いつもスカした面が、笑みに崩れる瞬間を知っている。ちょっとビックリしたように目を瞬かせ、次の瞬間にははじける 様に笑うのだ。初めはそんな風に笑ったりするタイプではないと思っていて、それで驚いた。先行する「海賊狩り」のイメ ージが強かったせいもあるかもしれない。でもどちらにしろ、その笑顔が後々まで脳裏に焼きついたまま離れなかった のは事実だった。 船上の凪いだ生暖かい空気は使用後の浴室のように気だるい。その中をぼんやりと泳ぎながら、普段は気にならな い額に掛かる前髪が妙に邪魔なような気がして、何度もかきあげる仕草を繰り返した。そうして午後の凪ぎの時間をや り過ごしながら、各々好きなように過ごしているはずのクルー達は、キッチンのドアから見下ろした所で姿は見えなかっ た。 いつもなら誰かしら居るはずのメインマストの根元や舳先にも誰も居らず、いったい皆はどこへ消えたのだろうかとぼ んやりと考える。しかしまあ、狭い船上のことである。本当に消えたわけでもあるまいと、息をついて煙草を咥えた。 そうしてゆっくりと風に煽られずに昇って行く煙を眺めながら、覚えず浮き上がった記憶に危うく震えそうになる指先 を慌てて手すりに擦り付けた。 夜だった。 その日は陸を離れた晩で、いつもはうるさいはずの年少組は食後のワインが効いてあっという間に夢の中、遅くまで 会話を楽しむ年長組も、流石に眠気を押さえきれない様子だった。とは言っても海賊船である限り、見張りをたてない わけにもいかず、結局この晩の見張りはゾロが勤めることになっていた。 そこで本来であれば不満の一つも出るところなのだが、ゾロは何も言わず、黙って酒瓶を一つ掴むとスタスタとキッチ ンを出て行った。それをなんとなくサンジとナミは見送りながら、二人同じように小さく息をついた。 「あれ、どう思う?」 目の前に用意された、煎れたての紅茶カップを手に包み込みながら、チラとナミがサンジを見上げた。 「どうって・・・どうって?」 ナミの質問の真意が掴めず繰り返す。しかしナミはすぐには答えず、焦らす様に紅茶を口に含んだ。 それを待ちわびるような気持ちで眺めていたことに気づいて、サンジは舌打ちしそうになるのを寸でで止める。これで はナミに対して苛立っている様に聞こえてしまうからだ。しかしそう言ったサンジの戸惑いを、ナミは推し量ることはなく、 ただ繰り返し聞こえる嚥下の音に耳を澄ませていた。 それをやはり目の端で捕らえながら、ナミは笑い出しそうになるのをどうにかカップで誤魔化すのだった。少ない人数 のことである。年少、年長と言ってもそんなに差があるわけではない。特に自分は真ん中であるし、女でもあるので特 別に与えられた視点を持つことが可能だった。それを時々は疎ましいと思い、時としてこうして優越感を与えてくれる。 しかしサンジの方はといえば、計りかねる様な質問をされて、どう答えて良いのか戸惑うばかりだった。 こんな風に、ナミが謎かけの様な質問をするのは今日に始まったことではなかった。それも大概ゾロと自分との間の ことであるのは疑いようもない。その度にやはり答えに窮して押し黙ってしまうのが常だった。 「そんなふうに、泣きそうな顔しないで?」 別に、いじめるつもりで聞いているわけじゃないの。そう言いながら、ナミは静かにカップをテーブルに戻した。 そう言われてまさか本当に自分はそんな顔をしていたのだろうかと顔を擦りそうになるのを何とか諌める。今それをす るのは自分でそれを認めていると同義だからだ。 「ゾロ、サンジ君が来てから弱音吐かなくなった」 「・・・え?」 テーブルの脇に立ったまま、こちらを見下ろしていたサンジの目を、まっすぐに見つめながら、ナミは誰かに聞かれる のを恐れるように小さく呟いた。それを見返していたサンジの目が、困惑に見開かれる。ナミの言葉はいつも難しい。 特に感情に由来するような事に関してはそれに輪が掛かるのだ。 「俺が・・・来てから?」 「うん」 しっかりと肯定しながら、ナミは座るようにサンジを促した。 「サンジ君ってさ、ゾロの事、気になって仕方がないでしょ?」 「は?」 正面に顔をつき合わせながら、ナミが至極真剣な表情でそう、切り出した。 しかしサンジをいつもなら一も二もなく賛同するはずのナミの言葉に頷くのも忘れて呆けてしまった。 ・・・俺が・・・ゾロを・・・? そう言ったのだろうか、この、目の前の美しい人は。 何とか自分を正常の状態に沿わせようとそうは思うのだが、如何せん突拍子もないナミの言葉に動揺している今の 状態では、上滑りこの上なかった。 大体において、理論や倫理を大切にするナミの今日の言動はどう言う訳か一貫性がないし、自分に対していったい何 が言いたいのかも良く分からない。いつもの謎かけの時でさえ、こんな風ではなかったように思う。 ナミは小さく息を吐くと、何も答えないサンジの目を相変わらず見据えながら、少し微笑んだ。 「それとも、自覚、なかったかな・・・?」 不安と不審で固まってしまったサンジに、ナミは少し先走りすぎたと舌打ちしたい気分だった。 ああ・・・しまった・・・。ごめん、ゾロ。 頭の中では盛大に眉を顰めながら、それでも表面はこれ以上ないほどに優雅に振舞いながら、ナミは自分を落ち着 かせる為にゆっくりと瞬いた。 本当は、今日の目的はサンジを威嚇することにあったのだ。 しかし当のサンジはどうやら自分の気持ちさえ自覚していない様子。これでは自分が寝た子を起こしたも同然だっ た。 ごめん、ゾロ。あんた、明日の朝には世界が変わってるかも・・・。 今は見張り台の人となってしまったゾロに、心の中で手を合わせる。本当にこれは迂闊だった。 少ない人数のことである。年少、年長と言ってもそんなに差があるわけではない。特に自分は 真ん中であるし、女でも あるので特別に与えられた視点を持つことが可能だ。それを時々は疎ましいと思い、時としてこうして優越感に浸ること が出来る。しかし、今度ばかりは完全に見誤った。 自分なりに気づいたサンジの気持ちと、ゾロの杞憂。気がついているのが自分だけならば、何とかどちらも晴らしてや れればと思い込んだのが間違いだった。放っておけば良かった。 そうすれば、自分にだって、望みはあったものの。 「ごめん、サンジ君。変なこと言った」 こういう時に出来ること。それは・・・ 「じゃ、私寝るから」 この場を逃げるしかない。幸い未だに固まったままのサンジは声を掛けているにも関わらず、ピクリとも反応しなかっ た。ナミが声を掛けているにも関わらず、だ。 「おやすみなさい・・・」 今度こそ返事は待たぬまま、サンジの横をすり抜けて、早々に後ろ手にドアを閉めた。背後では恐ろしいくらいの静 寂が横たわったままだった。 ああ、私もまだまだ修行がたりないわ・・・。 見張り台の白い塊を見上げると、向こうもこちらに気がついたのか少し伸び上がるように手を振ってきた。それをちょ っとだけ可愛いと思いながら手を振り返し、それも今夜までかもしれないと、逃げるようにナミは甲板を後にした。 一方、取り残される形となったサンジは、ナミが出て行った時と変わらぬ姿勢で固まったままだった。しかし頭の中は その外見とは裏腹に、超音速のスピードでフル回転中であった。 自分がゾロに嫌われていると思っていた訳では決してない。たとえ船長が連れて来たとは言え、自分が納得しないも のをおいそれと受け入れたりするような男ではないと、短い付き合いながらも十分、分かっていた。でも、だからといっ てそれがイコール好いているとか、気に入っているとかではないということも良く分かっていた。それは関心という言葉と は程遠い。というか、関心というのは自分達にとってまるで縁のない様な言葉だった。 しかし、今のナミの言葉は何だろう。まるで自分がゾロに酷く気を引かれているという様な言い方ではなかっただろう か。 いや、それよりも・・・・。 「ゾロが・・・俺に関心がある・・・?」 それこそまさに晴天の霹靂である。あれをどう見たら、そうなるというのだろうか? それはない、あり得ない。そう否定しながらも、いつの間にかテーブルに付いていた手が微かに震えていることに気が 付いた。それを人の目から隠すようにサンジは慌ててぎゅっと胸元の服を掴む事でそれを押さえつけた。自分が今考え ている事は、酷く滑稽なことだ。そんな事は自分でも良くわかっていた。それなのに今、ナミのその愛らしい唇から齎さ れた小さな一言に、こんなにも動揺する自分はアホの極みだ。 それでも、やはり指先はぎゅっと握っていないと収まり悪く震えてしまうのだった。 関心がない、気になんてならない。まるで呪文の様に自分に言い聞かせていたのはいったい誰だ。 いつもその笑顔を、穏やかな寝顔を直視しない様に目をそらしていたのは誰だ。 そんなこと、今更確認する必要もなかった。 「そうだよ・・・全部、俺だ・・・」 関心がない、気になんてならない。そんな呪文はとっくの昔に効力なんて失っていた。いや、最初から効力なんてなか ったのだ。でも、そうでも思わなければまるで相手にされていない自分の立場が悔しくて、どうしようもなかったのだ。 結局の所、どんなに足掻いたところで自分の気持ちから逃げることは叶わない。諦めの悪さは自分でも十分わかって いた。 「そうだよな・・・今更じゃねえか」 険悪ではないにしろお世辞にも仲が良いとは言い難いものを、これ以上何をして悪くなると言うのだ。 それこそ今更 だった。 「・・・っよし!」 サンジは思いきるようにテーブルに付いていた両手を突き放し、一度は火の消えたキッチンに再び向き合った。 continued |