4/7



信長の神髄 戦闘編2


今川義元が大軍をもって「上洛」を決意し、その途中にある尾張の織田家は九分九厘踏みつぶされる運命にあったはずなのに「お歯黒義元」が愚かだったために信長の「奇襲に」まんまとやられてしまった、というのが桶狭間の戦いの通説です。


また信長の勝利はひとえに幸運の賜であったと説明されています。


しかし、本当にそうなのでしょうか。


今川家は駿河、遠江、三河三国を支配下に収め石高で言うと約100万石ほどの大名でした。(最近の説では60万石と言われている)一方の織田信長は尾張半国を継いで数年間で尾張50万石を支配下に収めてしまうほどの才能をすでに見せていました。


信長の力はこの時点でかなり大きなものだったと認識する必要があると思います。ですから、織田家は理論上では今川家の半分の兵力を持つことが可能だったことになります。


今川義元はまるでイソップ物語の「ウサギ」のように無能者として歴史上扱われていますが、関東において北条、武田と共に三国を形成していたわけですから、決してそうではないと思います。また小説等で上洛を目指し天下に号令をかけようとしていたなどとありますが、これについては疑問です。恐らく信長の成功を知っている後世の人間の想像だと思われます。


今川家は確かに足利一門という名門ではありましたが、たかが2万5千人の兵で天下人になれるとは考えるほど愚かではなかったと思います。


私はあの戦いは尾張への侵攻が目的だったと考えています。信長は尾張50万石を支配してまだ日が浅いので、攻め取るのは今しかないと思ったのではないでしょうか。


この戦いの時、織田家では戦略が決まっていなかったようです。ただ籠城策の方が支配的だったとの意見があります。城攻めには攻め手の方が数倍の兵力を要しますから、力の差が一対二ならば当然可能な策だという事になります。


また、その程度の差であれば投降者が皆無だということも頷けると思います。


負ける見込みが100パーセントの戦いが予想されるのであれば、その時点で信長は家臣に殺されているはずです。


現実問題として「籠城策」をとっても信長は持ちこたえた可能性が高いと思われます。何故「桶狭間」を敢えて選んだかと言えば、信長の方程式では勝利が見えていたからに違いありません。


信長はこの時点ですでに成功者として実績がありました。そこから部下達の信頼は厚かったことが容易に想像されます。そして「カリスマ」を備えた存在だったのです。


信長は「敦盛」を好んで舞った事は有名です。この事からも人間は生きている間で何が可能なのかを厳しく問い続けていたように思います。


いかに大軍とはいえ全軍が一つの団体となって移動して戦闘を行うわけではありません。義元本陣を頭脳とすると何本にものびた手足が各部隊だとイメージした形が義元軍でした。


義元の回りを2万5千の兵士が囲んでいるわけではないのです。この事実は、信長にとって敵本陣に到達さえ出来れば十分に勝機があるという事だったのです。恐らく最後まで「情報部隊」が信長の耳として活動していたことだと思います。


そして本陣突破の方法とは物理的に相手よりも進行速度が速いということしかありません。これを可能にする方法とは全軍が騎兵であるという事以外にはあり得ないと思えるのです。