沖合いから海を滑り、優しくさらう様に水面を蹴立てては吹きすぎる風に髪を騒がせて、それを何度も何度も手で宥 めては散らされる。頬に触れる海風は心地よく、爽快な潮の香りに下村がゆっくりと目を細めた。それを横から眺め、 どうしようもなく愛しい気持ちで坂井は小さく微笑んだ。 一夜を越えて雨の上がった空は美しく晴れ渡り、さざめく水面は淡く光を踊らせる。その様が美しく、遠くにかすむ水 平線が、晴れ霞に撓んでは揺れた。 それを二人、じっと見晴らしながら、どこか澄み渡る様な心持で坂井は下村を見ていた。 まるで一夜のあやまちの様に、二人の関係は始まった。 それまでも、二人を繋ぐものが決して弱いものではなかったとは思う。お互いに特別であったといっても、それは自惚 れではないだろう。しかしそれは坂井や――下村が真実求めているものではなかった。 心を通わせ、体を通わせる事。思うことは何度もあった。ただ安易に自分の求めるものを、相手に晒していいもの か。蔑まれはしないか。今あるはずのものを壊してまで得るものが、果たしてそこにあるのか。答えるべき者のない問 いは、終わるはずもなかった。 時には相手の中に「あるいは」と思わせる片鱗を見出しては心を波立たせ、時には行き先のない感情に煩悶した。ど うしようもなく哀しい夜もあり、共にあることを感謝する夜もあった。しかしそこには変わらず答えはなく、問いかけはい つの間にか途絶えて潰えた。見る者のない心の裡が、段々と焦がれる事に慣れては、切なく痛みもした。 それが、今、目の前にある。求め続けた問いの答えが。 坂井は手を伸ばさずともすぐ傍にあるその微かな体温の輪郭に、そっと身を寄せ、変わらず沖を眺めていた下村の 視線を海からさらった。柔らかな視線が頬にあたる。遠くから見れば、ただ肩を並べて立つ様にしか見えはしないだろ う。それが少し哀しく、しかし嬉しく、坂井はこちらをじっとただ見ている下村に目をやった。 視線が、近しい距離でかち合った。 その目の中に、感情を読み取るのは難しい。そもそも、言葉を発しでもしなければ、酷く冷酷に見られがちな下村に、 そこまで豊かな感情の表現を求めるのは無理なことだった。 しかし、今なら分かる。 その中になる、微かな何かを愛おしむ様なその色を。 その視線の先の、たおやかな何かを、限りなく優しいその目で愛おしんでいる。 そして下村は、その坂井にだけ分かる目で、坂井をも見てくれる。 坂井を、愛しいと思ってくれている。 「下村…」 問いかける言葉に、下村は首を微かに傾けることで答える。その仕種がどこか幼く、坂井を微笑ませた。 今のこの気持ちの全てを現す事は、たとえ全ての言葉を費やしたとしても難しい。 ましてそれを下村に伝え切る事は恐らくは出来はすまい。 それでも、まるで感情の全てが狂おしい愛しさであふれるこの感覚を、少しでも下村が分かってくれればいいと思う。 俺は、哀しいほどにお前が好きだ。 そう言ってしまうのは簡単だ。 きっと下村は呆れたような顔をして、それでも愛しい光を湛えたその目で坂井を見てくれるだろう。そうして、その手を 伸ばして抱きしめてさえくれるかもしれない。 きっと坂井をがっかりさせたりはしない。 でも、それを言う気にはなれなかった。 それよりも今、晴天の浜辺で触れあうほどに傍に居られることが、坂井の胸をどうしようもないほどに甘く痛ませた。 その痛みをそんな些細な衝動で、崩してしまうのは酷く惜しまれた。 見つめたきり、何も言わない坂井に、それでも下村は何も問わずに坂井の意図を汲んだようにただじっと坂井の目を 見つめ続けた。その下村の口元に、和えかな微笑みの影が差す。そのあまりの穏やかさに坂井は息を飲み、ついで笑 み崩れた。それに下村は少し驚いたような色を浮かべ、まじまじと坂井を眺めては目を細めた。そしてそっとその手を 取り、包むように指を絡ませた。 あまり人目につく場所での、そういった接触を好まない下村の突然の行動に、坂井は目を瞠って驚いた。心音が奇妙 に耳元で高鳴った。 「坂井」 下村は水面の瞬きを溶かし込んだ様な微笑で、小さく呼ばわった。 その、たったひとつの呼びかけが。 目の前の下村の顔が、困った様な微笑みに変わった。疑問に傾げたその顔に、ふわりと纏う様に髪が模る。その姿 がみるみるうちに滲むのに、坂井は情けないような幸福を、余りある胸の痛みと共に知るのだった。 愛している。どうしようもない程に、この男を愛しているのだということを。 「坂井…」 吐息のように綴られる、間違えようもない自分の名前に、坂井は見るからに情けない様子でふにゃりと顔を崩した。 下村はそんな坂井を暫し見つめ、探るように視線を彷徨わせた後、ついっと坂井に顔を寄せた。 触れるだけの、稚拙なくちづけ。 びっくりしたまま声も出ない坂井に、下村はしてやったりと言うような顔でにやりとすると、もう一度、今度は驚かせたり はしない様、ゆったりと坂井の目元にくちづけた。 海風が、思い出したように坂井の濡れた頬を無遠慮に曝しても、それが気にならない程にそれは優しげで、再び合わ せたその目は、まるで愛を囁く様に雄弁だった。 「もう少し、こうして居よう?」 もうその目は、いつもの通りに隠されてしまったけれど。それでも下村はそんな風に言葉の片鱗で、坂井をいとも容易 く切ないほど幸福な気分にさせるのだった。 手と手を繋ぎ、指を絡ませ肩を寄せて。 今の自分たちが、いったいどんな風に見えているかは知らないが、そんな事は兎に角どうでもいい事だった。 ただ、下村が居る。それだけで。 少しだけ肩の辺りに下村の重さを受けながら、目を閉じる。凪を向かえつつある漣は、段々と穏やかになる静けさで 体を包んだ。 甘い言葉も囁きも、今はまだ言えない二人だけれど。 それでも精一杯の愛しさの視線で、伝え合っていければ、今はそれで十分だと思う。 でももちろん、そんな状態に甘んじている気は更々ない。 いつかは恥ずかしいくらいに大きな声で、愛していると叫んでやると、言葉に出さずに呟いた。 終わりです。 ご清聴、ありがとうございました。 謝々。 |