Mellow

12














 坂井はこれ以上ない位に自分が緊張していることを自覚していた。
 遅番のボーイと、最後まで残ってもらった女の子達を全て見送ったのは、既に夜も半ばを過ぎた頃だった。今店に残
っているのは最後まで店の前を守る高岸とバーテンの坂井、そしてマネージャーの下村だけだった。
 手馴れたはずのグラスを磨く麻布の先が、微かに震えているのが自分でもよく分かる。ともすればグラスを取り落とす
のではないかと心配しながら、どうにか最後のひとつを棚に戻し、ほっと息をついた。
 その時、既に明かりを落としたエントランスから、下村が不意に顔を覗かせた。
 それはつまり、外に控えていた高岸を帰途に付かせた合図だった。
 それに危うく揺れそうになる肩を宥め、そっと麻布を畳んだ。
「もう、終わるか?」
 薄暗いホールの中央を突っ切り、暗がりから下村が声をかけてくる。それに曖昧な返事を返しながら顔を上げると、
下村は唯一明るく電灯を灯したカウンターの少し手前で、フト足を止めた。カウンターの表面を滑るように照らす明かり
は下村の足元を明確に照らすものの、その上半身までは届かず、返って足元の明かりに目が眩んでよく見えない。坂
井は急に歩みを止めた下村を訝しんでその表情を確かめようとするのだが、どうにも明かりの中に居る坂井からは上
手く見ることが出来なかった。
「下村?」
 それきり動かなくなったその足元を見、顔の辺りに目を泳がせる。下村が微かに首を傾げたのは分かった。
「下村」 
 今度は問いかけるのでなく、こちらに来ることを促した。それでも下村はそこから動こうとはしない。
「…どうしたんだよ?」
 闇に眩む視界が疎ましく幾分声を荒げて坂井はカウンターに身を乗り出した。迂回するほどに心にゆとりがない。胸
が不用意にざわめいた。
「坂井」
 漸く切り出したその声はまるでのっぺりとした具合だった。それに余計に不自然なものを感じながらそれを読み取るこ
とができない。もし下村の表情を確認できるとしたのなら、唯一光の中で浮かび上がる下村のその両腕だけだった。し
かしそれもだらりと体の側面にたらしたまま、ピクリとも動かない。
 仕方なく、それをじっと見つめた。
「坂井」
「…なんだよ」
 どこか余裕のない受け答えだ。許されているのかも分からない坂井には、こんな風にされるのはどうにも辛くて仕方
がない。
 また拒絶されるのではないか。
 そればかりが頭を埋める。
「なあ、こっちこいよ」
 乗り出した手を差し伸べても、下村までは届かない。
 まるで今の自分たちの状態だ。
 坂井と下村の心の隙間の様だ。
 「なあ、こっちへ来てくれよ」
 幾分か哀願になるのも厭わずに、坂井は手を差し伸べた。もう震える指先を見られることなど、どうでもよかった。
 何よりも今、この距離を縮められるのなら。
 それでも下村はやはり動かない。薄ぼんやりとした暗がりに半身を埋めたまま、その手はちっとも動かない。
「しも…っ」
「俺は」
 呼びかけは途中で途絶えた。
 遮った小さいのによく通る凛とした下村の声が、その先を許さなかったからだ。
「俺はもう、ダメだ」
「だ、ダメって、何がダメなんだよ。な、何が」
 ぼんやりとした不安に、喉が掠れる。このまま、カウンターを乗り越えて。思った時には既に体は動いていた。普段で
あれば絶対に許さないような暴挙を坂井に易々と許すのが、坂井にとっての下村という存在だ。
 頭のどこかで足跡のくっきりと付いたシンクの縁やカウンターの木目を思いながら、伸ばした手は漸く下村の腕を捕ら
える事に成功する。
「何がダメなんだよっ」
 開店前の謙虚さなど忘れた勢いで言い募る。暗闇の中に浮かんだ下村の顔は無表情にこちらを見返していた。
「ダメだ」
「だからっ何がっ」
 じっとこちらを見ているのに、下村は坂井を見ていないのではないか。背を押す不安が形を伴って背後に忍び寄る気
配を感じて坂井は身を竦ませた。それがどうにも指先に震えとなって表れて、どうしようもない気分は増すばかりだ。
「俺はお前が好きなんだ」
「…へ?」
 キンと辺りの空気の密度が急に増したように耳が痛んだ。ぐらりと平衡感覚を失って、坂井は危うく昏倒しそうになっ
て慌てて足を踏ん張った。
 今いったい、何を言われたのだろうか。
 混乱の予兆を孕んで、耳鳴りは鳴り止まない。
 しかし下村はそんな坂井の瀕死の体などお構いなしに、次々に言葉を継いだ。
「もうダメだ。お前のこと諦めようかと思ったけど。…お前のせいだ」
 下村はそれだけ言うと俯いた。
 その顔はまるで無表情のままなのに、そんな甘い事ばかりを囁く下村を坂井は信じられないものを見るように見返し
た。
「お、俺の事、好き…?」
「ああ」
 視線を落としたままハッキリと簡潔に頷く下村に、坂井はもしかしてこれは夢か、夢を見ているのかと、躊躇なく思い
切り頬を抓った。
「ぁ痛っ!」
「…?何やってんだ」
 驚いて顔を上げては胡散臭そうにこちらを見る下村を尻目に、容赦なくつまんでしまった頬がヒリヒリと痛んだが、最
早坂井にはそれは瑣末な事にしか過ぎず、それよりも今重要なのは、どうして下村がこんな事を言い出したのかという
ことばかりだった。本来であれば告白の言葉に半ばずれたタイミングとはいえ好きだという答えが返ってきたのだ。素
直に喜ぶべきところではあったが、この目の前の無表情を見て、はたしてこれは真実かと疑うのは道理であった。その
上、諦めようと思ったなどと、坂井からすれば甚だ心外だった。どうにかそうなろうと苦心を重ねた坂井がまるで馬鹿の
様だ。理屈で言えばここは坂井が怒ってもいいところであったかもしれないが、如何せん、目の前の下村は無表情とは
いえ至極真剣な様子であったし、その唇は坂井の望む言葉をつむぎだしたのだ。
 ここは怒るべきではないだろう。
 混乱の中にも出口を見出し、坂井はしっかりと下村の目を覗き込み、その両肩に手を置いた。
「何で諦めるなんて言うんだよ。俺はお前が好きなんだ。諦められたら、困る」
 下村は少し考えるようにじっと坂井の目を探った。それを見返し、たまらなくなって坂井は両手を肩から背中へと滑ら
せその体を抱きしめた。
「俺のせいでもなんでもいいよ。俺を好きでいてくれるのなら」
 下村の耳元に頬を寄せ、摺り寄せる。外の空気に冷えていた耳が、冷たく坂井の肌を擦った。
「…後悔するぞ?」
「クソ食らえだ」
「…下品だな」
「生まれつきだ」
 儚い空気のたわみが、下村の微かな笑いの気配を伝えた。そうして下村はそっと坂井の背中に手を回した。
「馬鹿だな…。お前が苦しむだけだ」
「それでも構わない。お前がここに居るのなら」
 背を撫でる下村の両腕を感じながら、目を閉じる。
 下村が何故そんなことを言い出したのか坂井には分からない。いや、分かる気はしたが理解できなかった。下村を好
きだと思う。それだけで坂井は傍にいたいと思う。けれど下村はそうではないということだ。それは相反する事の様に思
えたが、それはあくまで坂井の主観であって下村のものではない。どう望もうと、決して坂井は下村には成りえない。そ
れは下村もまた同じことだ。
 でも、だからこそ惹かれるのだと思う。
 自分の中には無いものを相手の中に見出し、それをどこか許せない気持ちで居ながらも、惹かれる事を止められな
いのだ。
 たとえ強い光に目が眩み、失墜の憂き目にあったとしても。
 漸くしっかりと腕の中に捕らえた下村の体温が、布越しにその存在を確かに伝えてくる。情けない気持ちや憤り、遣る
瀬無い事や諍いはこれからも絶えないだろう。その度に相手を傷つけたり、心を苦しめることもあるだろう。それでもこ
の手の中から下村の存在がすり抜けてしまう喪失を思えば、それさえも甘い痛みとして受け止めることができる。
 坂井は抱きしめた腕はそのままに、そっと上半身を離して下村の顔を見た。
 目を伏せていた下村がゆっくりと顔を上げる。グラスに反射した光がその目に映り、キラリと虹彩を閃かせた。
「好きだ。もう、どこにも行かないでくれ」
 額をひたりと近づけ、下村の額と合わせる。近すぎて焦点の合わなくなった目は閉じた。波立つ感情が胸を満たして
泣きたい様な気持ちだったが、それはあえて我慢した。これ以上下村にみっともないところを見せなくないという些細な
意地だった。しかしそれも下村の次の一言であっけなくも崩れ落ちた。
「お前がそれを望むなら」
「下村…」
 そっと、触れるだけのくちづけを感じて、坂井は額を離して目を開く。拍子に零れた雫が、頬を伝った。
「お前がそれを望むなら。俺はお前の傍に居る」
 そっと、微笑んだ。































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副題「君にメロメロ」