらの庶民の子供と違います。もしかしたら、将来大王になるかも知れない子供を、産屋がないので、厩で出産なんてことは考え難いと思います。矢張り、産屋で生まれたというのが,至当のように思います。
そこで、この厩出産は、後世に聖徳太子に箔をつけるための、説話だと思います。聖徳太子というか、タリシヒコ大王が、馬と関係が深かったということは否定しません。矢張り、キリスト生誕劇が、中国経由で入ってきたというのが自然のように思います。

きんたろうさん、心臓の世界的権威で、呉博士と言う方がいらっしゃいました。この方は、生涯で一本しか論文を書かれなかったそうで、その論文が、心臓のバイブルになっているそうです。
その方の自伝だったかで、主任教授が友人に,研究題目を呉れたが、呉博士はもらえなかったそうです。そこで、教授に研究題目をください。と直訴したそうです。そしたら、その教授は、一言「ハーツ」と言ったそうです。心臓というのは、複雑怪奇で、心臓を研究していた学者は、自壊していくのが多かったそうで、友人も博士に、「無理です。」と断れ、さもないと、潰されるぞと忠告してくれたそうです。私は、書紀の現代史部分では、聖徳太子と天武天皇が、この心臓のようなものだと思っています。これは、書紀が詳しく書くと万世一系の辻褄が合わなくなると思って、避けた結果だと思います。



--------------------------------------------------------------------------------
多分これが決定打になると思うけれど 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 4日(火)13時28分59秒

キリスト教がキリスト教たり得ている一番大事な点は、

イエスが死後に復活した

これです。これがあるからイエスはキリストであったといえるのです。これが無ければ、イエスはただの珍しい活動をした宗教家で終わりだったのです。しかし復活して弟子の前に現れた所からキリスト教は始まるのです。

ですから、聖徳太子をキリストになぞらえて描くとしたら、聖徳太子を死後に復活させなければ意味がありません。しかしそんな話は聞いたことも無い。ですから、聖徳太子をキリストになぞらえたと言うのは無理があるわけです。生まれた場所が同じというだけでは、もしそれをキリストの説話から取ったとしても、ただそれだけであって、ほとんど意味のないことです。



--------------------------------------------------------------------------------
葡萄… 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 4日(火)13時17分26秒

武道はかなり古くから栽培されていた植物です。紀元前千年、ニ千年よりも前から中東で栽培されていた植物なので、キリスト教とは無関係に中国に入ってきた可能性の方が高いでしょう。

葡萄だけなら、前漢が西域と接触を持った武帝のころまでには間違い無く中国に入ってきているでしょう。

福音書は四つあります。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネです。そのうちイエスの誕生に触れているのはマタイとルカです。マルコとヨハネは前口上の後いきなりイエスが伝導活動をはじめる所から始まります。

マタイがイエス誕生のいきさつを一番詳しく述べています。しかしそこにはイエスが馬屋で生まれたことは描かれていません。イエスが馬屋で生まれたことを書いているのはルカだけです。生まれたばかりのイエスを飼葉桶の中に寝かせたと言う部分だけです。馬屋で生まれたとは書かれていません。

ちょっとあやふやな知識ですが、マルコとマタイがイエスの生涯をルポルタージュ―風に書いているのに対して、ルカにはイエスを運命を授けられた英雄として描こうと言う意図が強いです。やや演出がかかっていると言えましょう。ヨハネは明確に一定の思想を表すために描かれています。

イエスが馬屋で生まれたとか、ヘロデ王が子供を全て殺そうとして、ヨゼフと、マリアがそれを逃れたと言うのは聖書には載っておらず、キリスト教の説話に描かれていることです。つまりイエスが神格化されて行く中で、書き足された部分です。

キリストと聖徳太子が似ているというのは
(1)馬屋で生まれた
(2)挫折して不遇のうちに死んだ
(3)聖徳太子と乞食の説話が、キリストの復活話に似ていると言えないことも無い
これだけです。(2)はよくある話なので、これは証拠になりません。(3)は、みすぼらしい乞食とか遊女が実は神様だったと言うのは、世界中にある話なので、弱い。結局(1)しかありません。

それで(1)の方は、英雄が普通に生まれるはずが無い、と言う人類共通の願望から生まれたもので、これだけではちょっと聖徳太子をキリストに投影して描いた証拠にはなり得ません。

もちろん景教が奈良時代の日本に入ってきたことを否定するものではありませんが。聖徳太子をそれになぞって書いたと言うのには無理があると思います。英雄が陣中で生まれるとか、川の上流から流れてきたとか、動物が拾って育てたとか言うのは良くある話で、馬屋で誕生したのももっと調べてみると、イエスと聖徳太子以外にあるのかもしれません。

それに、イエスの場合、その当時(ていうか今でも)パレスチナの農民は飼っている動物と一緒に寝起きしているのでしょうから、生んだ子供をとりあえず近くの飼い葉桶にベビーベッド代わりにして寝かせたと言うのは、何てこと無い一般的なことを言っているだけなのかもしれません。



--------------------------------------------------------------------------------
景教 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 4日(火)12時38分44秒

私は、景教は道教の一部として入ってきたのではないかと思っています。天武の頃の古墳に、道教の影響が見られますからね。道教は、日本の神道と同じで、民間宗教で多神教です。キリストの生誕に関して、道教として伝わってきたとは考えられないでしょうか?唐の高祖の時代だったと思いますが、葡萄が宮中の宴会に出た、ある臣下が、「母が好きなので、持って帰りたいと思います。」と高祖の許可を求めた。それを聞いた高祖は、「そなたは良い。それを差し上げる,母上が居る。しかし、わしには差し上げる母上もいないのだ。」と泣いたといいます。この話の真偽はともかく、この時代に、西域から葡萄が中国に入っていたということで、これとともに、キリストの話も入っていたと思います。酒船石について、松本清張氏は、ゾロアスター教説を唱えておられますが(私は反対ですが。)、ゾロアスター教も中国経由で、単独でないにしても、日本に入っていたと思います。私は、日本には仏教より道教が、先に入ってきたのではないかと思います。それに、くっついてキリストの生誕話も、入ってきた可能性があると思います。そこで、厩で生まれたという話になったのではと思います。まあ、馬関係の氏族が、聖徳太子の乳母だった可能性もありますが、話がキリストの話に似ていると思います。道教と一緒に来たとすれば、隋ぐらいに来たのかもしれません。景教に関しては、日本に伝播したとすると、唐の武則天から玄宗ぐらいかなと個人的には思っています。
私は、仏教に関しても、教科書では538年日本に伝来したといことになっていますが、それ以前に、豪族は知っていた。そうでないと、馬子が守屋を論破できないと思います。馬子は、それ以前に、仏教の教義に通じており、当時日本で唯一人とは言いませんが、五指に入るぐらいの見識は,備えていたと思います。そうでないと、付け焼刃で、国粋主義者守屋と論戦出来るとは思えません。蘇我氏は、相当前に仏教に通じていたと思います。
聖徳太子が、仏教にのめり込んだのも、馬子というお師匠さんが居たからだと思います。その意味で、聖徳太子は、馬子の仏教の一番弟子だったと思います。初期日本仏教の貢献者は、馬子だと思っています。



--------------------------------------------------------------------------------
もちろん 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 4日(火)08時41分41秒

この説を唱えた学者が対象で太田さんではありませんよ(^o^)
念のため、笑



--------------------------------------------------------------------------------
キリスト教が攻勢に転じたのは 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 3日(月)23時17分46秒

大航海時代以降ですからね、それまではキリスト教というのはオリジナリティーではユダヤ教にかなわず、一神教としての分かりやすさではイスラム教に負けていた二流の宗教(失礼!)でしたから。

キリスト教が始めから世界を席巻していたかのような意見は正しくありません。ヨーロッパは16世紀まではいつ滅んでもおかしくないくらいにどん底で、そこで信仰されていた宗教などは、本来の世界の中心である中東とかペルシャとか中国では全く見向きもされていなかったのですから。



--------------------------------------------------------------------------------
安部さんの 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 3日(月)22時59分40秒

詳しい説明が十分のような気がするのですが...

ネストリウス派は特にアッバース朝下においてギリシア語文献の翻訳者や医師などとして活躍し東西文化の交流に貢献したとされています。
唐における景教の絶頂期が750年〜800年頃ですからこの時期はちょうど重なりますね。

>キリスト教が昔から言っていることです
そうだったのですか^^;;
それは知りませんでした。
奴隷供給の減少については先ほど書いたように覚えていました。
少なくとも私は歴史でその様な説を見たことはありませんでした、自爆かな、笑

>桃太郎の時に話した、英雄神話の条件
これには納得できます^^
キリスト教にある話も実はキリスト教以前から存在した話を取り入れたものであるというのはごく自然だと思っています。
旧約聖書にある話も同様だと思います。
問題はキリスト教にある話が「オリジナル」だという前提だと思っています^^



--------------------------------------------------------------------------------
勇者ロトさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 3日(月)22時58分16秒

秦氏といえばしうちーさんのページに詳しくあります。
リンクをしてありますからご覧になってみて下さい^^

確かに秦氏についてはずいぶんひどいトンデモ説があると感じています^^;;
秦氏は疑似血縁関係による一族であると思っていますが、これは一種のフライチャンズのような関係によって全国に秦氏の名前が広がっているものと思っています。

それにしてもどうして神社がキリスト教なのだろうと素直に疑問を抱いてしまいます、笑
肉も野菜も何でもかんでもぶち込んだ「何とか鍋」のような世界を想定しているのでしようか??(;^_^A)

例えば金の産地として南アフリカが有名ですが、これは南アフリカだけで産出されるものではないのは誰でも知っています。
同様に人間のすることですから同じような出来事や考えは交流が無くても成立すると考える方がより自然だと思っています。

唐の時代の長安はトップ級の世界都市でしたから東西交流が盛んになったのは有名ですよね。
正倉院は750年頃に造られた建築物ですが、この頃にはタラス湖畔の戦いがあり安録山の乱があったことでも有名です。
遙か西方社会で作られたグラスがよくぞ日本にまで伝わったと感動した記憶があります。
景教の絶頂期もちょうどこの時期に重なっているようです。



--------------------------------------------------------------------------------
こういう考え方はできないでしょうか? 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 3日(月)22時22分27秒

聖徳太子がキリストに似ているのではなくて、以前私が桃太郎の時に話した、英雄神話の条件と言うのがあって、

英雄は高貴な血を持っているが、下賎な夫婦、あるいは動物に育てられる

これをキリストと聖徳太子を描く時なぞったのではないかと。つまり、人類共通の神話の筋みたいのがあって、そのあらすじを使って、似たような神話をみんな書いているわけですが、キリストと聖徳太子の生誕神話もその一つではないかと。お釈迦様だって、摩耶夫人の左脇腹から六本の牙を持ったゾウが入って懐妊したというやっぱり動物に関わる生誕神話が出て来ます。

後、挫折型ヒーローのあらすじというのもあって、キリストとかオイディプスとかモーセとか聖徳太子というのはそれをなぞって描かれているのかもしれません。

物語でいう父親というのは世俗の権威を象徴しているわけですが、これに挑戦して滅ぶ、あるいは世間一般に見捨てられてしまう、これが挫折型ヒーローの類型だと思います。しかし、この挫折型ヒーローと言うのは人々が一度は見捨てた魅力的な可能性を象徴しているのであって、何かうまく行かないことがあると、その挫折したヒーローの怨念(ルサンチマン)をみな思い出して、これが世の中を変えている原動力となる。見捨てたヒーローに対する後ろめたさというのは人間かなり持っているみたいですから。

キリストと聖徳太子はそれをなぞって描かれたからにているのではないでしょうか?



--------------------------------------------------------------------------------
いいえ新説ではありません 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 3日(月)21時55分10秒

キリスト教が昔から言っていることです。キリスト教が奴隷制の解消の役に立ったと言うのは。

ローマカトリックというのはローマ帝国をとにかく誹謗しまくりました。いじめられた仕返しと並びにキリスト教の時代のほうが優れていると言いたいからです。キリスト教曰く、ローマ帝国というのは背徳に溢れていたから滅んだ。しかし、キリスト教は永遠に続く教えである云々…

私はこれを塩野七生さんが粉砕してくれると期待しています。



--------------------------------------------------------------------------------
景教およびギリシャ人と仏教 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 3日(月)21時21分44秒

ネストリウス派は、コンスタンティノープルの総大司教ネストリウス(?〜451)主張のイエスの神性と人性を分離したキリスト教の一派です。このころキリスト教は市民権を持ち始め、教父と呼ばれる神学者によって教義が固められつつありました。何回か公会議が開かれて、異端が決まったりしましたが、後に正統派とされるアタナシウスの三位一体が一端は異端とされたこともあり、流動的な部分もありました。

異端の中でも有力であったのがアリウス派とネストリウス派でした。アリウス派は325年のニケーア公会議で異端とされました。アリウス派はその後辺境のゲルマン人の布教に力を入れます。ゲルマン人が始め信仰したのはアリウス派でした。ローマカトリックから見れば異端です。ネストリウス派は451年のカルケドン公会議によって異端と決定されました。

さて、ユダヤ人は西のヨーロッパだけではなく、東のペルシャの方へも移住していました。そのころのペルシャはギリシャ人が多く住む世界で(アレキサンドロス大王の遠征以来)、オリエントの文化とヘレニズムが融合した世界でした。ササン朝ペルシャはローマと対等の力を持つ強力な国家でした。ペルシャはローマと並ぶ先進的な地域だったわけです。

キリスト教は東方(ペルシャ)ユダヤ人にも信仰されていました。ネストリウス派がまず伝導したのは彼等でしょう。やがてペルシャ人にも広まって行ったと思われます。

ネストリウス派は追放後はササン朝ペルシャを主に伝播していきました。ペルシャ人は中国にも移住していましたから、景教は主に中国に移住したペルシャ人の間で信仰されていました。正式に入ってきたのは635年とされていますが、多分私家景教?ならばもっと前からあったのでしょう。そして8世紀頃に大流行します。奈良時代に当ります。聖徳太子のころにはまだ正式には入ってきていません。日本に景教の影響がはいったとすると、奈良時代になってからでしょう。

なおネストリウス派がペルシャに広まったころにはまだイスラム教はありません。ムハンマドが初めて啓示を受けたのは610年頃とされています。

仏教の第一回結集が行われたのが前477年ごろです。これはギリシャとアケメネス朝ペルシャが戦っていたころです。ギリシャ人がペルシャからパキスタンアフガニスタンのあたりに住むようになるのは、アレキサンドロス大王の遠征以降で、紀元前3世紀になってからです。これはインドではマウルヤ朝の時代にあたります。アショカ王ですね。

大乗仏教が出来たころには北インドとペルシャ人、ギリシャ人の交流はかなり進んでいました。華厳経や阿弥陀経の制作について、そのあたりのギリシャ人の影響を指摘する人もいます。でもしゅ流ではなかったと思います。梅原先生は浄土信仰のユートピアにはギリシャ人やペルシャ人の思想が入りこんでいるのではないかと言っています。

キリスト教は考えられませんが、大乗仏教にはヘレニズムの影響は入っているようです。カトリックの偉大な教父であるアタナシウス(違ったかも)は、インド哲学に憧れていて、インドに留学しようとしていました。もし実現していればキリスト教は少し変わっていたかもしれません(それとも仏教に帰依していたかも)。

で、ここからは私はよく知らないのですが、唐の時代というのはなんでも間でも混ぜてしまう思想が流行っていて、道教を母体にして仏教や儒教も混ぜた思想が最もモダンとされていた様です。奈良時代に日本へ入ってきたのはこの仏教でした。景教が入ってきたとしたら、仏教の新しい一派として理解されたのでしょう。

これは梅原先生が書いていたことですが、聖徳太子と行き倒れの乞食の説話は新約聖書のルカ伝に似ています。このあたり、ペルシャやギリシャの有名な昔話などが仏教の説話に取り入れられているのかもしれません(ルカはギリシャ人)。



--------------------------------------------------------------------------------
景教 投稿者:勇者ロト  投稿日: 6月 3日(月)19時19分23秒

質問です。

この「景教」というやつ。
秦氏関連のトンデモ系でもよく話題になりますし、大酒(避)神社との関連もよく耳にしますが、コレは具体的にいうとどういうものなんでしょうか?
またコレが日本列島に入ってきたとき、「キリスト教」(またはヨーロッパの信仰、というか道教や仏教と全く違うモノとしてという意味で)として当時の日本列島上の支配者層に理解されていたのでしょうか?

それとも仏教や道教の一部として理解されていたのでしょうか?



--------------------------------------------------------------------------------
なるほど 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 3日(月)18時45分49秒

楊貴妃はやはり隋の楊氏の流れを汲むのですね。
安部さん、ありがとうございます^^

>ローマ帝国において奴隷制がなくなったのをキリスト教の功績とするのは嘘であろうと私は考えます

恥ずかしながらその様な説があったのを知りませんでした、笑
ローマ帝国はその版図を広げていきましたが飽和点に達した時点で新しい奴隷の獲得が止まった事が奴隷制度を衰退させていく原因だと理解していました^^
何故ならば奴隷は原則として家族を持ちませんから奴隷の一族という系譜は存在しないのです。
奴隷は新たな戦争によってのみ獲得される性質を持つものだったはずですよね。
ひょっとしたら安部さんが読んだ説は新説かも知れないですよ??

>聖徳太子はタリシヒコが本名で、厩戸というのは、中国からキリスト誕生の話が,伝わってきたからでないかなーと思っています。

この説はかなり浸透しているようですね^^;;
でも滅多に断言をしない私が断言しますが、この説ははっきり言ってかなり眉唾ものだと思いますよ。
ネストリウス派は景教と呼ばれていましたがこれが異端でありイスラム世界で勢力があったものだとはあまり聞かれません。
教義について詳しい人が一体どれほどいるのでしょうか??

聖徳太子の逸話がキリストの逸話に似ている事からこれを真似たものであるという説は一体誰が言い出した事なのでしょうか??
この説では聖徳太子が日本仏教界の父と呼ばれていて、どの宗派であっても聖徳太子の姿が描かれた図が飾られている事をどのように整合づけて説明しているのでしょうか??

仏教はキリスト教よりも500年も前に興された宗教です。
ブッダ王子は聖徳太子と同じように聖人としての一生が描かれています。
また、弥勒菩薩、大日如来など伝説を創る逸話には事欠かないのです。

法隆寺にある聖徳太子○歳像などをみると彼が幼児の時にはっきりと色々なことを言ったと解説がありますが、これこそブッダなどの聖人の逸話を借りてきたものだと感じています。
それなのに、どうしてわざわざキリスト教から逸話を持ってくる必要があるのでしょう。

太田さんが言われた説は私も十分承知していますがこの説を唱えた人ははっきり言って宗教をあまり知らないのだろうと思っています。
確かに面白い説ではありますが、恐らくは仏教についての知識もキリスト教についての知識も不十分な人が言い出したものであるように感じています。

勿論この当時の宗教は現代の私達が描いている宗教とは完全に同じものではないと思います。
しかし、この説は古代人をあまりにもばかにしているというか舐めていると思うのです。
1000年前でも2000年前でも個人の身体能力や頭脳はほとんど同じレベルであると思っています。
違いがあるとすれば情報量や移動速度などの科学技術の発達した面であって人間個人の能力に差があるものではないと思うからです。
編集済



--------------------------------------------------------------------------------
太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 3日(月)18時44分13秒

読んでいただきましてありがとうございます^^
このままでは4では収まらない可能性が大です、笑



--------------------------------------------------------------------------------
まあ奴隷といっても 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 3日(月)18時23分59秒

あんまりこき使うと働かなくなって非経済的ですから、牧場の人が家畜を可愛がる程度には奴隷の所有者は奴隷を可愛がるものです。「風と共に去りぬ」だったかな、奴隷主が「我々は奴隷をいたわっているんだ!」と言い張るシーンがあります。勿論だからと言って許される物ではありませんが。よく映画なんかで鞭でひっぱたいて働かせるシーンがありますが、あそこまですることは滅多になかったでしょう。古代でもアメリカでも。場合によっては、仕事の効率を上げるために、かなりの高待遇を与えられることもあったのではないかな。

奴隷と言うのは自分では何も決めることができない、運命をすべて他人に委ねられている、ここが悲惨なのです。奴隷には自殺する権利もありませんからね。こう言うのはなまじ鞭でひっぱたかれるよりも悲惨。でもそれでは奴隷は働かなくなってしまうので、解放奴隷と言うの出てくる。

ただ日本の場合奴隷と言う極端な存在がなかったので、いまいち個人の権利と言うものに対して無頓着である所があります。



--------------------------------------------------------------------------------
汎用コンピュータを積んだ四分の一馬力モーター 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 3日(月)18時15分06秒

これが奴隷です。うまい表現です。古代の絢爛豪華な文明はこれに支えられていたことを忘れてはいけません。

けれども、奴隷にもピンからキリまであって、本当にただのモーターから、家庭教師奴隷、さらには一家の家計を預かって投資とかをする奴隷までありました。高貴な人には生まれた時からお付きの奴隷がいて、たいてい死ぬまで忠義を尽くしたと言う話。周りの人間がすべて逃げても、お付きの奴隷だけは最後まで傍に残ったと言う話はローマにはよくあります。負けた国の身分が高い人はこう言った頭脳労働をする奴隷になったのですね。

日本にも奴婢とかいたそうですが、どうも大陸の奴隷と比べて生ぬるい(?)感じがします。あれはせいぜい農奴とか佃戸くらいの存在でしょう。

きんたろうさんが良く言っていますが、戦争に負けたら上から下までみんな奴隷になってしまうと言う環境が全くなかったのが日本の一番の特徴であると私も思います。



--------------------------------------------------------------------------------
ローマ帝国滅亡 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 3日(月)16時52分34秒

の時、ローマ帝国軍の主力は、シリアで奴隷狩りの真っ最中だったとか聞きました。ローマ帝国が、世界に冠たる帝国になると、ローマ軍の最も重要な任務は、国土防衛より奴隷狩りになったとも聞きました。奴隷は、今の機械のようなものですから、古くなると取り替えなくてはなりませんので、奴隷狩りというのは、帝国の死活問題だったでしょう。



--------------------------------------------------------------------------------
きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 6月 3日(月)12時51分10秒

聖徳太子の話は、なかなか進まないと思いますよ。これだけ有名で、これだけ実体の掴めないひとも珍しいと思います。
私は、聖徳太子はタリシヒコが本名で、厩戸というのは、中国からキリスト誕生の話が,伝わってきたからでないかなーと思っています。中国には、景教というキリスト教の一派がありますから。
私は、日本書紀は、タリシヒコを隠したかったのでは、と思っています。この時代の大王は、隋書のタリシヒコで、男性だったと思います。推古なら、卑弥呼のように興味を持って書くでしょう。
矢張り倭国だー、昔の邪馬台国と同じだと書くと思います。そこで、推古が隋の使者のきた時は、大王でなかった。もし、聖徳太子が、後世の摂政のような立場であったも、大王推古は、公式の場に、出てこないわけにいかないでしょうから、同じように、倭王は女だと書くと思います。



--------------------------------------------------------------------------------
キリスト教と奴隷制 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 2日(日)23時19分59秒

いずれ塩野七生さんが書いてくれると思うのですが

キリスト教はローマ帝国の奴隷制を解消する役に立ったと言うことになっています、しかしローマの奴隷解放はキリスト教が現れる前から始まっています。奴隷と言うのは自分から働きません、当然ですね。ですから、働いて得られるものの一部を奴隷の収入にして、収入がある程度たまると、奴隷の身分を解放して自由民とする、という契約を奴隷と所有者が結んで(その間にアポロン神が入ったりするのですが)奴隷の勤労意欲を向上させるという方法が取られました。これによって奴隷は順次自由民となっていきました。ローマ帝国の奴隷不足は、このようにして奴隷解放が進んだにもかかわらず、戦争がなくなって奴隷の供給源がなくなってしまったのが原因です。キリスト教は副次的な原因に過ぎません。

もちろんキリスト教が一部の奴隷の心の支えとなり、中世のヨーロッパにおいて奴隷制がなかった理由であることを否定しません。

しかしローマ帝国において奴隷制がなくなったのをキリスト教の功績とするのは嘘であろうと私は考えます。



--------------------------------------------------------------------------------
系図上は 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 2日(日)22時51分16秒

楊堅(文帝)が後漢期の学者楊震14代の孫、楊貴妃も一応楊震の子孫と言うことになっています。

楊貴妃はもともと玄宗の王子寿王の側室でした。彼は王位継承権では1番目の位置にいました(しかし母親の武恵妃が武則天の縁者だったので廃嫡された)。そのような王子の側室だったので、多分随王朝の楊氏の遠縁に当るのは多分間違いないでしょう。



--------------------------------------------------------------------------------
聖徳太子の軌跡2 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 2日(日)21時54分26秒

をアップしました^^
なかなか話が進まないです、自爆

http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/shotokutaishi2.htm



--------------------------------------------------------------------------------
ほとんど卒業できないと言っても 投稿者:安部奈亮  投稿日: 6月 2日(日)20時13分49秒

もちろん通信教育がですよね?



--------------------------------------------------------------------------------
なるほど^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 2日(日)16時10分42秒

中央の法の方が最高学府としてしっかりしているという事なのですね。
納得しました^^



--------------------------------------------------------------------------------
慶応の法は。。。 投稿者:みのる  投稿日: 6月 2日(日)07時17分34秒

現実的なのは中央で、非現実的なのが慶応です。
非現実的だから卒業し易いのです。



--------------------------------------------------------------------------------
勇者ロトさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 2日(日)06時08分48秒

早速リンクの変更をしておきました^^
トップページの「古代出雲王国の謎」をクリックしてみてくださいね。

それにしてもジオのページが無くなってしまったのはどうしてなのでしょうか??
私の忘れていたジオのページはまだ残っていました、笑
不思議です(;^_^A)

中央の法はほとんど卒業出来ないのですか!!
確かに法学部の厳しさは分かるのですがほとんど卒業できないほど厳しいのもまたちょっとという感じがしますね^^;;

みのるさんに質問なのですが、慶応の法の方が中央よりもカリキュラムが現実的なのですか??^^



--------------------------------------------------------------------------------
則天武后 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 2日(日)06時05分44秒

は660年頃には既に実権を握っていたようですから約半世紀もの間権力の頂点に君臨したことになります。
これは女帝という枠を越えてものすごい長期政権ですよね。
徳川時代には11代将軍斉昭が40年にわたって将軍を続けていますが、いずれにしても40年とか50年という時間はあまりにも長いと思います。

巨大国家である隋、唐を支えた経済的基盤が北魏以来の均田制であることが日本を大陸国家のように農業国へと方向転換した原因ではないかと思っています。
瑞穂の国が国家施策となったのだと考えています。

楊貴妃は太田さんの言われるように則天武后の政治能力の欠片も持ち合わせていなかったように思っています。
でも、楊貴妃を則天武后と比べるのはちょっと可哀想な気もしますね。

楊貴妃が寵愛を受けたことによって彼女に連なる「楊氏」が取り立てられた事に対する反発は当然の事ながら予想することが出来ます。
一番の問題は取り立てられた彼女の一族が能力を持っていたのかという点だと思いますが、隋の楊氏の一派とすれば易姓革命の原則から言っても(感情的に??)足を引っ張られた可能性が大かなと思ったりしています。

ところで楊貴妃はその名の通り「楊氏」ですから隋の楊氏の一派と思っていますが、正しいのですよね??
ここに来て、ちょっと不安が...笑

安部さん
用明天皇のところで「稲目大臣の娘〜」とちょっとだけ出ていますよ。
聖徳太子も同様に名前だけは出ています。

あっさりと書かれている理由は安部さんの言うようにまだ「歴史」になっていなかったからだと私も思っています。
編集済



--------------------------------------------------------------------------------
中央の法は・・・ 投稿者:みのる  投稿日: 6月 1日(土)18時54分34秒

殆ど卒業できないそうです。まだ慶応の
方がいいようです。来年から変わろうかなー。



--------------------------------------------------------------------------------
過去ログ 投稿者:きんたろう  投稿日: 6月 1日(土)13時08分06秒

を5月31日分までアップしました^^



--------------------------------------------------------------------------------
古代史のページ 投稿者:勇者ロト  投稿日: 6月 1日(土)00時23分20秒

ジオのページが削除されてしまったので古代史のページの入り口が替わりました。
前の入り口は使えなくなってしまいました(+_+)
新しいアドレスは下記アドレスです。
リンクして頂いてる方はお手数をおかけしますが変更をお願いいたしますm(__)m

http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/index.shtml



--------------------------------------------------------------------------------