2002/5/26



聖徳太子の軌跡1


日本史上で最も有名な日本人の一人として聖徳太子の名前を挙げることに対して異論がある人はまずいないのではないかと思っています。聖徳太子とはかつて一万円札に描かれていたように誰でもが少なくとも名前だけは知っているはずの人物です。聖徳太子の名前が1300年もの長い年月を経ても埋もれるどころか現代でもこれほど有名なのは歴史上に名を残す天才だったから なのは間違いのない事実のように思っています。尤も最近の学説は聖徳太子に対する新たな視点も数多く見られるようになりましたが、奇抜な視点のみに拘ったものが多いようにも感じられています。


聖徳太子が目指したものとは一体どんなものだったのでしょうか??聖徳太子とは優れた頭脳を持った文治政治家として私たちに良く知られています。しかし果たしてそのイメージとは本当に正しいものなのでしょうか??


聖徳太子が活躍した時代に中国大陸に目を向けるとこの大陸では約4世紀ぶりに統一国家が出現する事になりました。秦の始皇帝によって初めて中国大陸に統一王朝が誕生して2000年経ちますが、この史上初の統一帝国は短命に終わってしまいました。しかしその後を受け継いだ漢帝国は前漢、後漢と分かれていますが長期安定政権としてこの大陸のスタンダードの基礎を形作ったと思っています。これは徳川幕府250年の長期安定政権が現代の私達の常識を形作っているものとよく似ているのかも知れません。


後漢滅亡後にこの大陸では何世紀にも渡る政治的混乱と分裂の時代を迎える事になります。しかし、これだけ広大な空間に統一政権があるはずだという発想の方が間違っているような気もしています。中国大陸の再統一に成功した隋は武帝時代の漢に匹敵するような強力な中央集権国家として歴史上に唐突に現れたイメージがあります。この隋という巨大国の興隆は中国大陸周辺にある様々な独立国を飲み込んでいくエネルギーを満たしていると聖徳太子には写っていたのではなかったでしょうか??これは倭国にとっても最大の脅威が現れたと言えると思います。


しかしそれだからこそ、逆説的ですがこの強大な隋帝国が聖徳太子にとって自らが目指す国家のモデルのような存在に映ったのではないかと思えるのです。あの有名な国書の表現とは自らのプライドをかけたものでしたが、それは大帝国「隋」のライバルになりたいという強烈な願望の現れとして見ることも出来ると思っています。つまりこれは日本を隋と同等の国にしなければならないという事を明らかに宣言した事でもあると思うのです。有言実行の天才である聖徳太子は言葉だけではなく先輩の大帝国隋を目指しこれに匹敵する国造りをしようとしたのが彼の人生そのものだったように思えるのです。そして憧れの先輩(=隋=先進国=欧米諸国)に追いつき追い越せという日本の伝統の始まりをここに見つけることが出来るようにも思っています。


聖徳太子は日本仏教の父と言われている程ですから極めて優れた頭脳を持っていた人物なのは明かだと思います。これは彼が仏教のテキストを作ったという事実から見て優れた学者レベルの知識を持っていた事を証明しています。そしてその知識や情報を有機的に結合して政治を行うという能力にまで優れていたのですから正に天才というべき人物だったように思います。これは彼の人物血統図がまるでサラブレッドを作り出す血統図かと見間違う事から言っても、ある意味では出現は必然の天才だったと言えるような気もしています。


聖徳太子は中央政権を目指しました。しかし彼の目指した中央集権という表現は実のところかなりオブラートに包んだものであると思っています。何故ならば聖徳太子のソフトなイメージにも拘わらず中央集権とは明治維新のような権力の一極集中を意味するものなのです。言い換えれば太子の目指したものは大王家を支えている豪族達を解体する事を意味していたのです。大王家を中心に支配体制を確立させてきた豪族連合体体制を180度転換させる意図をもった大改革とは、大化の改新に受け継がれていきますから藤原鎌足や天智天皇は聖徳太子の弟子であると言えるのかもしれません。そしてこの考えは明治になって版籍奉還で再び再現される事になります。聖徳太子の理想は1200年の時を経てようやく達成されたと言えるのかも知れません。


隋に対抗出来るように日本を強国にするためには大王を究極の存在として位置づける事が絶対に必要であると聖徳太子は判断したものと思っています。命令系統が大王から効率よく末端にまで到達させるには抵抗率を下げる必要があるからです。このようにしてロスを極限まで下げる事によって日本の国力を増加させ隋の圧力に対しても対応する事ができると判断したのではないでしょうか??このためになら豪族達の既得権と180度衝突しても仕方がない事だと判断をしたものであると思うのです。


もし隋の侵略の受け日本が滅ぶような事があれば各人が持っている既得権などあっという間に消滅してしまうものですから、大局的立場に立てば正に適切な判断だと思います。これは現代の「有事立法」議論にも似ているところがあると思います。有事立法の存在そのものに反対する人は万が一の場合には「奴隷」になる覚悟があるという事をはっきりと示して欲しいものだと思っています。


聖徳太子が組織を再構築しようとした具体的方法とは冠位十二階でした。ちなみに、冠位十二階とは日本最初の冠位制度であり聖徳太子や蘇我馬子たちが603年(=推古11年)に制定したといわれてます。これは「冠」による階位制度であり冠名は儒教の徳目を参考にして作られたようです。それらは「徳」・「仁」・「礼」・「信」・「義」・「智」とし、おのおのを大・小に分けて「大徳」・「小徳」・「大仁」・「小仁」・「大礼」・「小礼」・「大信」・「小信」・「大義」・「小義」・「大智」・「小智」の12階にしたものでした。更には冠には色分けがしてありましたので視覚的にもすぐに判別出来るようにされていたのです。これによって誰でもがすぐに分かるようにされていたのでした。各冠の色とは「紫」・「青」・「赤」・「黄」・「白」・「黒」であり、その濃淡で二分に別けてあったのです。この位は大王に対する功労によって昇進するものとされていました。


元々日本の支配階級とはその血統を示す氏(うじ)と身分の尊卑を示す姓(かばね)とを持ち、代々定まった地位を世襲してきたと言われています。太子の行ったことはこれに対する革命的意味合いを持ったものだったと思います。言い方を換えれば旧制度の破壊であり、豪族の既得権の喪失であり新たな価値基準の創設を意味していたのです。太子は隋が広大な領土を支配しているのは官僚制度のシステムにあると見抜いたのだと思います。そしてこれ取り入れて政治組織を改革する事こそが隋に抵抗しうる最上の施策だと思ったのではないでしょうか??この具体的方法として冠位十二階を定めたように思っています。冠位は氏や姓の尊卑に関わりなく個人の才能や功績に応じて授けられるものでしたから氏姓制度と異なる新しい政治機構を建設する糸口となったのです。後にこれが幾度も改定されて正一位、従一位などの位階制度となったのではないでしょうか。


冠位十二階とは言い換えれば日本版科挙の制度だったのです。ここにも聖徳太子発案の日本の歴史を見ることが出来ると思います。


※kitunoさんのHPと高坂さんのHPを参考にさせてもらいました。