過去ログ190(2003年〜3月26日)


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お帰りなさい^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月26日(水)03時37分12秒

太田さん
明日香の休暇を満喫できましたか??
雨が降っているとサイクリングはちょっときついような気がしますが、どうでしたか??
奈良の土地の上に立つと古代の人たちの姿のイメージが新たに沸き立ったのかな??と思いました^^

奈良の田んぼや遠くに見えると山の景色は、茨城のそれととてもよく似ているように個人的には感じています。
でもよく考えてみれば全国で見られる当たり前の風景のような気もします^^
石川県で見られる風景らもきっと似ていると思います。

安部さん
お帰りなさい^^
ヨーロッパ旅行は何日くらいかけてどの付近を回ってきたのですか??
ドイツから中欧にかけてですか??
TGV(TVGでしたか??笑)には乗りましたか??

東欧は古き良きヨーロッパが保存されていると誰かが言っていたと思いますが、確かに東欧崩壊まで資本主義経済とは無縁の場所だったために結果として「美観地区」のような感じで環境が残されてきた面があるのかなと思っています。

ドイツには行き損ねたので私も行ってみたいと思っているのですが。。。
なかなか行けないままになっています^^;;
確かにドイツもまた日本と同様にかなり損をしていますよね。
特にドイツの場合は第一次も第二次も世界大戦の敗戦国になっていますから特にそうなのかもしれません。
でもドイツは同じキリスト教文明圏として理解が深いために得をしているところもあるのかな??と思えたりします。

Sinさん
メールアドレスを理解しました^^
トップのメールアドレスを使って返信してあります。
確かに騒ぐ人は出てくるような気がしますね(;^_^A)



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自己責任で 投稿者:Sin  投稿日: 3月26日(水)01時19分12秒

残っている本人はともかく、周辺のいらんことしいが騒ぐかも。



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今ドイツ史(およびオーストリア史) 投稿者:安部奈亮  投稿日: 3月25日(火)13時44分56秒

の本を読んでいるのですが、なかなか面白いですね。

ドイツもまた、日本と同じで戦争に負けた性で、歴史の世界の中で損をしているようです。ドイツのような小国分立、ゆるい統合も、人類の可能性として十分検討に値するはずですが、いかんせん戦争に負けてしまったため、それらがすべて「悪」として断罪されていた期間が長かったようです。「統一が遅れたから近代化をあせって領土的に膨張しようとした」とか「権威的な支配が残った」とか

中欧を旅行して、ヨーロッパ本来の姿は地中海とか、ハプスブルグ家が支配した中欧に残っているのではないかと私は考えるようになりました。美術品もルーブルなんかよりも、ウィーンのほうが段違いにすばらしい。ルーブルがすごいのはモナリザとミロのビーナスだけです(印象派はオルセー美術館)。

オーストリア、ハンガリー、チェコの工芸品の技術もすごい。そもそも産業革命が始まるまでは、工業も商業も地中海や中欧のほうがイギリスフランスよりも進んでいたのです。

宮殿もウィーンやブダペストのほうがベルサイユなんかよりも数倍美しかった。

私思うに、ルイ14世などのフランス人はオーストリアにコンプレックスを持っていたに違いありません。15〜17世紀のフランスはハプスブルグ家に異常な敵愾心を抱いて、とにかくハプスブルグの足を引っ張るためには何でもするのですが、フランスの地政学的な位置もさることながら、精神的な劣等感も大きいのではないかと思います。


もう一つ、今回の旅行で知ることができたのが、ホーエンツォーレルン家(プロシア王家、統一ドイツ皇帝)とユダヤ人の関係です。

ホーエンツォーレルン家は南ドイツの弱小な領主でしたが、15世紀に神聖ローマ皇帝のブランデンブルグを弱体化させる政策のために、ブランデンブルグ効となり、そこから彼らの発展が始まります。

ホーエンツォ−レルンというのは南西ドイツの地名なのですが(広さは日立市と常陸太田を合わせたくらい、そこから500年でドイツ皇帝まで上り詰める)、西南ドイツというのは中世においては人口の半分がユダヤ人だったそうです。

ホーエンツォーレルン家はユダヤ人と良好な関係をその後も維持します。戦費の調達をユダヤ商人に頼んだり、またビスマルクの顧問には何人ものユダヤ人がいたそうです。正式な公務員としてはユダヤ人を採用しませんでしたけれども、顧問の形ですでに役所にユダヤ人が進出していたらしい。

ホーエンツォーレルン家は、三十年戦争で荒廃して誰も欲しがらなかった北部ドイツの土地を相続でどんどん吸収していき、宗教的寛容政策を取って、南部ドイツのオーストリア領やフランスから逃げてきた新教徒を吸収して、荒廃した北ドイツをドイツ一豊かな土地に生まれ変わらせました。これが後にドイツを統一するときの資産となります。

ヒトラーはオーストリア出身で、南ドイツを活動拠点としていました。ヒトラーは盛んにプロイセンとユダヤ人のつながりを指弾するのですが、ホーエンツォーレルン家の発展とユダヤ人のつながりが、ヒトラーのデマゴーグの背景にあるのかもしれません。それと、プロイセンに押し切られてその傘下に収まらざるを得なかった南ドイツの人たちの不満があるのでしょう。



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明日香は・・・ 投稿者:太田守人  投稿日: 3月25日(火)13時10分16秒

明日香は,豪雨でした。過去に何回かいってますが、雨は初めてです。でも、明日香行ってイツモ思うのですが、なんで明日香に都をおいたのだと思っています。飛鳥川にせよ巻向川にせよ,明日香に大河はありません。古代においては、水運は重要だったと思います。まだ、近つ飛鳥なら,海や河内湖が近いので,まだ都にするなら兎も角、遠つ飛鳥では、飛鳥川や巻向川等は川というより、溝や用水のような感じです。あんなところに、いくら小船といえど,通れたのか?そこで、この時代明日香は、低湿地帯でなかったかと思いました。甘樫岡から明日香を望むと、香久山、畝傍山、耳成山が島のように見えます。そこで、元は湖であったのが,干上がり盆地になった。豊富な地下水は、その時の名残のように思います。植山古墳を見てきました。ここは、推古陵でないかと言われていますが、甘樫の麓にあります。そこで、蘇我蝦夷・入鹿の双墓の可能性もあるように思いました。それと、酒船石周辺は聖地でなかったかと思います。しかし、斑鳩から明日香は遠かった。聖徳太子が、毎日通勤したとはとても思えませんでした。馬での通勤は不可能のように思います。矢張り、日本書紀はタリシヒコ大王を隠したくて、聖徳太子を創作したように思います。
久しぶりに、石舞台に行ってきました。飛鳥を掘るというほんの中で、石舞台は、古い時代の古墳群の上に作った古墳だ。と書いてありました。去年行った時は、この事実を知らなかったので、あの下の公園を歩くと、羨道のようなものがいくつかありました。私は、排水溝だろうと思っていましたが、或いは、石舞台の下敷きになった古墳だったのかも知れません。そこで、なんでこのようなことをしたのだろうと考えてみました。1.馬子が自分の権威を見せつけるため。2.例えば、疫病等が流行り、その理由として、族滅して無縁仏(?)になっていた、このあたりの古墳群の主の悪霊だという噂がたった。そこで、馬子がその悪霊を押さえる為、あえてそこに,自分の墓をつくった。もし、1.なら相当恨みを買ったでしょう。馬子という人物が、そのような無茶をしたでしょうか?でも、馬子の権威は、相当なものであったことは、間違いありません。私としては、2.であって欲しいと思っています。ただ、石舞台は馬子の古墳であろうという思いを強くしました。そして、馬子は一時期大王位にあったのでないかと。でないと、人の家の墓を壊すわけには行かないと思います。古代天皇は、有力豪族から選出されていたのでないのでしょうか?



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よく言った!川口外相 投稿者:安部奈亮  投稿日: 3月25日(火)12時33分19秒

今、イラクに残っている数十人の邦人は、自己責任で残っているのだろうから、これから先は政府としては彼らの安全に責任がもてない、と川口外相がはっきりといいました。

えらい!

政府から保護してもらわない権利(という言い方は変かもしれないけれど)もあると思うんです。危険な場所で取材する人、あるいはボランティア活動とか、もしかしたらイラク人と結婚してイラクに骨をうずめる人もいるかもしれない、そういう人たちに対して政府としてしてあげられることに限りがあるのは当然であるし、その人たちも政府に左右されずに、自分の責任で危険な場所にとどまる権利があると私は思います。



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和田というところで 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月23日(日)21時05分09秒

大祭礼の田楽を見てきました。
とにかくものすごい人人人!!!でした^^;;
かなり歩いたので疲れています、自爆

ところでミラーサイトの更新が全然出来なかったのですが、ようやく理由が分かりました。
トップページの拡張子をhtmlにしていなかったためでした。
今時htmが確認できないなんてジオシティースと同じ旧式かなと思いました、笑

とりあえず、これを直してサイトを組直したのでミラーサイトの方はビッグローブと同じものになりました。
でも、今度はビッグローフの方の訂正ファイルが反映されなくなってしまいました。
なんでだろうと思っているのですが分かりません、自爆^^;;
編集済



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大田楽 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月23日(日)00時34分35秒

今日から東西金砂神社の72年に1度行われる大祭礼が始まりました。
どちらも約一週間の日程で水木浜まで往復する日程になっています。
途中では田楽が公開されます。

大国主と猿田彦の舞があるとのことです^^
彼らが出雲から遙々やってきた(と思った)様子を再現したものなのか、アワビの豊漁に纏わるものなのか??
おそらくはその両方であるのだと思っています。
そして薬師如来が習合したものであるそうです??

勇者ロトさん
確かに巫女と処女性はリンクしていますが、この常識がいつの頃から続いているのかは良く分かりません(;^_^A)

ひょっとしたら卑弥呼の時代には既にそうだったのかもしれませんが。。。??
でも、それでは神功皇后には「神託」を感じる能力がある方がおかしいという事になるのかもしれませんね。
斉明天皇もまた「水」を呼ぶ能力があったとされているようですから、この人も巫女的能力者であったようですから、かつてはあまり気にしていなかったというような気がしますが。。。笑
編集済



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前の 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月23日(日)00時31分55秒

書き込みを読み返してみたところ意味の通り易い日本語になっていませんでしたね(;^_^A)
あの倍くらいの分量にしてもう少し丁寧に書けば分かり易かったと思うのですが。。。笑
足りない部分は言葉をつなげて読んで頂ければ有り難いです。

架空説とは別の次元の話としてですが、新王朝説というのも怪しいように思っています。
新王朝とは普通に考えれば、それまでの王朝とは別の王朝になるはずですから、簡単に言うと征服王朝という事になりますよね。
この場合、異民族であることまでは意味していません。
例えば豊臣家と徳川家のような関係も当てはまると考えています。

乗っ取った王朝は自らの始祖を誇るはずです。
徳川将軍家の場合でいえば、彼らは家康の血統を誇ることはしても、前王朝である秀吉の血統を詐称しようなどとは考えもしなかったはずです。
この極端というか究極の例が異民族による征服だと考えています。

中国では、前王朝を滅ぼした理由として前王朝が徳を失ったと理由付けをしていますが、前王朝の後継者として乗っ取った事を大々的に自慢していますよね。

新王朝という定義を、分家出身者が宗家の跡を継いだ(=乗っ取った??)という意味にまで拡大解釈するのであれば可能性はあると思いますが、これだと8代将軍吉宗も該当してしまうと思います。(かな??)
この様な場合というのは、直系が絶えたためにスペアとしてかり出されたというのが本当のところだと思います。
継体天皇や光仁天皇などはこのパターンかなと思っています。
編集済



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列島で 投稿者:勇者ロト  投稿日: 3月21日(金)19時42分11秒

巫女は処女が良いとされたのは何時の時代からなんでしょうね?



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月21日(金)09時38分38秒

明日香での三連休を楽しんできて下さいねv(^o^)
土産話を楽しみにしています。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月20日(木)12時38分08秒

>女帝という点では神功皇后や飯豊青尊は確かにそうだったように私も思っています。

私は、神功皇后架空説ですが、飯豊青皇女は存在したと思います。そして、大王位にあったと思います。日本書紀に、彼女の言葉として、「女の道を一通り知ったが、良くなかった。そこで、もう辞めようと思う。」とあります。巫女性を、強調するためという説もありますが、私は違うと思います。もし,巫女性を強調したいなら、SEXしました。なんてことは、書かないと思います。
巫女は、神の妻です。そのために、処女性を求められるのだと思います。彼女は、別王朝の大王であったと思います。そして、その王朝では名君であったと思います。まあ、今の聖徳太子のような人物であったのかも知れません。そこで、飯豊青の所属した王朝を乗っ取った王朝が、「お前ら、飯豊を名君だと言うが、実際は処女でなかったんだぞー。」と、彼女を貶めることを書いたのだと思います。このような、SEXが全然良くなかったと言うことを書かれる事自体彼女は、大王として実在したと思っています。私は、女性の大王もいたと思います。すいません。また、ひねりすぎまして・・・。3連休は、明日香に行ってきます。春の明日香は、初めてです。



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時宗 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月20日(木)00時39分55秒

ばかりでなく貞時も短命でしたよね。
3代も連続して当主が短命だったのは不運だったとどうしても思えてしまいます。

時宗が60歳くらいまで生きれば、霜月騒動は間違いなく起こらなかったと思っています。
何しろ弘安の役の時ですらまだ30歳ですから、本当の政治力はこれから発揮されたと思うのです。
いずれ滅んだとしても全く違った形になったのではないでしょうか。

確かに太田さんや輔住さんの言われるように個人の力ではどうしようもない流れから考えればあまり違いはなかったのかもしれませんね。
編集済



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実質的 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月20日(木)00時37分53秒

な女帝という点では神功皇后や飯豊青尊は確かにそうだったように私も思っています。

おそらくこの時代は女性を天皇(大王)とは認識しなかったということなのではないでしょうか??
Toshyさんの言われるように、女性の最高位は「巫女」であると認識していたのかなという気がします。
つまり大王(天皇)とは男性名詞であるとして使われていたのではないかと思うわけです。
大王の女性名詞版が無かったという事なのかもしれませんよね。

そして、このような伝承に対して、編者が神功天皇とか飯豊天皇と書こうとしても回りが許さなかったという事なのではないかと思います。
この理由は全員による校正が入るからです^^



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Minstrelさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月20日(木)00時34分24秒

その部分の書き込みは読んでいなかったのですが、流石に奥山さんだけあって慎重な表現をされていたのですね。

確かに「天下人」のようなものだと思います。
でもこの人物が「ひこ」と呼ばれていたとすれば、男性であるのは間違いがないと思います。
女性ならば「ひめ」になるはずですよね。

例えば仲哀天皇は「たらし なかつ ひこの すめらみこと」とも呼ばれたわけですが、これを漢字で書くと足仲彦天皇になります。
「たらしひこ」を漢字に当てはめれば「足彦」かな??と思ったりしています。
ここに「すめらみこと」という発音がない点から推論すると「たらしひこ」とは「ひつぎのみこ」の可能性は十分にあっても天皇ではなかったのかもしれません。

>また、この時の会見に聖徳太子がいないことが、とても不審に思います。
>「タリシヒコが聖徳太子だった」という説もありますが、『日本書紀』であれだけ聖徳太子の偉業を称えているのですから、聖徳太子が推古の代役をつとめたのであれば、「太子は実質的に天皇のようなものだったぞ」と褒め称えるのではないかと思います。

聖徳太子はこの時点で「日継皇子」として確立されていたわけですから、聖徳太子に対して「たりしひこ」のように回りが呼んでいたとしても不思議ではないような気がします(^o^)
でも日本書紀だと「帝の前の机上」とありますよね(;^_^A)

確かに太田さんの言われるように、裴世清たちが「女王」を認識していたら、卑弥呼のように記録したように思っています。
彼らには女帝の存在を隠したのでしょうか??



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時宗が長生きしていても 投稿者:輔住  投稿日: 3月19日(水)20時53分05秒

太田さんの言うとおり、滅亡した可能性が高いと思います。
元寇の恩賞問題や皇統の分裂問題の状況は彼が生きていても
大差なかったと考えているので!でも霜月騒動は起きなかったと思います。
そしたら、北条にとってかわったのが足利ではなく安達の可能性も強かったかも!



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女帝 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月19日(水)19時37分29秒

日本書紀にも神功と対立した女親分はみられるね。
彼女たちは、巫女的な役割を持っていたのではないか。



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男王・女王 投稿者:Minstrel  投稿日: 3月19日(水)18時28分38秒

> もし女王であれば、卑弥呼と同じ女だったと書くと思います。

そうかもしれませんが、推古は直接姿を見せなかっただろうという説もあります。
私もそう思っています。(だからこそ、直接相手をした人物が誰かは非常に重要です)

推古と会っていなければ、王が男か女かも分からず、記録にも残しませんよね。

ところで、推古と言えば初の女帝ですが、本当に「初」なのでしょうか?
この後、女帝はバンバン登場していますし、卑弥呼も女帝です。
飯豊や神功も女帝っぽいですし、古代倭国において女帝は全然珍しい存在ではなかったのではないかとも思えます。

推古は特殊例と言えるのでしょうか。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月19日(水)12時49分46秒

私は、時宗は早世して正解だったと思っています。確かに、彼が長生きすれば、恩賞に対する不満を誠心誠意解決したかも知れませんが、あの時代の鎌倉武士団に、日本という意識が希薄だったと思います。鎌倉武士として卑怯・未練と言われるのが、いやだったのと恩賞目当てだったと思います。時宗が早世しなくとも、鎌倉幕府は同じ結果を取ったと思います。



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Minstrelさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月19日(水)12時23分18秒

>『随書』には「タリシヒコに会った」とか「倭王は男性だった」とは書いていないんですよね。
一般論的に「倭王のことを天のタリシヒコという」って感じです。

もし女王であれば、卑弥呼と同じ女だったと書くと思います。書いてないということは、逆に男の王だったと思います。私は、男の王で、姓はアメ,名はタリシヒコであったと思っています。
私は,この時の大王は男であったと思います。魏志倭人伝にも、卑弥呼の弟が政治を取っているとあります。もし、推古大王で厩戸か馬子か分かりませんが、摂政や執権のような立場であったなら、魏志倭人伝のような記録が残ると思います。また、女の大王でも,隋の使節に、合わせないわけにいかないように思います。
聖徳太子については、お考えに賛成です。



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アメのタリシヒコ 投稿者:Minstrel  投稿日: 3月19日(水)08時40分47秒

これは以前に奥山さんに指摘されたことなのですが・・・、

『随書』には「タリシヒコに会った」とか「倭王は男性だった」とは書いていないんですよね。
一般論的に「倭王のことを天のタリシヒコという」って感じです。

まだ「天皇」という名称はなかったですが、「倭王のことをテンノウと呼ぶ」と言っているようなものではないかというのです。

「アメノタリシヒコ」というのも「天を下らす日子(?)」という感じで、要するに「天下人」という感じです。

私も推古とは直接会っていないだろうと思っています。
で「倭王は何ていうのだ?」と聞かれ、名称を答えたのを名と勘違いしたとも考えられます。

また、この時の会見に聖徳太子がいないことが、とても不審に思います。
「タリシヒコが聖徳太子だった」という説もありますが、『日本書紀』であれだけ聖徳太子の偉業を称えているのですから、聖徳太子が推古の代役をつとめたのであれば、「太子は実質的に天皇のようなものだったぞ」と褒め称えるのではないかと思います。

http://johokan.net/minstrel/



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砂糖さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月18日(火)23時59分04秒

初めまして、よくいらっしゃいました。
ひょっとしたら佐藤さんですか??笑

このページにも茨城の歴史についして少し書いてありますのでご覧になって下さいね。
単に茨城県の歴史と言われてもどう答えたらいいのかよく分かりませんので、もう少し具体的に質問して頂ければ有り難いのですが。。。^^;;



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さすが 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月18日(火)23時57分41秒

に輔住さんですね^^

足利義満が将軍になったのも5歳くらいでしたよね。
管領の細川頼之が実権を握っていたわけですが、彼も義満を暗殺しようなどとは考えなかったわけですから、確かにそうだと思いました。

私は大王について書いている時に北条時宗を思い出していました(;^_^A)
時宗が30歳くらいで早世しなければ、以後の歴史はずいぶん変わったものになったような気がするのですが。。。??

NHKの大河ドラマでは伊東四朗さんが演じていた長老の北条政村(でしたよね??)がずいぶん本家に対して傍若無人ぶりでしたが、あんな事はなかったように思っています。
編集済



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つづき(;^_^A) 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月18日(火)23時55分52秒

ここから先日太田さんが書かれていた「たりしひこ説」に繋がるのですが。。。笑

裴世清と直接会った人物が「たりしひこ」という名前から考えても、この人物が男性だったのは間違いがないと思っています。
問題は聖徳太子だったのか馬子だったのかという点ですよね。

この時点で既に推古女帝は「天」として玉座に座っていても、「天」自らが積極的に外交使節と会うようなことをしなかったのだろうと思っています。
ひょっとしたら、「親政」を行うという立場から離れていたのでしょうか??

私も馬子に対して悪印象を持っている訳ではありませんよ。
崇峻天皇殺害事件というのはそれまで何度も繰り返されてきた皇位継承の争いの一環として考えているからです。
それに、ドラマや小説等では結構悪役に描かれている場合が多いようですが、少なくとも日本書紀を読んだ限りではさほど感じていなかったというのが本当のところです(;^_^A)



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(無題) 投稿者:砂糖  投稿日: 3月18日(火)09時49分32秒

茨城県の歴史について知ってる人はいませんか?



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きんたろうさん 投稿者:輔住  投稿日: 3月18日(火)07時05分22秒

>強い王が出る時には、幼少時代を補佐する忠臣が現れる必要があるのは
>万国共通の真理のように思います。
この書き込みを読んで足利義満と細川頼之もこのパターンかなと
思ってしまいました。



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先週 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月18日(火)05時27分36秒

ヴェルサイユ展を見てきました。

太陽王と呼ばれたルイ14世は僅か4歳くらいで王位についたようです。
ルイ14世が親政を開始したのが23歳くらいと言ってましたので、王位についてからの20年間くらいはブルボン朝の実権はマゼラン(マザランかも??)という大臣(というか執権のようなもの??)が握っていたようです。
もっともその後40年もの長期にわたって親政を行い、フランスを強国へと導いていったのですから、大人になるまでに帝王としての教育をしっかりと受けたように思います。

このマゼランについては藤原氏のような存在だったのかな、と思ったりしました、笑
もし下克上の時代だとしたら、僅か4歳くらいの王子では吉法師にされてしまう可能性もあるように思いました。
強い王が出る時には、幼少時代を補佐する忠臣が現れる必要があるのは万国共通の真理のように思います。

同じ王という地位だっとしても「親政」を行った王と家臣に任せっきりの王とでは、家臣の地位が同じだったとしても実質的に影響を及ぼした権力には大きな差が出るのは当然です。

つづく。。。^^
編集済



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もうひとひねり・・・。 投稿者:太田守人  投稿日: 3月17日(月)12時44分13秒

私は、推古の即位は、すんなりいかなかったのでないかと思っています。継体〜崇峻までは、今の桜井市周辺を都としてますが、推古で豊浦宮で明日香です。桜井に近いですが、明日香に都をおいた最初の天皇のように思います。そこで、推古は、新王朝の創始者でなかったかと思っています。推古は、穴穂部皇子に、犯されえかけたのもあるかもしれませんが、叔母の小姉君系は、嫌っていたように思います。桜井周辺の都は、巻向からの流れのように思いますが、明日香に都を置くということは、いままでと違うことをしよう。とする現れのように思っています。私は、継体が武烈から皇位を奪い、それを欽名が奪ったと思っています。そして、欽名朝を推古が奪ったのでないでしょうか?崇峻を暗殺したのが、推古だとするとどうでしょう。崇峻は、堅塩姫系の天皇ではありません。見瀬丸山古墳こそが、欽名陵だと思いますので、欽名の棺桶を動かし得たのは、推古以外いないと思います。推古は、母堅塩姫を愛していたのだと思います。ただ,日本書紀の作者は、崇峻を推古が殺しました。とは書けないと思います。そこで、馬子が殺したことにしたのでないでしょうか?私は、古事記が推古で止まっていて、現代史の天皇が紀年的になっているのに、注目しています。これは、推古以前の天皇を詳しく書くと、この時代の相克を書かなければならない。そこで、紀年的にせざるを得なくなったと思っています。古事記の作者は、推古若しくはその周辺だったように思います。このゴタゴタが、大化の改新になったのでないでしょうか?



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安部さん 投稿者:輔住  投稿日: 3月17日(月)07時08分48秒

旅行楽しんでくださいね。



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昨日 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月17日(月)01時16分34秒

は親戚の結婚式に出席してきました。

当たり前ですが、結婚式や葬式、あるいは入学式、卒業式など、人生の節目に行われる「儀式」というのはどう考えても祭祀のような気がします。
そして祭祀であるならば宗教的要素が皆無というのはあり得ないと思いました。
宗教の定義をキリスト教やイスラム教と同じレベルに規定しようとするのはやはり無理があるように思いました。
宗教もまた各地域の歴史に根ざした風俗から発達した祭祀である事を思えば、各地域で違っているのが当たり前のような気がします。

それにしても結婚式は「汝何鱈館鱈〜」よりも「かしこみ かしこみ〜」の方が日本列島に根ざしていますが相応しいように感じました。
キリスト教徒でもない人が、イエスキリストの前で結婚の制約を交わしてもあまり意味がないのではないかとつい感じてしいました、笑



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月17日(月)01時13分26秒

ひねりを入れてますね、笑

ところで、梅里先生とは光圀の雅号(のようなもの??)です。
瑞龍山にある光圀の墓には「源臣徳川光圀梅里先生の墓」のように書かれていたと思います、多分^^;;

偕楽園の梅林は有名ですがこれは斉昭の手によるものです。
でも、光圀の梅里先生という名前に因んだものであることも間違いがないように思っています。

前にも書いたような気がするのですが。。。??
光圀は史記の伯夷叔斉の故事に感動して、それまでの放蕩というか不良生活を一変させたと言われています。
同様に日本書紀にある菟道稚郎子の故事にも、とても感動したようです。
応神天皇に愛された皇太子で博学だったとありますよね。
この時に菟道稚郎子か仁徳天皇が兄弟愛を歌ったものに「梅」があるからというのですが。。。どの歌なのか良く分かりません^^;;
万葉集にあるのでしょうか??



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すげぇ 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月16日(日)20時22分55秒

プラハか…きっときれいなところでしょう。
楽しいご旅行を!



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安部さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月16日(日)19時00分50秒

プラハからですか!!2

おお^^
すごいですね。
卒業旅行を楽しんでいるようですねv(^o^)
スリや事故には気をつけて下さいね。

ところで海外だとこの掲示板の日本語はそのまま表示されるのでしょうか??
帰ってきたら教えて下さいね。



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プラハ 投稿者:勇者ロト  投稿日: 3月16日(日)18時19分41秒

からですか!!
確かにすごい(^^ゞ



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sotsugyou ryokou chudesu 投稿者:Daisuke Abe  投稿日: 3月15日(土)23時22分33秒

CHEKO no PRAHA no inter-net cafe kara setsuzoku shiteimasu
inter-net ha sugoi desune-
deha minasan ogenkide , raishu ni kaette kimasu



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月14日(金)08時45分36秒

私は、聖徳太子と神功皇后架空説ですが、そのコアになった人物はいた思います。ただ、記紀の作者には、まともに書くと都合が悪かった。そこで、このような人物を作ったと思います。聖徳太子は、タリシヒコ大王だと思います。神功皇后は分かりませんが・・・。聖徳太子=厩戸ですが、私は、厩戸よりタリシヒコだと思います。そこで、タリシヒコを隠す為、皇族で一番優秀だった、厩戸を持ってきたのだと思います。タリシヒコ=馬子のように思っています。屈折してますねー。



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kitunoさん 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月14日(金)01時19分02秒

読んで頂きまして有難うございます^^

私は架空説とか虚構説というのは基本的に疑っています、笑
編集時点で分かっている(伝わっていた)内容をそのまま正直に記録したものだと考えているからです。
その方が異説の並立や不合理な部分の説明が整合性を持ったものになります。

聖徳太子架空説とは「暴れん坊将軍架空説」とか「水戸黄門漫遊期架空説」のようなものだと思います(;^_^A)
でも神功皇后架空説のような空白の4世紀説だと、存在そのものが無かったというかなり乱暴な説が多いように感じています。

kitunoさんの言われるように記紀を信頼すべきだと思っています。



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なんと 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月14日(金)01時18分14秒

早くも韃靼そばが届きました^^

早速食べてみました。
そばが黄色っぽいのですが、触感は普通の日本そばに似ていました。
これで血液がサラサラになるのですから、韃靼そばはかなり優れものだと思いました。
太田さん、お勧めですよ^^

ところで、間宮海峡の事をタタール海峡と呼んでいるようです。
タタールと言う言葉はロシアへの侵略者という意味で、かなり差別的に使われているみたいですね。
このやろう(笑)、とかエイリアンとかバーバリアンみたいな感じでしょうか??(;^_^A)

本来はモンゴル系の一部族にタタールと呼ばれるものがあったということなのですが、モンゴル全体を指すようになり、更にはトルコ系も含まれた遊牧民族全体を意味するようになったわけです。
編集済



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神功皇后の煌めき 投稿者:kituno  投稿日: 3月13日(木)15時22分42秒

大変な力作、読ませていただきました。^^

私も神功皇后は実在の人物であろうと思っているのですが、今回のきんたろうさんの論文を見て、改めていろいろなことを考えさせられました。

『日本書紀』に書かれている干支を120年後と考えて神功紀を読み、神功紀の「七枝刀」の記事を朝鮮史書や七枝刀銘文の「369年」に、また「広開王土碑」に書かれている391年の「倭、渡海して百残(百済)・新羅を破り臣民とする」という記述が「神功皇后による新羅征討」であると考えることが可能になるということは、『記紀』の研究者がよく指摘していることですが、初期天皇を架空の人物と見なす学者さんたちの間では、「広開王土碑」に書かれている391年〜407年にかけての「倭と高句麗との17年戦争」を『日本書紀』は一切記していないとし、従って神功皇后を架空の人物ではないかという見解が示されているようです。そして中国の史料こそ重視すべきであると強行に主張される向きもあります。しかしこれらの学者さん達も「葛城襲津彦」は実在の人物とする説が多いことが不思議です。近年、奈良県御所市の南郷遺跡群から高度な技術を持った渡来人が住み着いていた可能性を示す調査結果が出ているためで、葛城襲津彦が外交で主導的立場にあり多くの渡来人を受け入れていた可能性を示唆しているものと解釈されるようになったなどの理由があるようですが、それならば「神功皇后」の足跡や「武内宿禰」なども「架空」とせず『記紀』をもっと信頼して研究するべきではないかなどと素人考えで思ってしまいます。

『日本書紀』に書かれている「葛城襲津彦」の実在の可能性が高まっているなら、当然神功紀に書かれていることも史実が内包されていると考えられるべきで、『古代からの伝言』の八木氏の主張されていることやきんたろうさんの書かれたことも尤もであると思いました。



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ダッタン人 投稿者:太田守人  投稿日: 3月13日(木)12時59分00秒

を英語で言えば、ターターですよね。このターターが良く食っていたソースが、タルタルソースだそうです。アメリカ海軍が,戦後初に実用した,3種類のミサイル、タロス・テリア・ターターですが、タロスは神様の名前。テリアは猟犬の名前。それで、もう一つどうしようか?ってことになった時に、それじゃ,ターターはどうだー。と言った人がいたそうです。そうしたら、そりゃいい、強そうだし。と満場一位で決まったそうです。



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だったんそば 投稿者:太田守人  投稿日: 3月13日(木)09時24分03秒

そんなのあるんですか?ラーメンのだったん版だったん。なんてね。
日本でも、ある製薬会社が,ルチンそばを商品化しようとしたが、まずくて売れなかったそうです。

自転車で,私の知ってる人は、350万円もするのを持ってる人がいます。一度乗せてもらいましたが、実に軽い。イタリア製のオーダーメードだそうです。この人,夏休みに金沢〜東京まで、自転車で行っています。土日は、金曜日に金沢を出て、自転車で琵琶湖一周をするそうです。琵琶湖一周は、200kmあるそうです。この自転車,材質を聞いたら、戦闘機と同じチタンや複合材料で、あるとき、琵琶湖一周に行こうと思い、敦賀で駐車中の車に追突したそうです。あたりどころもあるのでしょうが、自動車のほうが壊れ、自転車は大した事なかったそうです。



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だったんそば 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月13日(木)01時12分51秒

を知っている人はいますか??

以前にテレビで放送していたのを見た程度ですが、ルチン、ケルセチンという物質が日本そばの何百倍も含まれているスーパー健康食品のようです。
ルチンやケルセチンという成分がドロドロになっている血液をサラサラにするというのですから驚きです。

実は今日注文してみましたv(^o^)
太田さんもToshyさんも健康的な生活を送っているようですから韃靼そばに頼らなくても良さそうですね、笑

だったんとは勿論「韃靼」の事です^^
塔塔児人の名前はヨーロッパばかりではなく、蕎麦の名前として広く知られるようになるかもと思ったりします。

自転車と言えば最近の自転車はかなりすごいのが出ているようですね。
一見すると普通の自転車そのものなのですが、変速ギアが付いていたりします。
鍵も一カ所掛けると前輪のハンドルまで固定する仕組みになっていたりします。



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太田さん 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月13日(木)01時11分07秒

読んで頂いて有り難うございましたv(^o^)
神功皇后編はとりあえず今回で完了しました。
今回のように当初の予定通りに完成まで進むのは本当に久しぶりです。

続編のようなものがあるとすれば、応神天皇編とか仁徳天皇編、もしくは継体天皇編になると思いますが。。。今のところ全くの未定です。

書きかけのまま、かっぽった(笑)ままになっているファイルを整理してまとめていこうと思っています。
未完の聖徳太子編4はまだ少し覚えているのですが、戦国時代編のファイルなどは書いていた時の気持ちはどうだったのかなど殆ど忘れています^^;;



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自転車 投稿者:Toshy(雪狼)  投稿日: 3月12日(水)18時31分13秒

わしは前の職場まで片道15キロを40分くらいで行ってました。
仙台と松島の往復(60km)も4時間くらいでしたか。
もちろんママチャリではなく変速機がついているから・・・

スボンですが、去年買ったのは今ゆるゆるで、
ベルトを締めないと下がってきます(わら



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それと、きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月12日(水)13時07分52秒

私も神功皇后架空説ですが、日本が、朝鮮半島に軍事的圧力をかける能力がなかったとは、思っていませんよ。でも、きんたろうさんの神功皇后は面白い。楽しみです。でも、私は、神功皇后は、夫仲哀より、息子応神とワンセットとして考える存在だと思っています。つまり、仲哀と応神という親子関係のない者を、親子にした接着剤だと思っています。



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きんたろうさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月12日(水)12時34分17秒

でも矢張り3月です。気温が一寸高くなると、すぐ消えます。今日はもうありません。でも、10cmはありましたよ。きんたろうさん、昨日,金沢にいらしゃれば、雪見酒出来たのに。(爆)

この頃は、小松空港までママチャリでサイクリングしてます。片道30kmくらいで、片道2時間半かかります。今度、飛行機に乗るときは、ママチャリで行けば、一晩1,300円の駐車料がいりません。ところが、小松空港自転車置き場がない。なんでないんだー。って怒ってます。でも、こんなことで怒るの私だけか・・・。でも、自転車のると,太ももに肉が付きます。私の場合、腹も出てますが、腹以上にズボンに太ももが入りません。(笑)



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更新情報^^ 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月12日(水)00時33分21秒

神功皇后5をアップしました^^

http://www5d.biglobe.ne.jp/~kintaro2/jingukougo5.htm



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3月の 投稿者:きんたろう  投稿日: 3月12日(水)00時32分29秒

この時期に一面銀世界とはすごいですね!!
どのくらい積もったのですか??
確かに今日は上野でもとても寒かったですよ。

ところで初めて新しい「丸ビル」に行ってきました。
隣の古びたビルが何故「新丸ビル」なのか良く分かりませんでした^^;;
昼食を隣の席で取っていた人は、多分土曜日か日曜日のニュースショーに出ている朝鮮日報の特派員のようでしたよ??
この前偶然テレビで見ただけなのですが。。。
ジャッキー・チェンに似た感じの人です、笑

太田さん
片道18qを自転車通勤ではかなり大変でしたよね!!
それにしてもものすごい体力ですね。
驚きました^^
速く歩く時は脛の筋肉を使いますが、自転車の場合は太股の筋肉が酷使されます(;^_^A)



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Toshyさん 投稿者:太田守人  投稿日: 3月11日(火)12時58分41秒

大丈夫ですよ。私も勤めの都合で、過去に、片道18kmを、3年間自転車で通勤しましたが、まだ、体重は0になってません。クソー。1ヶ月に2kg痩せたのになー。でもね、友人に言わすと、私が2kg痩せた所で、変らないって言うんですよ。ちきしょー。アイツメ、ウシミツ参りじゃー。



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銀世界 投稿者:太田守人  投稿日: 3月11日(火)09時49分55秒

今朝おきて驚きました。なんせ,金沢は、一面まっしろの銀世界ですからね。おーい。春やー。どこいったんだー。



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