2005/08/16
靖国神社に関する諸問題について書かれた本は多いのですが、渡部昇一先生が書かれた下記の文章は読んだ人を暖かい気持ちで包み込むような秀文だと感じています。よって一部ですが、ここに紹介をします。
靖国神社については、我々は子供の時から日本のために身を捧げた人達の霊を祀るという、極めて普通の発想で考えてきた。国全体をみれば、各地方に護国神社(かつては招魂社)があり、日本全体の戦没者を祀る靖国神社があるという構図になっている。重要な点は、戦争で死者の霊を祀るとき、日本ではどうしても社(やしろ)、神社の形をとらざるをえないということである。仏教には宗派がある。例えは天台宗と日蓮宗では儀式が異なるし、どうしても宗派を意識せざるをえない。神社なら、宗派を意識しないで済むのである。従って、村や町といった地方共同体、あるいは日本全体で戦死された方、日本のために亡くなられた方を神社でお祀りすれば、慰霊・追悼の儀式には、宗派的発想にとらわれずに共同体の構成出全員が参加できる。共同体で祀るときには神社、そして個々の家で祀るときは、夫それぞれの菩提寺の宗派に従えばよいわけである。私の家庭で言えば、父系ならば天台宗、母系なら曹洞宗で祀り、戦死者はさらに護国神社、靖国神社で祀られることになる。
日本に長くいた外国人もこの点は認識していた。ダグラス・マッカーサーがGHQ(日本占領連合国軍総司令部)として日本に進駐した当初、靖国神社は焼却し、境内をドッグレース場など遊戯施設にすることも計画されていた。ところが、焼却の是非を諮問された上智大学教授(元上智学院院長)のブルーノ・ビッター神父は、「いかなる国も、その国家のために死んだ人々に対して、敬意を払う椎利と義務がある。戦死若の霊を祀る宗教的施設はどの国にもあり、日本に靖国神社があっても差し支えないし、ないほうがおかしい」と焼却に反対した。それでマッカーサーも納得し、靖国神社の存続が決まったのである。
バチカンの代理公使も務めていたビッター神父は昭和9年から日本に滞在し、神社が果たしていた社会的役割を認識していた。神道には宗教的ドグマがない。あるのは死者に対する慰霊と尊敬、尊崇の念である。ビッター神父は、国が靖国神社で戦没者を祀るのであれば、カトリックをはじめ、いかなる宗教の信者であろうと受け入れらると考えたのであろう。それで戦死者の遺骨が帰ってきたときには、仏教徒であれはそれぞれの家の宗派で葬式を行い、カトリック信者であればミサをひらけばよいのである。これが、日本の宗教事情をよく知る人の自然な発想なのである。靖国神社の存続をマッカーサーに求めた際、自らの宗派的感情にとらわれなかった故ビッター教授に感謝しなければならない。
さらに言えば、マッカーサーの意向で制定された日本国憲法では、天皇は国民の統合の象徴とされている。統合の象徴である天皇の宗教は神道であり、統合の象徴が日本のために戦って死んだ人に札を尽くそうとすれば、神事で行うのが憲法の理念にも最も合致する形式なのである。事実、占領下であっても、天皇陛下も歴代首相も何の支障もなく靖国神社に参拝してこられた。
ところが、だんだんおかしくなっていった。この「だんだんおかしくなる」というところが、戦後日本の特徴である。一例を挙げておきたい。
戦争に負けた直後は、どこの国でも元首は身の危険を強く感じるものだ。第一次大戦で負けたドイツの皇帝ウィルヘルム二世も、敗戦直前に身の危険を惑じてオランダに逃げた。これに対して、昭和天皇は敗戦直前の混乱した世情の中で日本中を巡幸され、戦災からの復興に励む国民を勇気付けられたのである。私の郷里の山形県鶴岡市にも、昭和22年頃だったと思うが、陛下がお見えになった。ここからは私事になるか、友人たちと川で泳いでいたところ、土手の向こうに黒塗りの立派な車が3、4台現れ、「なんだ、あの車は?あっ、きょうは天皇陛下が来られるんだった」と騒ぎになった。それで急いで土手をのぼり、橋を渡ってくる天皇陛下の車に触って感激したことをはっきりと覚えている。もちろん降下のお体には触れなかったが、触ろうと思えば軸れたのではないかという記憶すらある。車はゆっくり走っていたし、陛下と私たちとを隔てる警備もなかった。このことは、陛下と陛下を敬愛していた当時の国民の関係を如実に物語っていると思うのだが、同じ昭和天皇の大喪の礼が常まれた際の警備の大仰さはどうであったか。葬送の車列は物々しい警備陣に囲まれ、実際に妨害する者まで現れた。敗戦後の巡幸から40年が経つ間に、日本はここまでおかしな国に変わり果ててしまった。
靖国神社についても同じことが言える。終戦直後は外国人もその存在を守ってくれた。占領下であっても、天皇陛下も首相も参拝できた。ところが、三木武夫首相のころから公人の資格で参拝するのか、あろいは私人の資格かという議論が出てきた。三木首相はそれでも、「私人の資格」といいながらも参拝した。しかし、中曽根康弘首相は、「兄弟分」である中国の政治家の立場が思くなるという理由で昭和60年8月15日に初めて行った公式参拝を翌年には取りやめてしまった。公式参拝を続ければ当時総書記だった胡燿邦の立場が悪くなる。中国の政権闘争に利用されかねなかったと『正論』(平成13年9月号)のインタビューに答えているが、これでは本末転倒である。さらに、一回限りで止めてしまったことが禍根を残した。その後、8月15日の首相参拝は不可能となり、橋本龍太郎氏は首相就任にあたって日本遺族会会長を辞任までした。会長職にあると参拝しなければならないからである。小泉首相も昨年、「いかなる反対があろうとも8月15日に参拝する」と明確に公約しながら、最終的には国際的な圧力への配慮から終戦記念日には参拝できなかった。
そして遂には、靖国神社が浄土真宗大谷派の僧侶や韓国人たちに訴えられるという頓々痴気なことまで起きた。この裁判については『正論』7月号で、弁護士の徳永信一氏が詳しく報出している。徳永論丈によれば、靖国神社を訴えた原告は、戦争で亡くなった被らの家族らか靖国神社に祀られていることで、宗教的人格権、従軍韓国・朝鮮人戦没者遺族の民族的人格、宗教的自己決定椎が侵害されていると主張している。さらに「靖国神社は血塗られた天皇の祭壇」「靖国神社はいったいどんな顕現があって、私たちの肉親を死んでまで強制連行し続けるのか」と、理不尽なことを言っている。
シーボルトが死んだとき、シーボルトを尊敬した日本の漢方医で自宅の庭にシーボルト神社を造った人がいる。一体、シーボルトの遺族が、「私の父親の宗教的人格権を侵す」と言ったであろうか。言うはずもない。
論文によれば、徳永弁護士たちは、民事訴訟法第42条の、「訴訟の結果について、利害関係を有する第三者は当時者の一方を補助するために、その訴訟に参加することをできる」という規定に基づき、靖国神社を応援するため訴訟に補助参加したという。その戦略は、「宗教的人格権ないし民族的人格権が法的利益でないとすれば、(徳永弁護士らの)補助参加は計されないけれども、同じ権利を理由とする原告の裁判が実際に維持され、靖国神社が法廷に引っ振り出されている。従って補助参加も許されるはずで、英霊たちの遺族、友人が靖国神社に対する思いを法廷で主張していく。もし補助参加が計されないなら、自動的に原告側の訴えも無効だ」というものである。これは論理的にも優れた戦略であるが、しかし、このような訴訟が提訴されること自体がグロテスクなのである。
これほど異様なことは、どこの世界にもない。もはや、単なる論理の筋道だけではこの事態を理解することは不可能である。比喩が必要だろう。
症状が現れる度に、グロテスク度を増していく病気がある。梅毒である。梅毒に罹ると、まず湿疹のようなものが現れる。しかし、治療をしてもしなくても、その湿疹はいったん消える。ところが次に発症したとさはずっと悪性になっている。それでもまた引っ込む。そんなことを繰り返しているうちに、鼻が欠けたりする。そして、遂には脳が侵されて痴呆症となる。日本の戦後のグロテスクな現象は、この梅毒の症状と似ているのである。
例えば国からも給与が支払われているにも拘らず、国旗掲揚に反対して卒業式への出席や起立を拒否し、国歌を子供たちに教えない、斉唱させない公立学校の教員たち。国家主権を守る気概がまったくない在外外交機関。おかしな事が多すぎる。それぞれのケースを皮膚病に例えて考えてみると、別個の病気ではない。一つひとつの皮膚病なら、皮膚の治療薬を塗れば治るが、梅毒性の場合は対症療法では根治しないのである。だから次々と発症するし、そのたびにグロテスクさが増すのである。
日本を毒する梅毒の病原菌に相当するものは何か。それは、束京裁判しかあり得ない。日本が侵略国家であると烙印を押し、戦争犯罪人を仕立て上げた。これが梅毒の根である。このために中国や韓国がA級戦犯が合祀されている靖国神社は許せないと抗議し、それを受けて靖国神社に代わる戦没者迫悼・慰霊施設を、あろうことか国が造ろうかという議論が出てくる。
現在、「戦犯が合祀されている施設だからけしからん」と非難する国は韓国と中国しかない。5月31日に横田空軍基地の幹部将校(将校会)が在日米軍の部隊・団体として初めて靖国神社を参拝し、注日を集めた。しかし、それ以前にも大勢の米軍将兵が個人で参拝しており、平成13年8月18日には在日米軍太平洋軍司令官が昇殿している。他の国の軍人や外交官も参拝しており、戦後だけでもこうした要人の参拝は約350件にものぼっている。小堀桂一郎・明星大学教授も指摘しているが、日本と戦争した国は靖国紳社を決して非難していない。韓国は当時日本の植民地であったし、中国共産党軍はほとんど戦争に参加していない。多くは蒋介石軍だった。結局、中国や韓国は、日本がよろめくから干渉するのである。
そこで、東京裁判はいかなる裁判であったかを考えると、この梅毒にも治療薬があることが分かる。東京裁判は、英語では"The
International Military Tooribunal for Far East"(極東に対する国際軍事裁判)と称している。だから、国際法に基づいた裁判だと誤解する人もいるが、判事の顔ぶれを見るだけでも国際法に某づいていないことが分かる。判事は全員が戦争当事国の人間であり、中立国の判事は一人もいない。
東京裁判の冒頭において、日本の清瀬一郎弁護人が鋭い質問をしている。「この裁判のジュリスディクションはなんであるか」。「ジュリスディクション」は裁判権とも、裁判管轄権とも訳される。要するに清瀬弁護人は、どういう根拠で行われているのか、国際法に基いているのか、それともアメリカの国内法なのかと質したのである。これに対して、ウェッブ裁判長は答えることができなかった。「後で述べる」と言ったまま、ついに裁判が終わるまで、これについては沈黙を通した。もともとジュリスディクションは存在しないのであるから、明らかにできないのは当然である。
束京裁判は、国際法とはまったく関係がない。と言ってアメリカの裁判権に属するものでもなければ、中国の裁判権でもないし、ソ連の裁判権でも、どこの国の戯判権でもない。強いてあったとすれば、それはマッカーサー司令部の参謀本部がつくった東京裁判規定・方針くらいのものであろう。一般的な意味でのジュリスディクションは存在せず、GHQの占領行政として東京裁判は行われたのである。ところがその後、非常に興味深い、しかし絶対に看過できないことが起きた。マッカーサー白身が朝鮮戦争の後、日本側の主張がことごとく正しかったことに気づいたのである。彼は、日本が質の悪い侵略国だと思っていたが、朝鮮半島で国連軍司令官として、スターリンや毛沢東の支持を得て南に侵攻した金日成と戦わざるを得なくなったとき、明治以来の日本がとってきた国際戦略の意味がようやく分かったのだ。朝鮮戦争で連合軍(韓国・国連軍)はやっとのことで北朝鮮軍を鴨緑江の外に追いやった。しかし、満州に逃げ込んだ北朝鮮軍をどうすることもできなかった。満州には、ソ連から大量の武器や物資が投入され、毛沢東も続々と兵隊を送ってきた。敵はいつでも反攻できる態勢を伴えつつあるのに、それを黙って見ているしかなかった。マッカーサーは満州を爆撃し、東シナ海の港を全部封鎖しなければならないという結論に達したのだが、第三次世界大戦になる恐れもあるとしてトルーマンに拒否され、極東におけるすべての要職を解任された。
そのうち、マッカーサーの言った通り、連合軍が押し返されてソウルが再び陥されそうになった。それで原爆戦になるかという話になって、ようやく停戦ラインが引かれた。解任されて本国に呼び戻されたマッカーサーが1951年5月3日に重大な証言をした。しかも、上院軍事外交委員会というアメリカの軍事と外交の最も公的な場で行ったのである。マッカーサーは、東アジアのさまざまな事情を述べ、5月3日にはこう言っている。「この前の戦争に日本が訪い込まれたのは、主としてセキュリティのためであった」
セキュリティをどう訳すか。自衛と訳してもいいし、安全保障と言ってもいい。生物学的な意味を含めて、私は生存と訳してもいいと思う。いずれにせよマッカーサーは、日本が戦争したのは、侵略のためではなかったと述べて、侵略戦争を公の場で否定したのであろ。さきの戦争を日本の侵略戦争と断じ、戦争犯罪人をつくったのは東京裁判である。前に述べたように、束京裁判には一般的な意味での法的根拠はなく、マッカーサーの命令で行われていた。そのマッカーサー白身が判決の根本的理論を否定したのであるから、判決そのものが無効になるのである。本来なら、日本人にとってこれほど喜ばしい情報はなかったはずである。
ところが当時、日本のマスコミがマッーサー証言を報道した形跡がまったくない。朝日新聞の縮刷版をみても、マッカーサーの証言は載っているが、肝心の部分はない。朝日新聞に「なぜ報道しなかったか?」と問えば、おそらく「当時はまだ占領下だったから、そんなものは載せられなかった」と弁解するであろうが、掲載は可能だったはずだ。公の場でマッカーサーが証言したことは、否定できない事実である。公文書、速記録には残っているはずであるし、ニューヨーク・タイムズにも全文が報じられている。私は、マッカーサーが重大な証言をしていた、ということはうすうす知っていたが、なかなか原文が手に入らなかった。当時はまだインターネットもなかったので、小堀教授に「マッカーサー証言の原文を取り寄せてもらう方法はないだろうか」と相談した。小堀教授は「私も非常に重要だと思う」と協力を約して、ニューヨーク・タイムズの記事を探してくれた。私はさっそく原文も引用して、5、6年前に雑誌に書き、講演でも何度も言及した。ラジオでも紹介した。しかし、まったく反応がない。これほど重要な事実に反論すらもなかった。ニューヨーク・タイムズのコピーをその読者に送ったら、それっきりになった。それで納得したのであろう。
これだけ重要な事実について、マスコミから反応がないのはなせか。最近、なるほどと思ったことがある。猪瀬直樹氏が井伏鱒二氏の剽窃を暴いた。『黒い雨』という井伏氏の小説は、ほとんど全編が広島原爆の被爆者の手記からの引用であった。「原文を返してくれ」と言われたとき、井伏氏は「なくなった」と言ったという。ところが、手記の写しがあって剽窃が分かってしまった。『山淑魚』もロシアに原本とみられるものがあった。『さよならだけが人生だ』という有名な漢詩の翻訳も江戸時代の訳があったと暴露されてしまった。文化勲草受賞作家である井伏氏が剽窃家であったというのは一級のニュースであろう。ところが、どの文芸雑誌も収り上げていない。理由は考えてみれば当然であって、有名な作者の重要な作品群が軒並み剽窃であることが明るみになれば、勲草を授けた人の面子もないし、推薦者の面子もない。それを掲載した雑誌も出版社も、教科書にまで掲載されているので教科書も面子がなくなる。みんな困ったことになる。だから、黙ってしまった。それで、この状況に義憤を感じた谷沢永一氏が、「Voice」誌で意見を発表した。それでも反応はほとんどなかった。
雑誌や出版社の姿勢は、やはり自分たちの立場を根こそぎなくするような記事は出せない、出さないということなのだ。同様に、「日本は侵略国家であった」「戦争犯罪人がいた」という戦後の"常識"を、マッカーサーが公の場で事実上取り消していたことを日本人が広く認識すれば、近代史に関して書かれた本は紙屑同然になる。朝日新聞の戦後史に関する記事、近現代史を扱った岩波新書も全て紙屑になる。大学で教えている入たちも文化人も立場がなくなる。日教組の教えを忠実に教室で生徒に教えてきた教員たちもそうだ。政治家も野党は全員の立場がなくなる。自民党ですらも、過半数の人は立場がない。
小泉首相もなくなる。8月13日に参拝した後の談話で「アジアに迷惑かけました」と言って、靖国神社に祀られた人は侵略戦争に加担していたので、代わりに私が謝罪する、という話にしてしまった。だから、首相も立場がなくなる。日本の重要な人の立場がどれもなくなるのである。これは井伏氏の剽窃のレべルではない。全マスコミが沈黙するのも当然であろう。胸を張って報道できるのは、産経新聞と『正論』、『諸君!』くらいである。
今浮上している靖国神社の代替施設、戦没者追悼・平和祈念施設構想の問題だけを俎上に載せても、これは梅毒から発症する皮膚病なのだから、やはり梅毒そのものを治療しなければならない。しかし、梅毒であることははっきり分かり、100パーセント治療する薬も分かっているのだから、あとは、この薬の存在を国民に知らせればいいわけである。そこで、私は3つのことを提案したい。
第一は、NHKで「マッカーサーはそのときこう語った」と放送してもらうこと。それも一時間番組で、『そのとき歴史は動いた』式でもよい、放送してもらいたい。マッカーサーはフィリピンで日本軍に負けて、日本憎しで進駐した。日本は文明国ではなく、野蛮な国ぐらいに思っていたであろう。ところが、反米テロはほとんど起こらず、どこの国にも負けず劣らず文明的であることを理解した。さらには朝鮮戦争で東京裁判での日本の弁護側の主張が正しかったことを悟った。そして、マッカーサーの言い分は、戦前の日本の軍部の主張とまったく同じになったのである。そのためにトルーマンに解任にされて、本国に呼び戻され、上院の軍事外交委出会で証言を求められると、「日本が戦争をしたのは自衛のためであった」と侵略性を否定した。実にドラマチックな一時間ドラマができるであろう。
祝聴率が5%としても数百万人が見るわけで、NHKの全国ネットで視聴者の多いゴールデンタイムなどの時間帯に放送すれば、五百万から千万人が見るかもしれない。そうすると、番組をフォローしたことを書く人が出るし、民放も放送する。あっという間に情勢が変わる可能性がある。私は、「マッカーサー証言をNHKの一時間番組で紹介してもらおう」という呼びかけを国民運動の一つの柱にしたいと考えている。
第二は、4月28日を日本の独立回復記念日と定めることである。昭和27年のこの日に講和条約が発効している。毎年4月28日を祝日とすれば、大型連体が長くなるという効果もある。学校が休みになれば、子供たちが「きょうは何の日?」と関心を持ち、日本が独立を回復した日であることを知る。「独立回復したというと、独立してない時期があったの?」「終戦後に占領されていた時期があった」と教えることもできる。ただ大切なのは、独立回復記念日の制定は、日本が占領され主権を失っていた時期があったということを全国民に明確に白覚してもらうということである。記念日の名称は、「独立記念日」ではなく、「独立回復記念日」としなければならない。
第三が締めくくりで、日本には主権を失っていた約6年半という時期があったことをしっかりと白覚したうえで、占領期の法律はすべて本質的に無効であると宣言することである。主権がなかった時代は、大方の日本人は日木国内にいたので自覚されなかったかもしれないが、外国に大使館を置くこともできなかったし、GHQの命令か許可、あるいは承認を得なければ、一つの法律も制定することができなかった。従って、独立回復以前に作られた法律で日本の主権に基づくものは一つもない。憲法は日本の主権の発動で制定された体裁が整えられているけれども、主権がないときに主権が発動されることはありえない。なによりの証拠は、憲法があり、刑法もあった時代に、そうした法律に基づかない東京裁判によって日本国内で日本人が死刑に処せられたという事実であろう。従って憲法制定が主権の発動だと言うことは絶対にできない。当時の日本には憲法の上位にくる法律があった。
憲法や教育基本法をはじめ占領時代にできた法律はすべて本質的に無効である、と宣言すべきなのである。もちろん、本質的に無効ということであって、明日からただちに無法状態になるわけではない。全て作り替えなければならないと宣言したうえで、偶然優れた法律があれば検討して、優れた法律だとして残せばよい。憲法も含めて検討し直すことが必要であり、よければ残すだけの話である。これは、決して例のないことを言っているのではない。どこの国も独立を回復すれば、それまでの法律を無効にするのである。明治維新が起きて、徳川時代の掟は本質的に全部無効になった。フランス革命でアンシャンレジームの法律は無効になり、アメリカが独立してイギリス時代の法律は無効になった。韓国が日本の手を離れれば、日韓合併時代の法律は無効になる。ナチスに占領されていた時代のフランスの法律、ヴィシー政権の政令はナチスが退いてド・ゴールが復帰して全て無効になった。無効にしなかったのは、戦後の日本だけである。
日本は当時の政治家を含めて、独立の回復を重要なことと感じていなかったとしか思えない。私の知る限りでは、ただお一人、昭和天皇だけが、はっきりと重要性を理解していらっしゃった。昭和天皇は独立が回復した際、和歌を詠まれて靖国神社と明治神宮に参拝されている。
「風さゆる/み冬は過ぎてまちにまちし/八重桜咲く春となりけり」
その時詠まれた和歌の一首である。
大日本帝国という世界の三大海軍国の一つであったころから元首であられた天皇陛下にしてみれば、主権がない時代の日本は冷たい風で身も心も縮こまるような冬だとお感じだったのであろう。それが独立を回復した。待ちに待って、普通の桜よりも開花が遅い八重桜が咲いて、ようやく春が来たとお喜びを表された。靖国神社と明治神宮に参拝された際のお気持ちは、お伺いしなければ分からないことだが、推測はできる。明治神宮では、せっかくお祖父様がつくってくれた高貴ある大日本帝国を敗戦に導き、占領されてしまった。誠に申し訳なかったけれども、幸いにして独立回復しました、とご報告になったのであろう。靖国神社では、せっかく皆さんが命を捧げて戦ってくれたのに戦争に負け、占領されていたけれども、ようやく独立を回復しました、霊よ、英霊よ、安らかに眠ってくださいと、こういう思いでいらっしゃったはずである。
ところが、独立を回復して昭和天皇と同じように靖国神社、明治神宮を公式参拝した政治家は、一人もいなかった。私的には吉田首相が参拝している。孫の麻生太郎氏が吉田首相に連れられて、やはり靖国神社と明治神宮に行ったそうである。しかし、総理大臣として参拝したのではなかった。なぜ、総理大臣として参拝できなかったのか。独立回復に反対意見が多かったからである。
当時の社会党や共産党、進歩的文化人もそろって反対していた。「全面講話」すべきであると。全面講話とは、ソ連が加わった全世界の国と講話条約を締結すべきだという主張である。言葉だけ聞くと筋が通ってはいるが、冷戦で朝鮮半島で戦争しているときに、アメリカとソ連が同じ講話のテーブルにつくことはあり得なかった。「全面講和」とは、「ゴネろ。反対しろ」というスターリンの指令を受けた主張であったことは明らかである。従って、全面識和を唱えるということは独立に反対することと同義であった。もし全面講和という選択肢をとっていれば、いまも日本はアメリカに占領されているはずである。ロシア、すなわち旧ソ連と日本は、いまだに講話条約を結んでいない。しかし、当時の社会党や共産党だけではなく、朝日新聞、岩波書店、文化人がこぞって「全面誌和だ」と主張していたときに、あえて「単独講話」に踏み切った吉田首相は評価されるべきである。単独講和といっても実際はほぼ全ての国と講話する絶対多数講和だったが、それでも当時の文化人で「全面講話とは占領継続だ」と指摘したのは、慶応大学の小泉信三塾長ぐらいである。
本来、占領されている国が講話条約を締結する、独立させてやるぞと言われて反対することはあり得ず、私は共産党も社会党も国賊だと思うが、いずれにせよ、「全面講話」を叫ぶ勢力が当時は強かったため、靖国神社に公式参拝して、国民的に祝うことはできなかったのかも知れない。しかし、私は公式参拝するべきだったと思う。同時に、独立回復したから、今までの法律はすべて無効にしようとまで宣言していたら、さらに評価できた。だから、占領時代の法律は憲法も含めて、本質的に無効という宣言をする人がいればよいのである。そんな大それたことは不可能だと言う人がいるかもしれないが、憲法改正よりは容易である。憲法は「改正」と言っただけでマッカーサーの罠にはまり込むことになる。憲法は本質的には占領政策として制定されたのであり、その改正条項に従って改正するということ自体が、憲法の有効性を認めていることになるのだ。憲法は、その有効性を明碓に否定する必要がある。
そして、思い切ったことというのは、実は意外に簡単にできるものだ。そう考えるのは、今から6、7年前に私がスイスにある調査のために行っていたころ、相続税がなくなったからである。当時、相続税をゼロにする、あるいは減税することなど日本では夢にも考えられなかった。驚いてスイス人に理由を尋ねたら、むしろキョトンとされた。「親は税金払ってきたし、その親が死んだら、また税金とられるのはおかしいじゃないか」とシンプルに考える議員が過半数いる、というだけのことだった。今の日本で、「主権がない時代の法律が有効というのはおかしい、無効だ」という信念を持つ議員が過半数を占めるだけでよい。衆議院では自民党はすでに過半数であるから、そのことを言える首相が生まれれば可能になる。それを言える人、例えば石原慎太郎都知事が首相になって宣言さえすれば、たとえ宣言しただけで退任しても、日本が戦後に罹患した梅毒は瞬時にして根治するであろう。
これ以外に、靖国の問題を解決する方法はないし、今回の迫悼施設構想に反対しても枝葉末節で対症療法に避ぎない。また新たな症状が現れ、さらにグロテスクになっている。この梅毒さえ治療できれば、われわれは靖国神社に対して、日本のために死んでくれた英霊に対して感謝の気持ち、慰霊の気持ちを素直に表すことができるようになる。
歌人、三井甲之は昭和2年にこんな和歌を詠んだ。
「ますらをの/悲しきいのち/積み重ね護る/大和島根を」
靖国神社に対する日本人本来の心情を表した秀歌は数多くあるけれども、私はこの歌に尽きると思う。死んだ人はみんな大切な命であった。かなしき命である。それを失うことを無数に積み重ねして、日本という国を護ってきた。こういう気持ち、感謝と慰霊の心情を全国民が共有できれば、総理大臣や閣僚らの靖国神社参拝が憲法違反だとか宗派がどうしたとか、無意味な議論をすることはいっさい必要がなくなるはずである。