Mellow

2














 街は穏やかに朝を迎えていた。
 空は晴れ渡り春を含んだ暖かな風が地表をさらって行く。その中を無粋な通勤の群れが駅へと向かう時刻はとうに過
ぎ、大通りは午前の安らかさを取り戻していた。
 しかしそのなだらかに流れる精錬とした空気とは裏腹に、陰々鬱々とした表情で歩く人影に、新たな食料を狙って飛
来した烏がびくりと身を竦ませた。
 男はどう見ても不機嫌としか言い表し様のない表情で下を向き、時折気を紛らわせるかの様に踵を鳴らして歩く様
は、非難を浴びせ掛ける鳥の群れにも見向きもせずにずんずんと道を進んでいく。それをまばらに残る道行く人が安
易に振り返ったとて、誰も責められはしないだろう。それ以前に一目を引いている自身にさえ気づいていない様子は、
普段の様子を知る者が見れば少々の驚きをもって迎えただろうし、それよりも何時ものマネージャー然とした風貌と比
べて見ては同一人物であることに気づかないことも十分有り得た。
その様にしてあたり一面に自身の不快を隠そうともせずに歩きながら、収まりのつかない腹立たしさに肩を怒らせるの
だった。その為に普段であれば容易に気づくはずの視線に気づくことはなく、その様子をさも可笑しそうに後ろから見つ
める無遠慮な目にその姿を無造作に晒していたのだった。
「よお、朝からお散歩かい?」
 その声に、微かに肩が揺れる。恐らくは自分の油断と動揺を悔いてのことだろう。しかし掛けた声の主はそんな男の
様子など頓着する様子もなく、トロトロと亀のごとき歩みを進めていた車の速度を更に落としてガードレール越しに車体
を並べた。
「…そちらこそ、二日酔いは?」
正面を睨んだままの男の横顔を面白そうに眺めながら、開け放した車窓に肘をつき、二日酔いと言われた割には随分
と血色のよさそうな顔で車の運転手はおかげさまでと愉しそうに答えた。しかし問い掛けた当人は答えなど望んではい
ないといった様子で相槌をうとうともしなかった。それがまた車の中の男の笑いを誘っているのだろう事は十分分かって
はいても、どうにもならずに短く舌打ちした。
「まあ、乗れよ。送る。」
 しかしそう言った不遜な態度を気にする風もなく、車の男は楽しそうな面持ちのまま目線だけで助手席を指すと、道を
歩いていた男は、チラリと寄せられた朝日の中で煌く黄色い車体に視線を送り、その眩しさに目を細めながら諦めたよ
うにため息を漏らして踵を返した。











「喧嘩になったか?」
 ガランとした車道を緩い動作で走らせながら、桜内は隣で瞑目したままの下村にわずかに視線を走らせた。お互い寝
不足であるのは知っている。だからと言って本当に眠いわけでもないことも分かっている。無遠慮に話し掛けるのに躊
躇はなかった。
「・・・聞くまでもないでしょう。」
 分かっていて聞いているくせに。ひどく不服そうに呟いた下村に、桜内は愉しそうに声を上げて笑った。
「今更、何が気に入らないんだ。お前達は。」
 正面を向いたままどうにか笑いを堪えた桜内の不自然に引きつる頬の上に目を走らせながら、下村は業とらしく天井
を見上げてため息を吐いた。
「それは俺じゃなくて、あいつに聞いてくださいよ。」
 本当に聞いたりしたら怒るくせに。そんな事を平気で言うのは、下村がどこかで桜内に甘えているからだ。そんな風に
されてはつい望み通に甘やかしてやりたくなって、桜内は少し困ったように気づかれないほどの困惑を視線に乗せた。
それを敏感に嗅ぎ取った下村が、不思議そうな顔をするのをまったく無視して、相変わらず自覚はなしかと、少々坂井
に同情したいような心持だった。それでも今の桜内に二人の仲をどうこうしようという気は一切なく、それこそ好きな様
に勝手にやってくれ、といのが正直な心境だった。
「まあ、お前のそういう薄情なところも、あいつにとっては魅力の一つなのかもな。」
 そんな風にどうでもよさそうに言われると、流石にあまり良い気分ではないらしい。眉を顰めてこちらを見ているのを
横目に感じながら、桜内はハンドルを切った。
「…どうですかね。」
 多分、それは桜内に聞かせる気のなかった言葉だ。その証拠に、下村はその一言をエンジンの唸りに紛わせる様に
小さく口先で模っただけだった。しかし幸か不幸かちょうど交差点に差し掛かった車は回転数を下げ、その声を桜内に
届けてしまった。それに下村も気がついたのか、ちょっと気まずそうに顔を顰めてそれきり沈黙した。それを追うように
今更に唸りだすエンジンに今度こそため息を隠しながら、下村は沈鬱な表情で左手の先でドアを軽く叩いた。
「なんだ、案外臆病だな。お前も。」
 坂井も、とは言わずに語外にそれを匂わす。何時もの癖の中にイライラとした心情が読み取れて、少し真面目に言葉
を選んだつもりだった。しかし相手はそう取らなかったようで、少し心外そうに下村は眉を顰めた。
 「…何言ってんです。俺はいつでも臆病ですよ。」
 それを今度は下村の方がちゃかして、面白そうに桜内に目をやった。それを当然の権利のごとく咎める視線で見返
すと、少しは反省して素振りで下村が微笑んだ。
「いや、本当に。」
 そのまま正面を向いてしまった下村の口元には、貼りつけたような笑いが残ったままだったが、それでもそれを裏切
るような辛辣さを孕んだ視線が光の軌跡を残すように桜内の目蓋に焼きついた。恐らくは本音を冗談に交えて自分に
伝えようとしているのだ。それは分かったが、だからといって何時かの夜のように、このままいたずらに下村と寄り添う
のはあまりにも坂井に対して不誠実である気がして、流石に節操など屁とも思わぬ神経が、戸惑いを表した。それは下
村も同じであるらしく、昨夜の時点でそのような雰囲気になったにも係わらずなだれ込まなかったのがその証拠だ。珍
しく操でも立てているのかとからかうと、嘘にまぎれてそうなのだと肯定したのは記憶に新しい。それも酔いにまどろん
だ鮮明でない意識の中での出来事ではあっ て、恐らく下村はそれを見越してやんわりとかわしたのだ。禍根を残さな
いとの配慮であったのかもしれないが、自分がよっぽど節操がないと言われているようで、少し心外だった。
「ちゃんと言ってやれよ。そうすれば・・・」
「今更っ」
 珍しく言葉を遮った下村の声は、ままならない焦燥に掠れた様に苦しげだった。それにぎょっとして隣を見ると、怒り
に彩られた瞳とかち合った。
「―――・・・今更、どう言っても。俺は全部見せたつもりです。」
 それが分からないから、坂井は苦しんでいるんだろう。
 言いそうになって、桜内は危うく口を噤んだ。それを言ってしまうには、自分は深入りしすぎている。それも下村に対し
て一方的に。このまま何かを言ってしまうには事の良し悪しに関わらず、卑怯と言われても仕方がないことまで言ってし
まいそうだった。とかく、自分の中に下村を引き止めたいという気持ちがないと言い切れない以上、するべきではないの
だ。
「・・・そうか。」
 遣り切れないような苛立ちを抱えたまま、どうしようもない怒りに我を忘れそうになっている下村に、桜内は小さくそう、
呟いた。





















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