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杜子春の世界へ2(隋の成立から唐初期について)


強い国家権力を維持し中央集権を行うに為には人口の大多数を占める農民の直接支配が絶対に必要であると隋の文帝は考えたのでしょうか。彼は古来から北朝で行われてきた諸制度を整理してその運用によって統一事業を遂行して行きました。律令については北斉の制を基礎として開皇律令、大業律令と発令していきました。また官制では中央に向書・門下・内史・秘書・内侍の五省を設けて全国の統治の機関としたのです。律令の成文法を基礎とする中央集権的な国家とは国家試験である選挙(科挙)によって採用された儒教的文学的な教養を身につけた高級官僚の手によって運営されるべきであると考えたのかも知れません。そして文帝はこの整備した国家行政組織をうごかすべき人物でした。


さらに地方政治組織の簡素化をも行いました。郡を止めて県を州に直属させたのです。その上、州の知事である刺史の持っていた兵権を奪って西魏に始まる府兵制を実施したのです。漢朝以来、州官にはその地方の名門や豪族出身者が就任する伝統が出来上がっていました。これは中央派遣の長官と地方有力者の妥協の産物でもありました。中央集権化を目指す文帝は郷官と呼ばれていたこの各地の州官を廃止して州、県に属する官吏を中央からの任命に一元化しました。しかしながら、なかなかその目的は達せられなかったとも言われています。


いずれにしても、このように律令を定めて官制・兵制を整えて今までは華北の地だけで行われてきた均田制を全国に広めたのでした。この均田制を全国で実施するために隣保制度を整備し戸籍簿の総点検という大規模な戸籍調査を行いました。こうして均田制の強化を図ったのです。


均田制の実施について忘れてならない事に奴婢への給田を止め官位に応じて永業田を与えた事が挙げられます。これは貴族、豪族達が隋王朝に対立する傾向を排除するために行われたものでした。多くの奴婢を持つ大地主である貴族・豪族達は従来の権威を保って大土地所有を合法的なものにするには隋に仕えて官吏となる事が必要になりました。これは彼らを隋朝支配下の官僚とし体制内に取り込む事を意味していました。


この政策が押し進められた結果として戸口や耕地面積は驚異的に増加して行ったのです。文帝が全国を統一した当初は360万戸でしたが晩年には890万戸にまで増加したのです。人口は4600万ほどになりこれは後漢時代の人口に戻ったことを意味します。つまりいままで国家の支配から逃れていた私的奴隷までも隋朝は把握できた事になります。


郡の廃止という地方政治機構の簡略化(地方制度の改革)は非常に大きな経費節減につながりました。均田制の実施によって租税収入は増加し、逆に支出は経費節減によって減少したのです。こうして国家財政は充実していきました。このためついに減税措置までも採られるようになります。いかに隋の文帝統治期が中国歴史上において画期的な事だったのかを如実に表していると思います。減税措置に伴って兵役や徭役も軽減されました。そのためにますます農民の生活が安定し生産増加につながっていくのです。


また官吏の登用の為に選挙の制(科挙)を定めた事は中国史においてとてつもなく大きな意味を持っていると思います。(日本の近代にとっても)これらは隋の国家権力を国内に徹底させることを目標に制定されました。このようにして中央権力が確立されその機構は唐にも引き継がれて行きます。そしてこの組織は清朝に至るまで1300年間の長きにわたって中国王朝国家の政治体制として生き残るのです。


しかし中国史上黄金期を創出させた文帝統治期においても均田制を強行させた事に対して山東豪族や江南豪族の抵抗が強くあった事が歴史に残されています。特に江南地方での反乱は何度も行われました。この地域は漢人の移住した地域でしたから民族的な意識が強かったのかも知れません。もしくは豪族の勢力がかなり強く一種の独立地方政権的色彩があったのかも知れません。