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杜子春の世界へ1(隋の成立から唐初期について)


隋とは後漢が滅亡して以来、長らく分裂状態にあった中国大陸を再統一した王朝として有名です。また聖徳太子が隋の煬帝に国書を送ったこともあまりにも有名な出来事です。このような点からも隋という国は私たちにとっても非情になじみが深い中国の王朝の一つに挙げる事が出来ると思います。


隋の楊堅(=高祖文帝)は北朝である北周の外戚として力を振るい、ついに自分の外孫にあたる静帝に禅譲をさせ自らが皇帝の座に座り隋を建国しました。南北朝時代において鮮卑系を中心とする北朝は質実剛健の気風を持っていました。これは北方系と呼ばれる民族に共通するものなのかもしれません。この気風があるからこそ武力の充実を図れたのだと思います。強力な兵力を持つための根源は国力の充実にあります。それは均田制により農業が奨励された事に依っています。農業生産が増大したことにより経済が発達し国力の増加につながったのです。


ところで均田制と言えば北魏の孝文帝が創始者として歴史的に有名です。この制度とは土地公有の原則のもとに耕地を耕作者(農民)に均分して使用権を保障しようとしたものです。そしてこれは北朝の諸王朝に継受されて行きました。後漢末の頃には各地で豪族達への土地集中がかなり進んだために彼らは貴族階級を構成していくことになります。一方では農地を失った農民は各地を流浪するか豪族の奴隷になるしか道は残されていませんでした。このような状態が進行していく事は租税負担者の減少そのものを意味していました。すなわち国家にとっては存亡に関わる死活問題そのものだったのです。この危機的状況を打開する手段として均田制が考え出されたのではないかと思います。


均田制は隋・唐の時代に農民への口分田・永業田の支給、ならびにその代償としての租・調・庸・兵役などの徴収システムとして中国全土に貫徹しました。そしてこれを参考にして日本では班田収授法が作られる事になります。


隋王朝家である楊家が有力になったのは楊堅(=高祖文帝)の父親である楊忠が北周開国の功臣の一人であり、北周十二大将軍の中の一人として活躍して随国公に封ぜられてからです。楊堅は父親の権威により八柱国の一つである鮮卑系の名門貴族である独孤信の娘と結婚しました。二人の間に生まれた娘は北周皇帝宣帝の皇后となり静帝を生む事になります。また楊家一族の子弟も鮮卑系の名門と婚姻関係を結んだと言われています。


楊家は外戚としてその勢力を強めていきました。579年にわずか八歳の静帝が即位すると楊堅は政権を独占しました。これに対して反抗運動が起こりましたがそれらはいずれも鎮圧されました。この時楊堅は北周王室の諸王を次々と殺していきました。こうして北周皇帝家を孤立させて581年に十歳の静帝から禅譲されて帝位についたのでした。この時に随から隋へと国号を代えたと言われています。(別説あり)


隋はさらに589年に南朝の陳を滅ぼしました。文帝はついに長年分裂状態にあった中国の再統一に成功したのでした。



※参考
  南 朝
  宋(420〜479)→斉(479〜502)→梁(502〜557)→陳(557〜589)
  北 朝
  北魏(386〜534)─┬─→東魏(534〜550)→北斉(550〜577)
              └─→西魏(534〜556)→北周(556〜581)