2003/10/26



斉明天皇の野望1


白村江で行われた唐・新羅連合軍との戦いにおける日本軍の敗北は、古代日本社会に大きな影響を与えたのではないかと想像している人が数多くいます。そして、客観的に見ると、ほとんど勝ち目の無い戦いであると思われるにも拘わらず、何故天智天皇(この時点では中大兄皇子)を初めとする「やまと」の首脳部達は、敢えて百済救済のための援軍を送る事を踏み切ったのだろうかという点について様々な意見が出されています。


何しろ戦う相手は小国「新羅」だけではなく、「隋」に引き続いて広大な中国大陸を統一した「大唐」なのです。中国大陸の覇権を達成した唐が東アジア地域における最大の武力を持っているのは誰の目にもはっきりと見えるはずです。このような圧倒的軍事力を有する、巨大な相手を敵に回してまで戦おうとするには、「やまと」が絶対に譲歩することの出来ない理由が存在するはずだと考えられるのです。しかしながら、その理由が多くの人の目にはっきりと現れて来ないと感じられるからこそ、出兵の原因について色々な憶測を呼ぶ事になっているのだろうと思っています。そしてこの想像が膨らんでいった結果して、「やまと」の出目に対する仮説を構築する事にまで繋がるのではないかと考えています。


確かに、私達が東アジアの地図を目にした時に、唐の最大勢力範囲のあまりの大きさに圧倒される事は間違いがありません。それは、この想像を絶するほどの巨大な領域に比べると、「やまと」が支配する日本列島の小ささが際だって感じられると思うからです。これだけの「差」がある相手では、戦った場合を考えてみたとすると、とても勝負になりそうに無いと思えるはずだからです。誰がみても唐を相手にしては勝てる可能性などはあり得ないと判断するように思います。


そればかりではありません。唐は後世の「元」のように日本征服を企てる事が可能な程に軍事力を強化できる相手であるかもしれないのです。もし、そうであれば、援軍を送って朝鮮半島で戦闘を行うだけではなく、国土防衛戦すら視野に入れて判断すべき極めて高度な政治的判断を有するものなのです。何しろ、自分自身が滅亡するかもしれない程の危険も出てくるからです。それにも拘わらず、自らの危険を冒してまで百済を助けるのですから、どうしても抜き差しならない理由があるはずだ、と考えるのは当然の事だと思われてきます。


普通に考えれば、国運を賭けてまで百済を助けるのはあり得ない事であると思われても不思議ではありません。これほどまでの肩入れは、理性を越えた正常な判断ではない義理立てのように思われるはずだからです。ここから、百済王家が「やまと」の単なる知り合い(というか客観的にみれば、下位に存在する同盟者)だけではなく、血統的にとても深い関係がある存在だったのだという仮説を作り出されたように思っています。この説とは、つまり「やまと」の本家が百済ではなかろうかというものです。


確かに、この仮説は「やまと」の出兵動機を解決するための一つの解決策だと思います。しかし、親戚だから同盟関係であるという仮説は必ずしも正しいとは限らない事を歴史は証明しています。そして、「骨肉の争い」の言葉は、親子、あるいは兄弟間の極めて近い肉親間において争われた事実から発生したものなのです。ここからみても、親戚である者たちは必ずしも親密な関係であるという前提は無理が大きすぎる思っています。


また、朝鮮半島諸国の政策からもそれは伺う事が出来るのです。新羅と百済の政策を比べてみると、百済だけが「やまと」一筋であるという感じを受けてしまいまうからです。朝鮮半島の統一を成した新羅の態度は、狡さを感じる程の臨機応変さを認める事が出来ます。それだけ、この地域で生存するのが過酷であったという事であり、生き残るためには「狡さ」が必要とされたのだろうと思います。新羅の成功とはこれを証明していると思います。しかし、それほど厳しい環境であるにも拘わらず、百済の政策というのはまるで違うのです。この温度差から考えると、百済とは「やまと」の本家筋であるという説とは全く逆に、「親を信じ切っている子供」のような姿が連想されてくるのです。


また大和朝廷を構成した人達とは、任那とか百済、あるいは高句麗でも良いのですが、要するに朝鮮半島から渡って来た人たちの子孫であるという説があります。つまりは、「やまと」とは「外の世界」からやって来た人たちによって作られたものであるという説です。でも、これは日本列島の外からやって来た人たちによって日本列島が支配されたという点だけが共通しているだけのものであり、百済らや高句麗、あるいは任那がそれぞれ別の独立した存在であるという点を全く無視している考えだと思います。彼らの違いを考慮に入れていない、アバウト過ぎる仮説であるのは明らかです。要するに日本の支配層である「やまと」とは海外からやって来た人たちであるという思いこみだけが、そこには強く表れていると感じられるからです。しかし、本当にこの考えは本当に整合性を持つ理性的なものなのでしょうか。


勿論、日本には何千年もの歴史があるわけですから、大陸や朝鮮半島などと累積すればかなりの交流があったのは事実です。しかし、記録にも伝承にも残されていないにも拘わらず、想像力だけで歴史再構築する事が許されて良いはずがないのです。現代人の感覚ではなかなか思いつかないものだからとしても、それがそのまま7世紀王朝の常識として通用するものとは言えないのです。この点について考察された意見をあまり見た事がないように思っています


ちなみに白村江の戦とは西暦663年に日本が唐に敗れた海戦であり、白村江は朝鮮南西部の錦江河口付近の古名です。百済と争っていた新羅は、高句麗と戦っていた唐と同盟を結びました。この同盟によって、百済の都を西暦660年に占領することが出来ました。そして百済王たちは捕虜として唐に連れ去られたのです。こうして百済王家は滅んだのでした。このために百済の遺臣たちは「やまと」に救援を求める事になるのです。大和朝廷はこの救援に応じて6万もの大軍を百済救済のために派遣したのでした。


斉明天皇や彼女の息子である中大兄皇子も北九州にまで出かけて本営を置きました。斉明天皇が最高指揮者としてこの遠征軍の指揮しています。ところが彼女が病死したために、中大兄皇子が称制して指揮をとる事になります。主力である日本水軍は西暦663年8月27日と28日に行われた白村江で行われた戦で、唐の水軍に挟撃されて大打撃を受けてしまいました。この大敗により日本軍は撤退し、朝鮮に対する権益を放棄することになります。