2003/11/13



斉明天皇の野望2


白村江の戦いについては、国運を賭けてまで百済を助ける意味があるのだろうかという観点から、様々な意見が出されています。その中には、天皇家(=やまと)が百済王家と政治的繋がりがあったのは、血統的に極めて親密な関係にあったからであるといった大胆な仮説もあるようです。このような発想は学問的に積み上げた結果としてのものというよりは、素人の特権として許される自由さによるところが大きい考えのように思っています。そして、学問的に正確かどうかという次元とは別に、このような考えが一定の支持を得ているのは事実です。私は出兵の動機を一つの理由に求めるのは余りにも無理があり過ぎると思っています。国家的決断には、幾つもの要因が複雑に絡み合って形成された動機が存在するのは間違いないからです。さらに一歩足を止めて、白村江の戦いを語る時に「国運を賭けてまで戦う」と枕詞のように使われるこの認識についても、これが本当に正確なものなのかを分析してみる必要があるように感じています。


例えば、「唐」の支配空間である領土の範囲についてはどのように認識されているのでしょう。日本の場合はその領域が四方を海で囲まれているために、限界点とは古来から変わらないものであり、それは海岸線とその周辺でした。そのために、外国でも国境線とは日本と同じように不変のものであると、つい思いがちなのではないでしょうか。人間は自分の価値観や習慣から使われている「物差し」を普遍的なものとして使用してしまう傾向にあるからです。しかし、これは正しいとは限らないのです。


日本列島の外にあった国家とは、一言で言えばギリシアの「都市国家」(=ポリス)の集合体のようなものなのです。つまり、大陸の国家の領域とは、まず城壁で囲まれた「都市国家」があり、それらが互いにネットワークで繋がれているようなものなのです。現実の「都市」と「都市」との間には荒涼たる砂漠や平原が横たわっているのです。この状態とは大海原に点在する小島の姿と何ら変わるものではありません。唯一の違いが陸地であるか海であるかという点だけなのです。ですから、地図に示された大陸国家の大領域は不変のものではなく、大きく変動するものだったのです。


勿論、支配エリアとはその中でも「点」もしくは「小さな面」であり、地図に示された面積の全てがテリトリーではなかったのは当然の事です。だからこそ、中央都市の支配力が低下すると同時に、大陸の様子はそれこそ麻が乱れたかのような状態を呈する事になったのだろうと思っています。このように考えを進めてくると、白村江の戦いで敵対した「唐」を理解するのに、現代のアメリカのように圧倒的物量を誇る姿を重ね合わせるのは間違った理解を生む原因になると思えるのです。ところが日本人の感覚では、国境線というのは「不変」のものであり、尚かつ江戸時代の各藩のように支配が「面」として浸透していたように思いこんでしまうところがあるのではないでしょうか。この結果として地図を見ただけで、まるで太平洋戦争を戦ったアメリカのように、圧倒的物量の差をイメージしてしまうように思うのです。


神功皇后の新羅征伐によって朝鮮半島の三韓が「やまと」の外域として規定されたのは日本書紀に書かれている通りです。神功皇后の偉業により、「やまと」の版図は玄界灘を超えて朝鮮半島にまで到達したのです。この時点で「やまと」は朝鮮半島に乱立する小国の上に立つ存在であるという実績を確立した事になったのでした。「やまと」の大王が国内ばかりではなく、異民族の(小)王までも統治する存在になった事により、「やまと」は古代における「帝国」となったのです。


自分たちが所属する部族が他の部族をまとめ上げ、更には自分たちとは別の言葉や風俗を有している集団まで統治する姿の例としては、何百年も前に「大漢帝国」の例が既に身近に存在していました。海という巨大な壕で世界が区切られているために、直接的な侵略という手段による交流ではないにしても、日本列島にやってくる人たちによって概念は伝わっていたものと思えます。ですから、神功皇后の三韓征伐の時代において既に「やまと」にとって「世界帝国」がどのようなものであるかという事を概念的に理解していたものと推測しています。


「やまと」の世界とを簡単に言えば中国王朝のミニコピーのようなものなのかもしれません。「パックス・やまと」を中華用語を借用する事によって表現するのは、これが普遍的ものであっても物まねであるように誤解されてしまう面があるような気がしています。しかし、「やまと」は確かに世界史的に見ても早熟文明の発生地の近くの場所に存在していましたから、大陸の「中原」と名付けられた場所に成立した大帝国の統治を真似たものであるのが正解なのかもしれません。しかし、中国文明とは全く空間的に隔てられた場所に成立したヨーロッパ諸国でも、支配や統治をするための物理的距離を克服するためには、同じような方法を採っているのです。ですから、自らを中華と準えて相手をバーバリアンと規定するような手段というのは普遍的発想なのだろうと思うのです。中国文明が古いために、既にこの名称が存在するために、「用語」を使わせて貰っているにしても、「中華思想」とは漢民族オリジナルであるとは言えないように思っています。


朝鮮半島情勢は村のような小国分裂から、次第に百済、新羅、高句麗などの勢力が増大して半島の覇権を争う事態になりつつあった時代です。そして半島南部の沿岸地域には任那日本府(=みまなの やまとの みやこ)が置かれていたのです。これは「屯倉制度」が海を越えてこの地域にまで拡大されたものであると認められると思っています。つまり、冊封体制が中国国内体制の拡大版であるのと同様に、やまと国内の政治システムの応用なのです。「みやけ」とは屋舎や倉庫の意味であり、元々は朝廷直轄農場の事務所・倉庫群の事を意味していました。ここから、その農場や周囲の課税地区、耕作民を指すようになっていきます。大和朝廷の直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉を維持管理するためには、そのためのシステムと役人が必要になるのは自明の事です。ここから「みやけ」は、大和朝廷が朝鮮南部の各地に建てて管轄させた官府であるという意味を持つようになるのです。そして、これを海外にまで適応させようとして作られた言葉が「うちつみやけ」なのです。雄略紀には「百済の国は日本の国の官家と為て所由ること遠久し」とあります。「みやけ」は一般的には「屯倉」と書かれていますが「官家」、「屯家」、「屯宅」、「三宅」などとも書きます。なお、外地である朝鮮では行政・軍事の官衙の役割まであったようです。


「やまと」に限らず支配範囲を拡大していくには、武力が必要であるのは当然ですが、それを維持して行くには「管理システム」が必要となるのです。「やまと」の場合はこれが「屯倉」であり、任那にその事務所があった事になるのだろうと思っています。これは地域に根ざした小さな集団とか、血縁で結びついた一団を基本的に核としてそれらがネットワーク上に繋がり命令系統が行き届くようにする必要があるからです。つまり統治とはトップダウンが可能になるための組織が形成される必要があるのです。


どのような組織にも必ず存在理由が掲げられています。選挙のスローガンなどがこの代表ですが、これは古代社会の「やまと」でも同様だったと考えられます。何しろ「馬上で天下を取れても天下人にはなれない」のは古来からの真理だからです。この原則は恐らくは人類の発生と同時に発動しているのように思われてきます。統治を維持する為には、自分たちが為政者として正統(=正当)であるという「大義名分」が絶対に必要になるのです。これが支配・被支配という関係を納得させる「手段」なのだろうと思います。


版図に対す所有権の場合は、統治者の能力や資格を含めた、存在そのものを規定している根元的なものであると言っても過言ではないと考えています。歴史上無数に見られた隣国との争いとは全て「国境線」を巡って行われたものばかりだからです。国境線とはつまり「勢力範囲の限界」を意味しています。世界史的に有名な国境地帯の名前と言えば、ドイツとフランスの勢力範囲の限界点に存在するアルザス・ロレーヌ地方が有名です。また月からも確認できると言われている、最長の人口構造物である「万里の長城」にしても、ここより以北の草原地帯を生活の場とする遊牧民族との境界線であるのは明らかです。中華人民共和国の領土は内モンゴルと言われている場所まで支配していますが、歴史的に見ると万里の長城こそが漢民族が自ら決めた「世界」の境界線だったのです。


さて中国大陸北東部の高句麗が支配する領域は、歴代中国王朝にとって優先的潜在的所有権を持つ場所であると認識されていたのです。中華思想的に一言で言えば、「皇帝の持ち物」であるといったところでしょうか。高句麗の領土とは漢民族が歴史的に支配してきたエリアに重なる場所だったのでした。そのために、隋の政策が規定されていく事になります。似たような事は現代の国際社会でも多く見受けられますから、普遍的な問題であるのたろうと思っています。


「やまと」が白村江の戦いに向かったのと似た例を調べることにより、その概念や、「やまと」の行動原理を理解できるのではないかと考えています。隋の煬帝の採った行動とは正にこれに当たるように私は思っています。封建制度とは一族の者を「王」として領土の一部分を分け与えてその統治を委任する、というところが特徴に挙げられます。要するに地方の最高司令官は皇帝(=大王)の血縁者であるということなのです。日本でも多くの皇子たちが部族の始祖として名を残しています。


例えば隋の高句麗に対する経緯を見てみると、そこには「やまと」が何故朝鮮半島にあれほど固執した原因が炙り出しのように現れてくる思いがしています。581年2月に北周の隋国公楊堅(=文帝)が禅譲により帝位について「隋王朝」が建国されました。この年の12月には、高句麗王高陽(=高湯)が隋に朝貢して大将軍・遼東郡公を授けられています。しかし、高句麗は584年までの3年間は毎年朝貢をしていていたのですが、585年になると南朝の陳に朝貢を行っています。この隋ヘの朝貢の中絶は、これ以上隋の勢力が膨張すると、自分が飲み込まれてしまう事に対する警戒からだと思われます。しかし、高句麗の牽制策は全く役に立たなかったようです。589年に隋は陳を滅ぼして約400年ぶりに中国大陸の統一を完成したのです。


この時、高句麗の取った対応は朝貢再開ではありませんでした。反対に隋の攻撃に備えて防備をした事だったのです。これを知った文帝は、「藩附としての誠節を尽くさず、国土を賜い官爵を授けたにもかかわらず、不信をいだいているのは、臣としての義に背くものである」と責めています。そして、もし高句麗がこれを違えれば、討伐して州県に編入する意思を表したのです。これに対して高句麗王高湯は奉表して陳謝しようとしました。しかし、運悪く彼は病死してしまいました。その後を継いだ元(=嬰陽王)に対して、文帝は王を任じています。


藩国の朝貢は原則として毎年の義務ですから、これを怠ることは藩臣の節を欠くことになります。また、高句麗が文帝から璽書を受けて譴責されたことは、高句麗王が隋から冊封されたことを意味しています。これによって、高句麗の領土は隋の封域であると理論付けられて、王は隋皇帝の臣であると理解されたのです。この結果として、高句麗王の背反とは、つまり隋の家臣としての臣節に背く事になるという理屈が成立するのです。それ故に、もし藩国が臣としての節を守らず、「朝政の典」を奉じない場合には、皇帝は進んでこれを討伐すべきものと考えられていたのです。このように、冊封による藩国体制はけっして名目的なものではなかったのです。これは中国王朝を中心とした、民族の範疇を越えた国際的秩序体制であり、具体的な政治構造そのものだったのです。


598年に高句麗は靺鞨族万余騎を率いて遼西に侵入しましたが、隋営州総管韋沖(いちゅう)がこれを撃退したとあります。この原因については不明ですが、高句麗の行動は文帝を激怒させました。この結果として、30万人と言われる人数を動員して高句麗討伐の軍を起こしたのです。勿論、高句麗王の官爵を剥奪しています。しかし、この遠征軍は糧運の不備や疾疫のために成功しませんでした。そして、高句麗は隋に対して謝罪を行ったために許されています。この時の高句麗王の謝罪文に「遼東糞土の臣元、云々」とあります。


文帝による高句麗遠征とは、その直接の起因が高句麗による辺境撹乱でした。そして、既にこれが撃退されたにも拘わらず、敢えて30万人もの大軍を動員して兵を起こしているのです。その上、この征伐軍が失敗していても、高句麗側が「糞土の臣」と遜って謝罪したために許しているのです。高句麗の朝貢怠慢や臣礼の欠如が遠征の原因になっている事からみても、冊封体制が出兵討伐という現実の武力行使にまで展開するものであったことを示す例になっています。高句麗遠征がその謝罪という形で終息したのちも、隋に対する高句麗の朝貢はほとんど行われなかったようです。これが煬帝の大遠征へ繋がっていきます。


文帝の後に皇帝になった煬帝は607年に突蕨の啓民可汗のところに訪れています。ちょうどそこには高句麗の使人が派遣されていたのでした。この事実からは広大な隋の領域の更に外側に存在する、北方遊牧民族の雄大なスケールのネットワークを想像することが出来ます。しかし、東アジア地域における最強国家とはなんと言っても隋なのです。「帰りて爾(なんじ)の主に語れ。当(まさ)に早(つと)に来りて朝見すべし。然らずんば、吾、啓民(可汗)とともに彼の土を巡らん」このように煬帝は述べています。ちなみに、このようにアドバイスを煬帝にしたのは随行していた黄門侍郎の裴矩(はいく)という人物です。


これは明らかに、高句麗に対する来朝の督促です。そして「もしこれに従わないならば討伐をする」という強烈な意志の表明でした。高句麗の支配する土地は、漢以来中国の支配権のあるところであるにもかかわらず、「不臣の外域」となってしまっているために、本来あるべき姿である礼の通用する社会に戻すべきであるという考えです。「高句麗を討伐すべし」という、前皇帝と同じ考えがここに認めらます。高句麗征伐の根拠が、「中国の領土を正し、夷秋の土地にしない」という点にあったことを理解できるのです。


中国の伝統的領域となっている地域になら例え辺境であったとしても、冊封体制が維持されている限り「王化」の及んでいる場所になるのです。これは、冠帯の郷であり、礼の秩序の貫徹する地域となりますから中国王朝の秩序内の存在になるのです。しかし、「不臣の外域」になってしまえば、もはやこの場所は中国の礼の秩序の外にある「夷狄の郷」となるのです。この場所は中国王朝の秩序から脱落することになります。中国歴代王朝は「不臣の外域」の存在を認めていなかったわけではありません。例えば、突厥に対する「対等外交」や日本に対するそれは、両者の支配する地域が「不臣の外域」であるからだと認めていたから成立したものだと考えられるからです。


しかし、伝統的な支配空間だと考えられていた地域がそれに転落することは、王者として認められるものではないと考えられていたのです。そのために、「不臣の外域」の状態から、本来あるべき姿に戻して秩序を正すことこそが討伐の最大の理由とされるのです。これはスケールこそ違いますが、日本の朝鮮半島に対する行動原理に当てはまるのです。正に相似形そのものであるといえます。これこそが隋の高句麗大遠征の動機であったのです。杜子春の世界へ7でも触れていますが、隋は100万人以上と言われる想像を絶するほどの大軍を動員したとあります。


討伐は中国テリトリー内の秩序を正すことであり、中国社会の礼的秩序を維持することである、という一般的意識が背景としてあったからこそ、この大規模な動員を可能にしたと言えると思っています。いくら最強国家「隋」といっても皇帝個人の思惑によるもだけではこれほどの大人数を動員することは不可能だったはずです。また、領土拡張のためだけであるとするならば、征伐に成功したとしても、それによって得られる利得はあまりにも少ないものなのです。ですから、高句麗討伐とは冊封体制の持つ運命的な自己運動として理解すべきなのです。


この高句麗大遠征の第1回は612年に開始されました。啓民可汗の帳で高句麗の使者が煬帝に詰問されてから5年後のことになります。しかし、遠征軍は記録的大敗を歴史に刻むことになりました。613年に煬帝は再び号令をかけて兵を徴集して、第2回高句麗遠征を開始したのです。しかし国内ではこの年の初めから反乱が発生し、6月には前皇帝の権臣であった楊素の子である礼部尚書楊玄感が黎陽(れいよう)で謀反を起こし洛陽を包囲しました。これらの反乱の原因は、動員限界人数を遙かに超えた遠征軍によって、国内の蓄積食いつぶしてしまったからなのでしょう。また、玄感と親交のあった兵部侍郎斛斯政(こくしせい)は高句麗に亡命しています。この結果として、煬帝は急遽遼東から軍を還すことになりました。このようにして第二回遠征も失敗に終わりました。


楊玄感の謀反は8月に平定されました。しかし、すでに国内各所に発生していたその他の農民反乱はますます拡大していきました。このような状況であるにも拘わらず、614年2月に第3回高句麗遠征を開始したのです。そして7月には煬帝自身も懐遠鎮(遼寧省義県)にまで出向いたのです。国内では依然として農民反乱が続いていました。一方、高句麗も3度にわたる進攻を受けた結果、国内が疲弊して隋軍に対抗することが不可能となつていたのです。そのために降伏をしたために遠征軍を引き上げたのでした。この時に亡命していた斛斯政(こくしせい)を隋に囚送しています。


このようにして、煬帝の3回にわたる高句麗遠征は終息しました。しかし、それとともに隋王朝もまた命数が尽きてしまったのです。618年になると更に反乱が国中に広がって大乱となり、隋はこのような状況の中で滅んだのです。最強国家であったはずの隋は高句麗遠征に命運をかけて燃え尽きてしまったのです。「藩国の出礼を正す」という冊封体制の維持は、このように文字どおり国運を賭して行われたのです。このような出来事が「白村江の戦い」の50年前に行われていたのです。この先例が冊封体制の主催者が採るべきみちについて、「やまと」に示されていたのです。いつの時代にも大義名分が存在します。古代社会においては、この冊封体制を主催する立場であることを選択した「やまと」にとって、唐との戦いは避けて通れるものではなかったのです。