2004/03/27



斉明天皇の野望3


聖徳太子が約4世紀ぶりに中国大陸を再統一した隋に対して、「傘下に加わる」のではなく「対等」の関係を求めていたのは間違いがないと私も思っています。勿論、彼は隋皇帝である煬氏が鮮卑族出身者であることは十分に知っていたはずですから、ひょっとしたらですが、いくら大帝国を築いた「隋」の主であるとは言っても自分のように高貴な血統を受け継ぐ者ではなく、所詮は「成り上がり者」であるというような強烈なプライドを持っていたためなのかも知れません。


ところで日本(=倭国=やまと)は奴国が後漢に朝貢して以来、聖徳太子が対等外交をするまで歴代の中国王朝に対して朝貢をしていたという説もありますが、私はこれについても疑問に思っている部分があります。何故ならば、日本側が大陸の最大政権と関係を求めるという事が中国王朝の傘下に加わるものであるという図式は、余りにも単純化したのであるからです。日本側としては決して「子分」になろうとして派遣をしているわけではないにも拘わらず、相手側の理屈によって自動的に「徳を慕って朝貢してきた」と区分されてしまい、かつ公式に記録されてしまうのは余りにも一方的過ぎる暴論だと思うからです。個々の事例の記録ではなく全体像を再現しようとする者にとっては、真実を正確に表すという観点からはかけ離れすぎていると判断するのは当然のように思っています。


中国の史書を編纂する根拠や思想は日本側の思惑や立場とは全く無関係なものであるのは当然であると言えます。中国の史書とは、歴代王朝が正統性を持つものであるという事と中華思想を元にした皇帝の支配理論によって書かれているからです。よって中国王朝にある「基準」は中国王朝にとっては必要不可欠な概念であるのは理解出来ます。しかしそれはお互い様なのです。つまり中国王朝の思惑がどのようなものであったとしても、この「基準」が外の世界の住人にとっても「標準」であるという事には全くならないのです。「王化思想」こそが中華思想の最も美しく輝く飾られた部分なのでしょうが、実際の「王化」とは武力の背景無しには絶対にあり得ないのは誰でもが知っている事です。水が高きから低きに流れるように、中国の高度な文明が自然に周辺に拡大していくというのは妄想に過ぎず自然の摂理ではあり得ません。


日本のように海という巨大な自然の壕によって大陸から隔てられた環境にある場所に対して、中国歴代王朝は現実的に武力制圧を出来る可能性を全く持っていませんでした。唯一の例外が、中国王朝すら全体の一部に過ぎない程の広大さを持った征服王朝であるモンゴル帝国による元寇の役だけなのです。また、万里の長城よりも北方にある大草原を活動していた遊牧民族によって、何度も敗北を喫した歴史を持っているのが中国王朝の偽らざる事実であり、万里の長城という物理的な境界線を引いたのも中国人(=漢民族)自身でした。


このような事実があるにもかかわらず、能力の及ばない相手に対してまでも制圧できたかのような幻想を抱かせたのは「中華思想マジック」と呼べるのかも知れません。しかし、歴史の真実を前にすると、この言い訳は一気に力を失っていくのです。それは事実に反するものでしかないからなのです。ですから、私たちが中華マジックに染まってしまって「誤認識」をするのは、真実からかけ離れた虚構を見ているようなものだと感じています。要するに中華マジックとは、自らの実力以上に見せかけることであり、武力征服をする事が出来ない相手に対してハッタリをかけたようなものだからです。


「冊封体制」とは中国の歴代王朝が東アジア諸国の国際秩序を維持するために用いた対外政策ですが、元々は皇帝(もしくは最高位の王)が国内を統治する手段として使われていたものです。つまり、各地の統治を任せる相手とは自分の家臣という事になりますが、この相手に対して現地支配の根拠として官号や爵位を与えるわけです。元々の家臣ばかりではなく勢力を拡大していく途中で参加した「新参者」に対しても、同様に爵位などを与える事によって自分の「組織」の一員としての位置づけを図っていきました。このアイテムによって、「他人」を自分の組織に組み入れていくのです。


このようにして、国内統一が成し遂げられた時には、「一門衆、親藩、譜代、外様」のような参画時期の異なる集団が家臣郡として成立するわけです。この様子は徳川幕府の将軍家対各大名家の関係に、とてもよく似ているように思います。豪族集団が最大派閥を形成して行く課程は極めて似たものになるのが時代は変わっても、不変の真理なのだろうと思っています。このようにして形成された君臣関係を異民族(=外国)にまで適用させたのが、中国の冊封体制と言われているものなのです。朝貢をしてきた周辺諸国の君主に対して、国内の「大名」と同じように官号・爵位などを与える事により、「君臣関係」を成立させるわけです。


君臣関係を結んだ事により彼らの統治を認めるのですが、既に彼らは「実行支配」をしている分けですから、中国王朝にとっては特に新たな負担を強いられるものではありません。つまり極めて割のいい仕組みであると言えるのではないかと思います。その上、この体制に組み入れられることは「宗主国対藩属国」という従属的関係が公式に成立することでもあるのです。これをもって、後世の私達が歴史の誤認をする可能性を増すわけですから、冊封体制とは漢民族にとって子孫に対する「大いなる遺産」である部分が最も大きいのかもしれません。歴史的には漢代における外臣の制度がその始まりと考えられていますが、周代の封建制度にも遡れるようです。


とは言っても、中華帝国による冊封体制というのは、東アジア一帯の歴史的な国際関係を語る場合には欠かすことが出来ない大きな要因であるのは誰もが納得する事だと思っています。冊封体制に入るというのは、「漢委奴国王」や女王卑弥呼の「親魏倭王」、更には倭の五王が南朝から貰った「将軍」もこれに相当しますから、やはり中国王朝の影響力は大きなものだった事がよく分かります。そしてこのような関係は文書と印綬によって行われたのです。冊封国になれば元号も勝手に作る事は出来なかった事も付け加えられます。ちなみに冊封体制という言葉は西嶋定生先生によって唱えられた用語であるとの事です。


印鑑の使い方とは現代のそれと大きく変わるものではありません。現代行われている「文書行政」の基本形が、既に東アジア地域においては古代中国で形成されていたのですから、この文明がいかに早熟であったのかを再認識させてくれるのに十分なものを感じています。


中国における行政制度は印綬制度によって行われています。印綬というのは現代の感覚ではぴんと来ないかも知れませが、この制度を発明したからこそ広大な空間に対して行政が可能になったのです。必要は発明の母である一つの事例を見る事が出来ると思っています。つまりは地位によって各人が身分を保障する「印鑑」を持っていて、文書作成した場合にはこれを入れた封筒の封をこの印鑑で行う事をしていたのです。印鑑によって封をしてあるからこそ、文書を受け取った者にとっては、この命令書が誰からのものであるのかを知る事が出来たのです。その上、開封していないことも確認できますから、捏造されていない本物である事も相手に理解されたのです。広大な領土を効率よく支配するにはこのような「文書」の力が必用だったのです。ここで思い出すのが、劉邦が韓信の寝室に忍び込んだ時に、普段にはあり得ない素早さで「印」を奪ってこれを掲げて韓信に命令をしたというシーンです。この逸話によっても漢の時代の前の時点で「文書行政」が運用されていた社会であったことがわかります。


国内行政である印綬制度が外夷と呼ばれた地域の首長(要するに豪族)にまで拡大していった事が「冊封体制」と呼ぶべきものであるとは書いたとおりです。これは相手に「官位」を授けるということを意味しているために、相手からの「親書」が必然的に制作されるということに繋がります。更には「印綬」が相手の集団において首長の権威を保証するものであったという事になります。


中国王朝は野蛮人と勝手に判断された周辺国の首長が、使者を派遣する場合には必ずその親書を求めました。これを「表」といっています。この上表文は首長に与えられた「印」によって封印されていました。そして、文書を閉じた袋に印を押すのです、。このようにして相手が袋を手にした時に既に開封されていない事を確認したのです。要するに、どちらからの文書にしても「印」が「本物」である事を証明しているのです。文書はこのようにして正式なものであるという保証がなされました。統治するための手段である文書行政を支えていたものは「印」だったのです。漢字が漢民族ではなく全く別の言語を使用している民族に伝わった最大の原因をここに求める事が出来ると思っています。何故ならば、文書行政に組み込まれることは「漢文」が文書における共通語になるからです。


1世紀→後漢から金印(奴国が日本の代表政権については疑問あり)
2世紀→記録無し
3世紀→魏から金印(邪馬台国の場所についての論争は有名)
4世紀→記録無し(神功皇后の三韓征伐がこの時代)
5世紀→倭の五王(倭の五王の比定については諸説あり)
6世紀→記録無し
7世紀→聖徳太子の遣隋使
8世紀→遣唐使
9世紀→菅原道真の提議により遣唐使を廃止


中国大陸歴代政権との関係を、各世紀ごとに大まかに捉えると大体このようになると思います。


朝鮮半島では7世紀に唐が成立すると高句麗・百済・新羅は唐との間に冊封関係を結び、新羅による朝鮮半島の統一後も唐と冊封関係を結びました。また朝鮮半島北方に成立した渤海も唐と冊封関係を結びましたから、北東アジアの国際情勢は唐を中心とした冊封体制の中に組み込まれました。しかし、日本はこの体制の外にあって中国とは対等の隣国関係を保持しました。ちなみに唐は帰属府州の監督のために辺境には6つの都護府を設置しています。東北地域の都護府としては安東都護府を設置していますがこの所轄区域は満州と朝鮮であり日本は含まれていません。つまり日本は唐を中心とする大陸世界に属していたのではなく、アウター・ワールドに存在していたのです。