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平将門の乱・詳細編1(招婿婚)


延喜天暦の治は天皇親政の行われた穏やかで平和な文化の華開いた時代と言われています。しかし、その時期とは正に承平・天慶の乱と同時代にでもある事から考えると、後世の人達から言われているように本当に朝廷の絶頂期に当たるのかどうか疑問ではないでしょうか。将門の乱や住友の乱とは当時の日本社会においてあまりにも大きな叛乱だったと言わざるを得ないと思います。


わたしは以前から何故皇族の血筋が関東一円にまで広がっているのかずっと不思議に思っていました。そしてその答えは当時の婚姻の風習に見つけることが出来ると思います。


当時の結婚の形態とは、特に貴族社会のそれは招婿婚(婿取り婚)が正式の婚姻形式と言われています。招婿婚とは成人した男子は通い婚の後に婿入りすることになります。そして産まれた子供達は母方の実家で養育されるのですが、姓は父方を名乗ると言うものだったそうです。これが招婿婚だと言われています。このような自分たちの風習を地方にやってきた貴族達は持ち込んできた訳です。この婚姻関係によって各地方の伝統的な豪族達は藤原氏・源氏・平氏と表面上は名前を変えていったわけです。これが数十年という短期間にも係わらず急激に貴族の血筋が一円に広がっていった理由だと思います。


実際は皇族の高貴な血筋と言っても彼らは支流にしか過ぎませんでした。京都にいては日の目を見ない程度の貴族でしたが彼らは地方に行けば歓迎されたのです。特に関東ではそうだったと言われています。これは関東に住む人間が京都に対して強い憧れを持ち、且つ自らの血統にコンプレックスを持っていたからだと思われてきます。そして、藤原氏が素性を隠して(??)朝廷内部で勢力を伸ばしていったように、身近なところによいお手本がありました。


10世紀半ばに関東地方南部で将門とともに活躍する平氏一族も興世王も源護も彼らは敵味方係わらず内情は同様だと考えていいと思います。この事は皇族の末裔や藤原氏の支流が京都に見切りをつけ新たに地方で生き方を見つけようとしたのでしょうか。またここには各地の伝統的な豪族の姿が見えてはきません。これはある意味で偏向した意図を持って記録されたからとも言えると思います。いずれにしても各地の豪族達と結婚して貴族の血統は関東一円に広がりましたが、そこで生まれた子供達は母方から豪族としての各地の地盤を引き継いたと考えるべきだと思います。


将門の場合を考えると、彼は天皇の血を引くとともに下総の土着豪族の正当な後継者でもあったわけです。