甲板に居る限りは気にならない様な些細な風のそよぎも、船一番の高所である見張り台に昇るとそれは顔を叩く勢い で吹き付け来る。それを持ち込んだ毛布にくるまって何とか防ぎながら、ゾロは遠目の利かない夜の海原を見渡した。 それでもいつもよりは月も明るく幾分ましな様子で、取り敢えずは異常がない事を確認し、風除けの縁よりも低い位置 に座りなおした。 元々、見張りと言ってもそれほどやることがあるわけではない。以前のようなナミが寝込むなどの緊急事態でもない 限り、気休め程度に入れ替わりにこの暗い海を眺めるだけだ。それに頭のどこかで何かあった時はその時はその時、 という幾分楽観的な意識があることも否定できなかったが。 耳に届く風鳴りや、船底に打ちつける波音に少しだけと目を瞑りながら、意識の流れるままに思考を預け、そういえば こうして一人で居るのは本当に珍しい事になったのだと思った。 昔は当然のごとく何をするにも一人で、それが一番気が休まったし、何よりも危険が少なかった。 しかしその代償のように、何時の間にか夜熟睡することが出来なくなっていた。 つまり、一人で居ると言うことは、そいうことなのだ。 それは自分で選んだことで後悔する気もなかったし、気にすること自体が稀だった。 習慣になってしまった夜の不眠はそう直るものでもなかったが、賞金首が乗っているにも係わらず大分暢気なこの船 に、一人くらいこんな人間が乗っていてもいいだろうと最終的にはやはり楽観的な計らいで開き直った。 そして何時の間にか、一人で居る時の自分を忘れてしまった。 けれどフト、こんな風に一人になると思い出す。自分がどれだけ過酷に一人でいたことを切望していたかを。 昔は一人でいることが何よりも心休まる時間であったし、そうあるように務めて励んできた。だが、そう言った面倒の 少ない昔も悪くはなかったが、今も悪くない、と思うようになった。面倒なことが多くて、くだらないことでいちいち喚いて。 じっとしていることの方が少ない毎日。気をもませることばかりだが、それが楽しくて堪らないのだ。きっと昔の自分であ ったなら、とっくにこんな船降りているだろう。でも今の自分はこの船に居ることを望んでいる。最初こそ脅迫であった が、それも自分で選んだことだ。誰のせいにする気もなかったが、後悔せずに済むのならそれに越したことはない。こ んな風に人は変わっていくのだろうとゾロはなんだか不思議な感じがした。それは昔は見えなかった景色が急に目の 前に広がった様な、子供の頃思いがけず早く起きた朝に、真っ白な太陽を見ながら感じた笑いを含んだ胸の高鳴りに 似ていた。 人の運命などまったく信じないゾロであったが、こうして居られる事だけはそうであっても悪くない、と思った。 「・・・ん?」 のんびりした気持ちで雲の吹き払われた空を眺めていたゾロの耳に、不意に縄の軋む音が微かに聞こえた。恐らく は誰かがここまで昇ろうとしているに違いなかったが、いったいこんな真夜中にどの酔狂者だとゾロは頭まで被ってい た毛布を肩までずらし、風に晒されない様、縁の向こう側を見下ろした。 「・・・よお」 サンジだった。 「何してんだよ、こんな時間に」 先ほどナミがキッチンを出て行くのを見ていたゾロは、てっきり程なくしてサンジも休んだのだろうと思っていたので、 本気でびっくりしてしまった。 そんなゾロの様子に何故か少しバツの悪そうな顔をして、サンジは手にぶら下げていたバスケットを顔の横に掲げて 見せた。 「夜食」 そんなサンジの様子に、重ねてびっくりして目を見張った。 「・・・意外か」 「意外だ」 今までたくさんの夜をここで過ごしはしたが、要求なくしてサンジが自ら手土産を持ってくるのは初めてだったのだ。 鈍い鈍いと言われるが、サンジが自分をどう思っているのか分からないほどではない、とゾロは思っていた。嫌いとまで は言わないかもしれないが、ソリが合わないと思っているのは確実だろう。そのサンジが何を好んでこんな時間にここ へ現れたのか、ゾロにはさっぱり分からなかった。 まあ、そこが皆に鈍いと言われる所以であったのかもしれないが。 「たまには悪くねえだろ」 じっと見つめるゾロの目を、少し避ける様にしてサンジは心持ち顔を俯けながら縁を乗り越え、うずくまって風を避け るゾロの隣に腰掛けた。改めてゾロも毛布にスッポリと首元まで包まりながら、じっとそんなサンジの様子を眺める。 いつもなら、そんな気にもならないはずのゾロの視線が、今夜のサンジには少し疎ましそうに見えて、何か言い出し難 いことでもあるのだろうかとゾロは視線を自分の目の前の床の木目に移した。 そんなゾロの様子を意識しながら、サンジはバスケットの中からまだ湯気の出ているスープと、干し肉や野菜を挟ん だパンを取り出しゾロの前に並べてみせた。 「ありがとう」 いったいサンジが何を思ってこんな風に用意してきてくれたのかは知らないが、こうして目の前に食事が用意されてい るのは事実だ。それに礼を言うのは当然だ。ゾロにしてみればその言葉は当然の成り行きで選んだ言葉だったのだ が、なんとなく振り仰いだ先のサンジの顔は、なんとも奇妙な感じに歪んでいた。 「・・・意外か?」 「意外だ」 先ほどと全く同じ受け答えを、今度は逆の立場で言い合いながら、少し嬉しそうなサンジを見て、ゾロはと言えばやっ ぱりどうしてもサンジが今夜ここへ現れた訳が分からなかった。 「・・・いただきます」 それきりまた黙ってしまったサンジを横目に、冷めない内にとゾロは夜食に手を付けた。暖かいスープが喉に心地良 い。それをゆっくりと堪能しながら、ゾロは隣でぼんやりと座っているサンジをこっそりと伺った。 やはり寝る前であったのか、いつも身に付けているスーツではなく、普通の白い開襟シャツとスラックスだけを身に付 け、この見張り台の上でその肩は少々寒そうだった。しかし当のサンジはそういったことには一切関心のない様子で星 空を眺めている。そんな様子にちょっと違和感を覚えて、そうか煙草を吸っていないのかと思い当たった。何をしていて もいつも銜えているものを、今日に限ってまるで吸う様子もない。もしかして少しの間だからと、スーツのポケットにでも 入れたままなのだろうか。 そんな風に考えながらもゾロは口を動かすことは忘れず、最後の一口になったパンをほうばった。 サンジもそれに気づいたのか、終わりか、と小さく呟いた。その声は少し浮ついて掠れていたが、ゾロが気づくことは なかった。 「ああ、ごっそうさん」 最後に手を合わせてから、ゾロは食器を元に戻そうとサンジの手元に置かれていたバスケットに手を伸ばした。 「ゾロ」 しかし、それは掛けられた言葉に止まってしまう。自然ゾロはサンジの目の前の床に手を付いて、その顔を覗き込む ような体制になってしまった。 「なんだ?」 本来であれば、その位置からなら十分に表情を伺える距離であったが、生憎月明かりを残してすべての照明を落とし ている状態でそこまでは伺えなかった。 しかしそれきりまた沈黙を落としたサンジに、ゾロはいったい何なのだと息を吐いた。 「なんだよ?」 再び問いかける。そこで初めてゾロはサンジが何かを言いあぐねて、こうして黙っているのだと言うことに気がつい た。しかし黙ったまま、何も言おうとはせず、ゾロはたまりかねて身を起こそうとした。 その時。 「ゾロ」 サンジが口を開いた。 「俺、てめえに言わなきゃいけねえ事がある」 心持ち顔を上げて、呟いたサンジの声は危うく風に飛ばされそうで、ゾロはそれを聞き取るために余計に傍へ寄らな ければならなかった。 「何だ」 今更、改めて手土産を用意してまで話さなければならない事とはなんだろう?頭の中では疑問でいっぱいだったが、 まさかどうしても気に入らないから出て行けなどと、理不尽なことを言いはしないだろうとゾロは次の言葉を捜しているら しいサンジの顔をじっと凝視した。しかしサンジの方はといえば、そんな風にゾロに見られると何やら言い難い様子でタ イミングを計るように口をもごもごさせてはいるのだが、結局言葉にならないようだった。 「そんなに言い辛いことか」 漸くゾロも自分の強すぎる視線がいけないのだと理解して、じっと見据えていた視線をサンジの組まれた足元のほう へと移した。そうした方がサンジも話易かろうという気遣いだったのだが、サンジにしてみれば、ゾロが呆れて視線を逸 らしたのだと勘違いした。 「ゾ、ゾロっ」 咄嗟に掴んでしまったゾロの腕は、思いの他抵抗もなく、どうやら離れていくために視線を外したのではないことは分 かったが、何時ゾロが面倒くさがってこちらとの会話を放棄してしまうかは分からない。サンジはやはりここで決心する しかないのだと、迷い掛けていた気持ちを奮い立たせた。 それでも何時になく押し黙ったまま言葉を待っているゾロに胸が詰まって、サンジは奮い立たせたはずの心が弱く揺 らぐのを感じていた。このまま、何も気づかないまま、何も言わないままでいれば、このままの状態でいることは出来 る。毎日の様に意味のないじゃれ合いをして、飯を食わせて、たまに一緒に酒を飲んで。でももし、今から言う自分の言 葉にゾロが不快を示せば、今まで保たせてきたそれらの全てが無駄になる。それだけじゃない。もう、こうして傍に寄る 事さえゾロはその潔い潔癖さで許さないかも知れな。 もう、自分の作ったものを食べようとはしなくなるかもしれない。 それを思うだけで、サンジは喉が固まって言葉が出なくなってしまうのだ。自分にとって一番大切な事。飯を作って、 人に食わせる事。それさえも、出来なくなってしまうかもしれない。 目の前の男を、一撃で自分の前から消し去ってしまうかも知れない言葉。 今から自分が言おうとしている言葉は、そういものだ。 サンジの真剣さが分かるのか、今度はゾロも焦れずに待ってくれている。だが、それも何時まで持つか分からない忍 耐だ。こうして自分の元へゾロを引き止めておくには限界がある。言い訳になる食い物も酒もない。もし、ここで言わな いのなら、自分はもう永遠に何も言えなくなるだろう。 ここで、今、言えないのなら。そんな言葉に意味などないのだから。 「よう、クソ剣士。てめぇ男と寝たことあるか?」 「・・・・あ?」 並々ならぬ様子のサンジに、一体どれほど真剣な話があるのかと身構えていたゾロは、いきなりの言い出しに二の 句が告げず、精々危うく外れそうになった顎を落とさずにそう返しただけでも妥協点だったはずだ。しかしそんなゾロの 様子などお構いナシに、サンジは話し続ける。 「少なくとも俺は、ない。俺は女の子の可愛らしい声が好きで顔が好きで姿が好きで、その愛らしい仕種がたまらなく好 きだ。女性はこの世の太陽だ。裏路地のゴミみてえに、煮ても焼いても食えねえ、硬くてゴツゴツしてて、愛らしさの欠 片もねえ男なんか全くのクソだ。犯罪だ。俺は今まで男と寝たこともねえし、寝たいとも思わねえ、未来永劫ありえねえ」 言っていることはめちゃくちゃだが、まあ、この男の論理で言えばあながち嘘ではないのだろう。ゾロはそれに対して 何の反応も返さなかったが、頭の中ではそれもアリだろうと思っていた。しかし、次のサンジの言葉で、ゾロの思考は全 面的ストに突入することになる。 「でも、お前とならヤれる」 「・・・・・・・・・・・・・は?」 目の前では真剣な表情をしたサンジがいる。たぶん、とても大切で、とても真面目な話をしているに違いないという顔 だ。しかしゾロには、サンジの言いたいことが全く理解できなかった。 「・・・ヤれるって・・・何を?」 「ナニを」 多分自分の考え違いだろう。いや、全くそうだ、それはサンジにいくらなんでも失礼だ。そう思ってゾロは聞き返すの に、なのにサンジはやっぱり「その様な意味」でもってそう返した。 「だから、俺はお前となら寝れるって言ってんの」 ゾロは危うく昏倒しそうになる自分を引き止めるのに精一杯だった。 continued |