2002/6/2



聖徳太子の軌跡2


冠位十二階とはそれまで続いていた従来の氏姓(うじかばね)による政治的地位の世襲による弊害??を打破するために考え出されたのではないかと言われています。倭国における古代王権による政治的ポジションとは個人の能力の有無に重点が置かれていたのではなく、どの「家」に生まれたかによって決まっていたのです。冠位十二階の革新的なところは既得権を持っていた「家」からそれを奪ってでも個人の能力の方を重視した点にあると思っています。今でこそ個人の能力を妨げるものなどありませんが、それでも何か改革を行おうとすれば必ず既得権を持つ「抵抗勢力」との抗争が相変わらず発生しているのです。


今から1300年以上も昔の社会においては身分に対する意識が現代人と比べて遙かに強固だったはずですから、この思想を受け入れるどころか理解するのも困難な常識が支配していた時代だったように思っています。当時の「日本版カースト制度」とでも言うべき身分制度の壁は私達が理解するにはあまりにも困難であるような気がしています。はっきりとした身分の差に対する意識のある状態がスタンダードであるとして生きている社会においては、例え能力があったとしてもその人の身分が低いとすれば、彼が高い地位に就く事を回りの人達が果たして納得出来たのかという根本的な疑問があるからなのです。


聖徳太子がこの改革を前半において強引に推し進める事に成功した原因とは「隋の脅威」という非常事態があったからではないかと思っています。大きな権力を持っている豪族達が自分たちの利益に反するような事に対して渋々??従ったのも、隋の脅威を彼らもまた理解する事が出来たからではないでしょうか。またそうでなくては誰も自分の利益になっている権利を手放すはずがないと思うのです。外部に強力な敵がいる場合には内部にいくら派閥があったとしても外に対しては一致団結するものです。この手法は現代でも中国や韓国などが日本をダシにしてよく使っています。うんざりするほど繰り返されるこの手法によって自国の持つ内部矛盾から目をそらさせる事に成功している点から見ても非常に効果があるものだと分かると思います。


隋の膨張政策という非常事態に対応するためには「氏姓」という限定されたソースから人材を補給するだけでは不足であり、もっと広い範囲から能力のある人材を登用して活用するべきだという積極的な太子の意図をここに明らかに感じる事が出来ると思っています。当時の氏姓による政治的地位の世襲とは江戸時代における家柄による世襲の姿をイメージしてもらえば良く理解できるように感じています。


聖徳太子がここで目指した事を具体的に言えば、明治維新を成し遂げる推進力となった長州藩で身分の低い者達を大量に採用して彼等を主体とした奇兵隊を創設した事に似ているのかも知れません。新しい事をするという事は旧制度と必ず衝突するものです。これを実践するために信長は「天下布武」の旗の元に全身全霊を賭けた戦い抜きました。また、江戸幕府15代将軍慶喜はダイナミックな対応をするには旧制度の幕府があるままでは不可能であると判断して敢えて負けを選択したのかも知れません。ですから明治時代の主役を担った者たちは成り上がり者だったために色々と江戸時代に比べて劣る点があったにも拘わらず大胆な試行錯誤をする事が出来たように思っています。


日本の権力を構成する様子とは豪族達による連立政権というものでした。この形態では確かに天皇が彼らの頂点に立っているわけですがそれは組織の効率化からではなく甲乙付け難い拮抗した豪族達の勢力間のクッションとしての役割の方が多かったようなイメージを持っています。なお、冠位十二階は太子の独創によるといわれてきましたが、近年になって百済や高句麗の制度の影響を受けて考案されたものであるとの見解が有力視されています。これはつまり隋の周辺諸国は随の国力について研究したところその根元は律令制度にあり、それを成立させているのは選挙(=科挙)制度であると見抜いていたといえるのではないでしょうか。


官僚システムがしっかりと働いているからこそ隋はあの広大な国土を効率よく統治することが出来たのです。そしてこれには優秀な官僚がいてこそシステムが働くものなのです。この認識は朝鮮半島の諸国も日本も例外ではなかったと思います。しかし、この改革の意図の実現は容易でなかったようです。実例では授与の範囲が大和朝廷構成者の一部に過ぎず、蘇我氏など有力豪族についての冠位施行にも疑問があるのです。蘇我氏は皇室とともに授与者側に立ったとみられている事からみても施行については不十分であると考えられています。


冠位十二階の神髄には「科挙」という篩が本当は必要だったのでした。ところが、日本において科挙(=帝国大学入試)は明治まで存在していませんから、隋の官僚制度を導入するにしても日本に適合した部分だけを取り入れようとしたものだと思っています。外国のいい面だけを取り入れるといった習慣は日本の特徴の一つに挙げられていますが、これもまた聖徳太子の功績と言えるのかもしれません。


聖徳太子のもうひとつの有名な「憲法十七条」とはこれが単独で存在するのではなく、冠位十二階と密接な繋がりをもったものとして捉える必要があるように思っています。つまり冠位十二階を作動させるには豪族たちの認識を改める事が必要だったというわけなのです。例えば制度が冠位十二階であるとすれば憲法十七条とはこの魂に当たるものだったと思うのです。だからこそ憲法十七条は一般に公布された訳ではなかったのです。新しい冠位制度に対する認識を十分に深めてもらうために憲法十七条は書かれたものだったのです。ですからこれ以上のことを「憲法十七条」から読みとろうとするのはもともと無理があるように思っています。勿論、この中には聖徳太子の意思が込められていますから太子の一部を感じる事が出来るのは言うまでもありません。


超大国隋による中国大陸の再統一は東アジア情勢を一転させたと想像するのは至極当然のことのように思われてきます。事実、隋は強力な大帝国としてその版図を広げつつありました。それは秦帝国や漢帝国の復活をイメージさせるに十分だったように思われてきます。これは古の超巨大帝国が現代に蘇ったというイメージだったのかも知れません。
杜子春の世界へ5(隋・唐)


統一国家の出現は朝鮮半島にも大きな緊張をもたらしたものと思われます。バランス・オブ・パワーが与える影響は古来も現代も同様の相似形をしめすものなのです。隋に対する尊敬の念と危機感は相反するもののように思われますが、それらは決して矛盾するものではなかったのです。明治になってからの欧米に対する態度はまさにこの時の再現だったように感じられるのです。


自動車に書かれている文字はアルファベットばかりですが、ここから日本が欧米人の入植によって人種的に変質したものであるという人はまずいないと思います。このように誰でも知っている事実から推測する事が古代史を再構築する時の常識として必要になると私は考えています。日本人が欧米人の言葉を日常語としていない事実は古代の事情を考察する場合に参考になると思っています。このように文物がいくら取り入れられたにしても日本語が欧米語に取って代わられたものではないという100年前に起こった事実が古代史を再構築する場合に大きな参考になるのではないかと思っています。


中国大陸からの文物の多くは朝鮮半島の人達によって「翻訳」されて伝わったルートが主流を占めていたように考えられています。遣隋使による大陸との「ダイレクト」パイプの構築は最新知識や技術の半島との時間差を解消しました。しかし朝鮮半島を飛び越えて隋と交流することは朝鮮半島の諸国にしてみれば「頭ごなし」外交のように映ったのかも知れません。このために国書紛失事件が起こった可能性を考えています。


勿論、大陸に対する半島経由のルートが閉じられた訳ではありませんでしたが、朝鮮半島というフィルターを通すが故に「本物」が変質したものになった可能性に対するこだわりもあったのかも知れません。