2002/2/3



平将門のIF


将門は日本史上に燦然と輝く功績を残しています。それは将門が「藁をも掴む」と比喩された強欲な国司達を小気味よいほど打ち負かしたところによるものなのは言うまでもありません。在任期間中に最大限の蓄財のみを目的としている私利私欲に走った国司は国家をバックにしていますから最大級の悪質な存在だったように思われてきます。彼らは住民から絞れるだけ絞ろうと考えているだけの悪質な存在そまものでしたから地方行政官としての本来の役目はどうしても二の次になりがちだったと思うのです。


このような国司達を巨視的な見方で考えると、目的とした律令制度と比べて矛盾した答えが導き出されてくると思います。つまり国司達がやっている事とは本来は国(=天皇)の物である「公民」が生み出した富を、かすめ取ろうという国家的反逆行為行為であると言えると思えるからです。これは現代人の目で見た皮肉的な意見ですから大げさ過ぎるのかもしれません。でも現代でも外務省の汚職にみられるように公務員の背信行為は社会的マイナス要因以外の何ものにもならない事は時空を越えた真理なのです。


当然の事ながらこのような国司達というのは住民の立場からすると迷惑な存在以外の何ものでもありません。結果としてこのような「さもしい人物」ばかりを連続して「統治者」として送り込んでくる中央政府の支持率が低下するのは当然だと思えるのです。将門の乱の背景にはこのように国家としての機能が作動していない状態が関東を覆っていたという歴史的事実を無視する事は出来ないと思っています。


武力で統一は出来るが安定した統治をするには武力だけでは不十分である、という真理は古来からの常識として浸透していたように思っています。事実、天皇家は武力と祭祀を兼ね備えた家として存在していました。大王が何故アマテラスの血統にあれほど拘ったのかといえばそこに「神聖」なものを見いだしたからに違いありません。


一方大陸では異民族間の抗争を無数に見る事が出来ます。まるで波が打ち寄せてはまたそれを繰り返すように日本以外の場所では侵略や民族移動が何度も繰り返されました。これは大陸における人的移動がいかにダイナミックであったのかを物語っていると思います。この点に関して日本の場合は全くダイナミックさに欠けていると断言する事が出来ます。要するに異民族間の存亡をかけた戦いが日本列島内部の歴史には欠如しているのです。


言葉も風習も異なる異民族が支配者として君臨する場合には征服された相手の価値観など意味をなさないのは当然のことです。征服によって侵略者は新たな統治者となります。彼らは自らを神聖化していく事になるのだろうと思います。また、このように日本以外の場所のほとんどでは新しい征服者が何度も変わりましたから神話時代と現在の王家あるいは住民と断絶を見ることが出来るのです。


将門は「新皇」と称して関東の独立宣言をした事になっています。この時代の日本では実際の武力を持った人物がどのようにすれば「神聖さ」を得る事が出来るという事についてまだ「発明」されていませんでした。遙か古代の中国では「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」と一種の革命思想があった事と比べれば大きな違いだと思います。でもこれは民族の興亡史を持たないのですから元々無理な注文であるような気がしています。


結局、将門の取った方法とは朝廷の猿まねをする事でした。要するにミニチュア朝廷を作る事しか方法を見つけることが出来なかったわけです。でもこれは将門が初めから関東独立の野心を持って「新皇」になろうとしたわけではなく、結果として反乱軍の大将として祭り上げられてしまったという側面が大きかった事の証明になるのではないかと思っています。将門には太っ腹の「親分」的なイメージを強く持っています。これは将門の行動基準が「利益」のみではないという事によるのだと思っています。利益がその人の行動原理の最上位にない人物とは当時の貴種に連なる者としては極めて例外的な人物であったのではないでしょうか??


将門がもし有能な人材を京都から大量に受け入れる事をしたならば関東独立国をもっと長く維持する事が出来たかもしれません。何しろ京都には血統的に二流以下であるために能力を発揮する場を得ることが出来ない優秀な人物が相当数いたであろう事は容易に想像されるからです。もしこのような人材が将門サイドに揃っていたならば京都と有利な交渉を出来たのではないでしょうか。


しかし一族間での骨肉の争いをは容易には解決出来なかったのではないかと思えます。これが将門を歴史の表舞台に登場させた原因ですがクリアするには最大の難問だったように思えるのです。また秀郷のような有力豪族が将門の敵になった事実から見ても実際には関東地方に地盤を持つ「独立地方豪族」たちの支持を過半数以上集めるのは困難だったのかもしれません??これは今まで「対等」のつき合いをしていた相手が突然自分よりも上の位に位置する事に対する反発が根強かったからではないでしょうか。どのような時代でも今まで同格としてつき合ってきた相手を十分に納得させる為にはそれなりの理由が必要だという事なのです。


将門はその答えを「五世の孫」であるところに求めました。しかし、この根拠はそれほど万人を納得させるほどの根拠にはならなかったのではないように思えます。皇族の限界が「五世の孫」までであると規定してあるのは五世の孫に当たる人物は掃いて捨てるほど多くいたという事に他なりません。ダイヤモンドや金が高価なのと同じように「貴種」とは「希少」だからこそ尊いのです。「五世の孫」とは継体天皇と同格になります。継体天皇の例を見ても、彼は福井から大和までの距離を20年もの歳月をかけました。しかし結局大和には入れなかったのです。


もし将門が関東を支配し続ける事が出来たとしたら将門の一族は一種の「関東公方」のような存在になっていったのかもしれません。権威の根元を「アマテラス」の血統に求めのであれば、結局は京都と連携するであろうと考えるのが自然であるように思えるからです。それでも国司に任命される人物が地元に近い出身者になるというのは独立性が高まったのは間違いがないように思います。地元と密着する事は今までよりも支配の厳しさが和らぐ可能性が高いのではないかと思います。


更に関東が「独立国」になった場合には東北地方も同様に独立性が高くなったであろうと考えられると思っています。結果としてイギリスのように「王国の連合体」のような形で日本全体の歴史が推移していった可能性を否定する事は出来ないように思っています。