4/11



信長の神髄 構想編


信長の頭の中には日本統一後のプランは当然あったはずです。しかしそれを私たちはそれを伺い知ることが出来ません。「本能寺の変」という歴史の偶然が引き起こした「効果」は予想以上に大きなものだったと言えると思います。


信長のその後を推測するには後継者であった秀吉の行動が一番大きなヒントを与えてくれていると思います。ある程度はそこから想像しても正しいのではないのでしょうか。


秀吉は信長の後継者として大阪を中心として東は箱根から西は播磨まで日本の中心部を直轄領にして絶対的なパワーを得ていました。徳川家を関東に移封した時豊臣家は200万石の領地ということでしたが、これは1万石以上は大名ということでカウントしていなかったからです。


要するに直轄領の中の直轄領といったものだと理解した方がいいと思います。(旗本だけの分)


ただし秀吉は信長の家臣出身者でしたから当然ハンディがありましたので、信長のように行動したくても出来なかったという面はあったはずです。徳川、毛利、上杉等の外様の大々名が存在し、少し前までは各大名達と同僚の身分でした。しかも織田家譜代出身者ではありませんでした。


信長は家臣を〇〇守という名で呼んでいましたが、これなどは統一後に与える最終領地だったといわれています。そして信長が在命であれば強力な中央政権国家が16世紀に日本に現れた可能性は非常に高いと思われています。


日本統一に向かって邁進し成果を上げる組織とはかなりの成長基調にあるという事でもありますが、統一後に信長がどういった政策を採るつもりだったのかは依然として謎に包まれたままです。


弟子の秀吉は成長基盤にある組織の形だけは理解し運営することが出来ましたが、所詮猿真似だった事実ははっきりしていると思います。「それからの事」を知るはずがなかったのは歴史が証明していると思います。また彼の優秀なスタッフ達も運営能力は十分ありましたがそれ以上のものではありませんでした。


彼らは、信長が引いたレールを猛スピードで進むことに対しては手練れと言えますが、限界点に達してブレーキのかけ方やカーブの回り方をどうしても理解できなかったのだと思います。もっとも秀吉の跡を継いだ家康の政権が行ったことも、後ろ向きの政策ばかりで結局は信長の遺産から抜け出すことは出来なかったと言えるのではないでしょうか。