2000/8/21
訂正8/31



杜子春の世界へ11(神仙世界)


よりよい状態へと自らの属する環境を変革していこうとする努力は人間の本性に根ざしているとされています。このような現実に即した相対的な欲求の他に人間の内部には至福や至善の生活への憧れがあります。これは時代によって様々な表現が採られています。このような理想郷への憧れは人類の歴史の始まりとともに存在すると言えるほど古いものなのです。何故ならば私たちはこれを神話や伝説という極めて古い記憶(記録??)の中に見つけることが出来るからです。


例えば中国には桃源郷や蓬莱山の伝説があります。桃源郷とは中国の(日本でも)理想郷の代名詞として使われているほど有名な言葉になっています。陶淵明によれば、ある時漁夫が偶然に迷い込んだところであり、熱烈な歓待を受けた場所とされています。この場所とは地続きであるにもかかわらず何処にあるのか誰も分からない所のようです??この話は浦島太郎の話しに酷似していると思っています。おとぎ話の原型の一つなのかも知れません。蓬莱山、方丈山、瀛州山と呼ばれる三山は仙人の住む神山を意味しています。その位置は東方の遙か海上にあるとされていました。そして三神山には仙人が作った不死の仙薬があると言われていたのです。秦の始皇帝や漢の武帝など権力の頂点に立った者がこれを信じてしきりに仙薬を求めました。勿論この試みは失敗に終わっています。有名な徐福伝説はこの時に生まれたものです。


ギリシア神話やローマ神話ではヘスペリデスの園やエリュシオンと呼ばれる場所がそれに相当しています。ヘスペリデスとはギリシア神話の宵の明星ヘスペロスの娘たちのことを意味しています。彼女たちは西の涯にあるヘスペリデスの園に住んでいるとされています。ここにはガイアがゼウスとヘラの結婚祝いに贈ったとされる黄金のリンゴがなる木があって竜ラドンと一緒にこれを守っているのです。また、エリュシオンとは大河オケアノス(=オーシャン=大洋)の流れのさらに西端にあるとされている楽園=天国??のことです。英雄や義人たちは死後この地に住んだとされています。


ユダヤ教における「エデンの園」もまた同じようなものだと思っています。さらには北ヨーロッパ神話におけるアスガルドや色々な神話の中で語られている「天国」や「楽園」なども同様に見ることが出来るのではないでしょうか。これらはそれぞれの民族の願望そのものでありながらかつ具体的に表現された理想郷なのです。楽土信仰を持たない民族は世界中に例がないようですからこれは人類にとって普遍的な思想の一種なのかも知れません。


日本では「常世の国」と考えられた世界こそがユートピアであると信じられていました。常陸風土記には「常陸国」こそが「常世の国」ではないかと書かれています。この「常世国思想」が将来的には浄土思想と習合していくのかも知れません。ユートピアとは人類の願望の結晶化であり理想でもあるのです。神話をユートピア思想の原型と見ても良いように思っています。


神仙説の起源は山東省の神山信仰に端を発していると言われていますが実のところはっきりしてはいないようです。神仙思想では不老不死で出没自在の神秘的能力を持つ神人や仙人の存在を想定しています。そしてこのような神仙にあこがれて、そのようになりたいと願う思想のことを言っています。この考えは戦国時代末期から秦・漢代にかけて神仙の術を使う方士によって広められたとされています。


つまり彼らはニュートン力学(物理の法則)に逆らった力を行使したいという人間の現実的欲望の実現者であるのです。また、不老不死であるとされたところから見ても一種の超人願望と見ても良いのではないかと思っています。仙人という超人になるためには修行や服薬の法があります。その方法をめぐって道教と習合したものと見られています。そしてこの思想は魏晋時代に頂点に達したのです。さらに道教の目的とは古代の外在的神仙観に満足せずに人間の本性に内在する神仙性を顕現していくことにあります。それは自らが神仙人になることだったのです。要するにその修行方法とは全て神仙を実現することに置かれているといっても過言ではないのかも知れません。


まさに仙人とはSF小説におけるエスパー(=サイキック)にそっくりなのです。空を飛ぶことが出来ることや極めて速く移動する縮地の術などはテレキネシス(=サイコキネシス)やテレポテーションを自在に操る超能力者そのものであるように思われてきます。このような物理的法則の常識から見て絶対に不可能である事象を可能にする事が出来る能力を有することこそが神の証であると信じたのかも知れません。つまりその力を得ることが出来た人間はもはや通常の人間の範疇を越えて神人、仙人であると誰もが分かるということなのです。


人間が神に準ずる存在にまで己の能力を高めることが出来るという考えはある意味では不遜極まりないものなのかも知れません。それが可能だったのは自然の及ぼす影響が他の大文明の発達した地域と比べてかなり穏やかだった黄河流域の賜なのかも知れないと思っています。いずれにしてもこのように人間が神と同等の能力を有することが出来るという発想を他の地域に見ることは出来ません。このように極めて能動的に人間の可能性をより強く信じている思想は(例えそれが迷信の類だったとしても)刮目に値するのではないかと思っています。


神や最高実在、あるいは宇宙万有の根本原理などとして考えられる絶対者を自分自身の中で直接に体験しようと求める考えは神秘主義と呼ばれています。インドのウパニシャッド哲学の梵我一如は特に有名です。その他にもイスラム教においてはイスラム神秘主義のスーフィズムがあります。ユダヤ教にもカバラやハシディズムの伝統がありますし、キリスト教神秘主義は初期のパウロやヨハネに発しているのです。これに道教も含まれています。しかし、神仙思想の特徴とはエスパーという目に見える存在が表裏一体となっている点が特徴的だと思っています。


超自然の力に対する関心という現象面だけから見た場合に限りなく似ていると思えるものに魔術の存在があります。魔術とは古代以来の超自然的な力を統御するための理論と実践の総称のことです。魔術は力の行使にその目的がありますので自らを神の地位まで高めるものではありません。神との合一を目指す説もありますがそれはあくまで神の力の借用という概念だと思われます。このような点から見ても神仙思想とは別のものであると考えて良いように思っています。神仙人を完全人として捉えて人間の理想像としたところにこそ道教神仙思想の特徴があるのです。