スリガラス越しの太陽が目蓋に眩しくて、下村は仕方なくごそごそと寝床から起き出し、少し不可解な表情でもって辺り を見回した。 昨晩は、月の綺麗な夜だった。 どうして自分はこんなとこで寝ているのだろうかと少し考えて、ああ、仕事が明けたままこうしてここへ来てしまったの だとボンヤリと思い出した。 その月を肴に、酒でも飲もうと思ったのだ。 そういった時、あまり酒を飲まない坂井では相手にならない。最初から分かっている相手を誘うつもりは毛頭なく、そ れならばいくら飲んでも顔色も変えない、ヤブ医者でも誘おうかとそのままフラフラやってきたのだった。そうして自分よ りかは幾分弱い医者を酔い潰して、そのままいい気分で眠ってしまったのだった。 今さっき自分が寝ていた寝床というには気持ちの面で勘違いな診察台を振り返り、その横でぐったりと椅子に腰掛け て寝ている桜内に目をやった。 昨晩から何度も思って、何度も言った言葉がフト口を付いて出そうになってそれでも面倒なのでそれもやめておく。今 それを言ったところで誰も聞いていないので独り言にしかならないからだ。兎に角折角無駄を省いたのだから喉でも潤 そうかと辺りを見回しても、水どころか酒瓶一つ転がっていなかった。 無意識に片したか・・・? 昨晩は、ちょっと反省してもいいくらいの量は飲んだはずだった。もちろん後片付けなどするわけもない。しかし自分 でなければ桜内なのだが、自分より先に潰れて今なお、ご就寝中のぐうたら親父がやるわけがない。 少し考えて、兎に角部屋が綺麗なのはいいことだ、と下村は小さく頷いて、考え込んでいた頭を放り出した。考えても 仕方がないことは考えない。時間の無駄だ。 そんな風だから下村はあまり物事を深く考えない、と坂井に責められたりするのだが、下村からしてみれば坂井だっ て同じ位には何も考えていないと内心では反論しつつ、黙っていた。坂井はからかうと面白いが、行き過ぎるとキレて何 をしだすか分からないからだ。以前やはり同じように言い合いになって、キレた坂井に散々な目に合わされた。それを 繰り返す気は今のところ、ない。 兎に角、今日も診療があるはずの、今にも椅子から転げ落ちそうになっている男を起こすかと、下村は桜内の傍によ り、その耳元に顔を近づけようと屈んだ瞬間。 「・・・何してんだよ」 えらく不機嫌そうな声が後ろから掛かった。 「何って・・・起こすんだろ」 振り返らずともそれが誰かなんて分かりきっているので、下村はそのまま振り返らず答えた。 「ドクなら、声でも掛ければ起きるだろ」 やはり隠す気もないらしい低い声が、言及する。そうして、何故この部屋がこんなに綺麗に片付いているのかという問 題が解決して下村はさっぱりとしながらも、ああ、朝から少し面倒な事になりそうだと、少しウンザリとしている自分にた め息を送った。 背後では、お前じゃあるまいし、と坂井が唸る様に呟いた。 「お前が部屋に居ないから、探してたんだよ」 まるで空は突き抜けるような青さで、爽やかな朝の海風が頬を優しく撫でて行く。そんなステキなオーシャンビューの テラスでコーヒーを飲みながら、下村は恨み言を延々と聞かされて、危うく出掛かったため息をコーヒーで喉に流し込ん だ。 「店出る時、ドクの所へ行くなんて一言も言ってなかったじゃねぇかよ」 「・・・帰る途中で、思いついた」 そう、あの月を見つけるまでは家に帰って大人しく寝るつもりだった。 でも、昨晩はそうはならなかった。それだけのことだ。 「何でお前が怒ってんだよ・・・」 本当に不思議そうに呟く下村に、坂井は業とらしく大きく息を吐いてテーブルに突っ伏した。 結局のところ、そこなのだ。問題は。 あまりにも分かっていない下村に、坂井は本当に脱力して、このままここで倒れてしまいたい気分だった。しかしこん なところで一人儚くなっていても、面倒くさいと下村に置いて行かれるのがオチだ。それが分かって坂井はもう一度ため 息を吐いた。 一ヶ月程前、坂井は酔った弾みで下村と寝てしまった。 しかし弾みと言っても若気の至りとか、酔って訳が分からなくなってだというわけではない(大体、若くもないしな)。今 まで抑えていた、心の箍が酒の勢いで外れてしまったのだ。 自分がいつの間にか下村に惹かれていることに坂井はとっくの昔に気がついていた。それでも男である自分が下村 とどうにかなりたいと思ったことはなかった。下村はごくノーマルな男だったし、坂井の方もなんといっても初めての経験 で、正直男相手に一体どういうアピールをしたらいいのか皆目見当もつかなかったからだ。 しかしそこはそこ、一度寝てしまった相手に酔っていたので何も覚えていないと言える坂井ではなく、何でこんなことに なったんだっけ、と本気で素っ裸のまま不思議がっている下村に、坂井はその場で告白した。 お前が好きだ、お前に惚れてる、と。 そして今に至るのだが。 ―――なんてな。 下村はやはり出てしまったため息に、ギロリと睨んでくる坂井を見ながら心の中で舌を出した。坂井がどうして怒って いるかなんて、百も承知の上で言っているのだ、自分は。 坂井は自分と桜内の関係を知っている。教えた訳ではなかったし、聞かれたこともなかったが、それこそ男の直感で 気がついてはいるだろう。 その証拠に、桜内と酒を飲む事に敏感に反応する。それでも知った上で、それ以上に突っ込んで聞いてこないのが 坂井らしいと言えば坂井らしいのだが。下村はやはり心の中だけで、ため息を吐きながら、表面上では無表情にコーヒ ーを飲み込んだ。 「部屋に戻らないなら、一言言っておけよ・・・何かあった時に連絡取れないのは、困る」 不機嫌そうなしかめっ面が、俯いて目をそらす。 自分が何を言っているのか分かっているのかこの男は。 一瞬カッとなったまま危うく怒鳴りそうになったものの、それをなけなしのプライドで飲み下しながら、それでも抑え切れ なかった激情が、カップとソーサーにガチャンと悲鳴を上げさせた。 「・・・分かった。今度から気をつける」 椅子を蹴倒しそうな勢いで立ち上がる下村に驚いて、坂井が顔を上げた。しかしその視界に入ったのは、判断しよう もないほどの無表情に取り繕った下村の横顔だけだった。 「確かに、社長に何かあった時に連絡取れないのは、マズいからな」 そう言い捨てて、下村は後も見ずにすごい勢いでテラスを出て行ってしまった。 それを呆然と見送りながら、坂井はどうしても分かってくれないのだということが苦しくて、無意識の内に胸の上辺りと ギュッと掴んでいた。 |