2002/6/22



聖徳太子の軌跡3


当時の天皇とは実は天皇ではなく大王(=おほきみ)である事を忘れてはならないと思っています。つまりこの時代の天皇とは後世の天皇とは違って正に武力を兼ね備えた存在だったのです。これは後世の武士と極めて類似した存在だったように思われます。古代において天皇家とは祭司の長でありながら現実的な軍事面の両方を兼ね備えた存在でした。ですからこれを例えるならばローマ教皇が武力を持っているようなものと言えるのかも知れません。豪族の長でもある初期の大王は自らが剣をふるい、返り血を浴びることに躊躇をしませんでした。つまり大王とは基本的には武人であったのです。歴史的にその発祥を見れば天皇家もまた「馬上で天下人になった」という普遍的な例から外れることはないのだろうと思っています。


法隆寺に展示されている聖徳太子の像をみると彼が子供の頃からいかに強力な意志に溢れていた人物だったのかをはっきりと私たちに伝えているように感じています。あの表情からは強い意思力に満ち溢れた人物である事が視覚的に強く伝わってくるはずです。ここに見えるのは「聖人」としてのマイルドなイメージに包まれた姿ではなく、気力が迸ると感じられる程に溢れた「武人」を感じるのは私だけではないと思っています。古来から言われているように聖徳太子は天才中の天才だったと私も思っています。しかしそれは頭脳ばかりを示しているのではなく肉体的にも極めて優れていたものを持っていた事を現しているように思うのです。


蘇我氏と物部氏が覇権を争った戦いにおいて数え年14歳における初陣の伝説は太子が気力ばかりではなく武人としての資質がいかに高かったのかを示しているように思っています。それはこの時に同時に出陣している他の皇子たちには聖徳太子のような伝説が伝わっていないからです。更には馬術の見事さも同様に青白い秀才ではなかった事を如実に現していると思うのです。このような姿はイギリス貴族の勇敢なイメージに重なるような気がするのは私の錯覚でしょうか??いずれにしても黒駒の騎乗ぶりについてはかなり伝説化されたところも多いと思いますが、伝説となる事実が存在していたのは間違いないように思っています。


支配階級の誇りを植え付けられて育った彼らは当然の事ながら高貴なプライドを持っていたと思います。それは後世の公家のイメージにみられるように利益だけを欲して自らは一切体を動かそうとしない陰湿なものとは決定的に違っていた筈です。誇るべき血統に恥じない行動を取る事こそが高貴な血筋を受け継いだ自分に課せられた義務であると受け取っていたように感じています。


それにしても四天王寺の延喜ばかりが伝えられていますが、馬子によって飛鳥寺が建立された事についてあまり語られていないのは不公平を感じざるを得ません。このあたりはもっと伝えられていいように思っています。やはり蘇我氏が歴史的敗者となったためにあまり取り上げられなくなったからであるのは明白だと思います。一方では四天王寺までも馬子の功績であると推論している説もあるようです。これは「馬子抹殺」とベクトルの向きは正反対であるにも拘わらず目指しているところは同じようなものと感じられます。不確実性が高い時代を考える場合には通説を最大骨格とすべきだと私は考えています。


聖徳太子が行おうとしたことはいわば豪族連合体の長から絶対王政へ変えようとする画策であり試みでした。つまり中央集権化という政治体制を目指した太子の理想は中世をこえて近代的だったと言えるのかもしれません。これこそが冠位十二階の持つ意味だと思っています。冠位十二階はそれまでファジーな関係であった各豪族達の序列をはっきりと目に見えるように示したところが画期的なものだったはずです。これは例えば軍隊や警察のように一目で階級が分かってしまう事なのです。冠の色によってはっきりとその人の地位が第三者に分かってしまうという事に対して多くの豪族達には反発があった事は想像出来ます。人間はあからさまに差をつけられる事を嫌うからです。このような心理は人間の持っている基本的感情の一つだと思います。


太子は自らが超越した立場であったために豪族達の微妙な心理を無視し過ぎたのかもしれません。しかし太子の強烈な意志はこのような個人の葛藤やジェラシーといった次元を越えたところにあったと考えられると思っています。そして内心は不満を抱きながらも豪族達が太子に従ったのは彼等もまた隋の脅威を間近に感じることが出来たからこそだと思います。彼等も国際関係の緊張が高まるのを感じて「大同のために小異を捨てた」のだろうと思うのです。


冠位十二階とは各が独立者であった豪族達を天皇家の官僚の地位に決定するものだったのではないでしょうか。これは見方を変えれば豪族の地位の地盤沈下を意味していると思います。特に多数を占める中規模豪族達にとってはこれを著しく感じられたのではないでしょうか。聖徳太子が目指したものは中央集権とは豪族の力を削ぐという面を否定する事は出来ません。これを例えるならば地元に密着して勢力を拡大してきた戦国大名を江戸時代の大名のようなものに変化させるというものなのかも知れません。江戸幕府の方針は大名達を「鉢植え大名」として彼等の力を削いでいきました。戦国時代を終わらせる事が出来たのは信長、秀吉、家康が絶対王朝を確立したからこそであるというのも聖徳太子の目指した方向が正しいものであったと証明しているように思っています。


ところで天皇家の最大の武器とは一体何でしょうか。冠位とは時代が下って官位になりました。天皇家が官位を有力者に授けて権威を付与する立場であった事により各時代の実力者は結果として天皇家の体制に組み込まれて行く事になりました。絶対的な実力者でも自らの権威を高めるために存在する者の安全は絶対に保証するからです。「勝てば官軍」と言われるように勝った者に官位を授ける「後出し方式」とは各時代の成り上がって来た実力者にとっても好都合だったように思われます。このようにして官位は天皇家の究極奥義へと進化していく事になるのです。この発祥は聖徳太子が始めた冠位十二階に辿り着くのではないでしょうか。これによって天皇家は永続出来たといえるのですから正に天皇家にとっても聖徳太子は聖人そものなのです。