dance with me . ⅰ 港から街の中心まで、一直線に繋ぐ上り坂を全速力で駆け上がる。 タバコで傷んだ肺が途中で何度も悲鳴を上げ、空回る足が縺れて何度も転びそうになっては持ち直す。 それでも顔だけは真っ直ぐ前を見据え、走り続けた。 あいつの姿が見える寸前に立ち止まっては息を整え、今までの必死の形相などそ知らぬ振りで声を掛ける。それでも額の汗は隠せずに、ばれて しまうだろうけれど、きっと気づかないように憮然と、それでも目元を和ませるに違いない。それが早く見たくて心は逸るのに、足がもつれて上手く いかなかった。 「ちっくしょうっ」 俺ももう年か、なんて思ってもいない言葉を吐きながら前を見る。あいつが居るはずの公園の森林が段々と近づいてくるにつれて疾走のせいでは ない鼓動の乱れを感じて膝を折りそうになった。 怖い。でも、こんなにも会いたいと思う。 耳障りなほど乱れた息が、忙しない。余りの醜態に振り返る人の群れなど、もはやなんの妨げにもならなかった。 自信も実績もある脚力を存分に駆使しながら、それなのにじれったいほど縮まらないあいつとの距離。 「くっそっ！」 常人からすれば驚異的なタイムで駆け上がりながら、脳裏に浮かぶのはあいつの笑った顔、怒った顔、困った顔。ずっと見ていたかった、でも叶 わなかった数々の面影が、走馬灯のように走るその中で、何よりも強く思い出せる顔があった。 『行ってくる』 そう言って浮かべた、あるかなきかの儚い笑顔。 そのままひらりと船首から身を躍らせたあの日。 強風の中になっても尚、涼やかなその声は仲間の誰一人として漏らさず響いた。 その日は、未明から風が強く、ナミをして航行を危ぶむほどの剣呑さを孕んだ天候だった。 グランドラインにあって、早い段階からそれらを予測するのは難しい。総じてその時点で嵐を見越すことが出来たのはナミであったからだ。大抵の 場合は、船の直ぐ後ろにまで迫って初めて嵐を認識する事が多い。 しかし予測できたからといって油断できる訳ではない。大概の事には鷹揚に構える余裕を身につけたナミが不安に顔を曇らすのを見て、一同は 無言の内にこれから訪れる嵐が、今までで一番危険なものになる予感を覚えずにいられなかった。 そして、それは起こった。 嵐の襲来に時を同じくして、重ねて船を襲ったものは同業者の敵船と海軍の襲撃だった。 正確に言えば海賊船を追って来た海軍の船に、こちらまで引っ掛ってしまったのだ。 早い風足に舵を取られた二艘の船が、こちらに向かってくるのをただ黙ってみているわけにも行かず、力の限りに舵を切ってはそれを交わそうと する。それを何度も繰り返し、どうにか二隻の軌道から逃れる事が出来たと思った時だった。 「俺は、行かなくちゃならねえようだ」 不意に、マストのロープを補強のために引いていたゾロが呟いた。 「ゾロ？どうしたの？」 急に動きを止めてしまったゾロに、当然ナミが不審の声を上げた。しかしそれはたまたま一番近いからナミが皆の言葉を代弁したに過ぎない。 ただ純粋に、何を言っているのか、分からなかったのだ。 しかし何も言わないまま、じっとひとつの方向を見続けるゾロの視線の先を追った時、誰もが気づいてしまった。 鷹の目のミホーク 海軍船の甲板には、横殴りの風などものともせず、静かな佇まいでその男は立っていた。 そして、その目はじっとゾロに据えられている。 だから、分かってしまったのだ。 剣士は、出会った時が勝負の時なのだ。 場所も時間も、状況さえ関係ない。 今が、二人の死合いの時なのだ。 「ゾロ」 呆然としている皆の後ろから、声を発したのはルフィだった。 いつもはふざけたような素振りの口元が、ぎっとかみ締められている。 叫びだしたい言葉を戒めるかのように、口元には血が滲んでいた。 「行ってくる」 それきり振り返りもせず、颯爽と海軍船と一番接近していた羊の船首から、ひらりと身を翻した。 今でも、寸分違わず思い出せる。 嵐にもまれた船。折れるメインマスト。逃げまどう人の群れ。火花。弾薬の焦げた匂い。連鎖的な爆発音。沈み行く船。 そして、一瞬捉えた、甲板で向き合う人影。 その直後に起こった爆発で二人の姿は煙の向こうに消え、それきり帰ることのなかったゾロの笑顔が、サンジの胸に何時までも住み着いた。 「っはあ」 公園の入り口でぴたりと足を止め、大きく息を吸い込んだ。過剰に働きすぎた肺がぜいぜいと喘息のように戦慄いて情けない。 それを何度も撫で下ろしては呼吸を落ち着け、吸い込んだ先から漏れる空気を希求しながら、本当は、落ち着かせたいのは呼吸ではなく気持ち なのだと思った。 何とか落ち着き始めた、でも明らかに乱れた息のまま、待ちきれない思いでサンジは歩き出した。 街の高台にあって、森林を湛えた園内に人影は少なく、ああもう夕飯に近い時間なのだと今になって思い、すっかり失念していた事に驚いた。船 を出る時ナミに食事のことなどどうでもいいから、早くあの迷子を迎えに行ってくれと言われたのは覚えていたが、それ以後の時間の感覚が覚束 ない。如何に自分が落ち着きなくここまで息を切らせてきたのかということを、改めて見せられたようで酷くばつの悪い思いだった。 本来であれば、あの船の三度の食事を作るのは、自分の役目であり、誇りでもあった。 それなのにそれさえも頭から飛ぶほどに、ひとりの面影にだけ気を取られていた事に驚き、そして知るのだった。 自分が、どれほどにゾロを思っていたのかを。 「ちっ」 疾走のせいで上がった体温には不快なだけのジャケットを脱ぎ、胸ポケットを探ったところでタバコを忘れた事に気がついた。 本当に、自分はどうかしている。 ひとつ取ってはまたひとつ。まるで見せ付けられるが如き己の心情を思って、サンジは舌打ちした。 そうは思ってみても目は辺りを忙しなく探り、耳は何か聞こえはしないだろうかと鋭敏に澄まされた。 うっそうとした木立が邪魔をして、先が見渡せないことに気が焦る。 五年だ。アレから五年が経った。 二隻の船が沈み、その後の残骸の中をゾロを求めて皆無言で探し回った。 そこに見つからないと分かったら、辺りの島をしらみつぶしに回って歩いた。どこかにゾロの痕跡はないかと神経を尖らせた。 しかしゾロの痕跡も足跡も見つけることは叶わず、誰もが胸に最悪の予感を感じた時、ルフィはいきなり大声で笑い出した。 それを何事だ、気でも違ったかと（実際、ルフィはゾロの事となると、少々常軌を逸した行動を取る事が稀にあった）訝り、心配する中で、ルフィは 言った。 「やっぱりゾロは迷子の天才だな！」 晴れやかな顔だった。迷いのない顔だった。ルフィはその一点の曇りもない笑顔で、ゾロはどこかできっと生きていると言ったのだ。 皆は一瞬きょとんとして、次の瞬間には大笑いだった。 「まったくその通りだわ！」 迷子の天才児が一人でまともに帰ってこられるわけがないと、誰もが信じた。 ゾロに何かあったわけがない。ただ迷っているだけだ。 それでもどこか消せない胸の痛みを感じたまま、船は進んだ。 ゾロが何時帰ってくるかと、皆で賭けの対象にしたりもした。 「私は一ヶ月に一万ベリー」 「じゃあ俺は半年に一万べりーだな」 「俺は金なんか持ってねえぞ？」 「じゃあお前は、夕飯の肉賭けろよ」 「い、いやだ！！」 「で、何日にするんだ？」 「う、じゃああ俺は三年！」 「どういう根拠で三年なの？」 「石の上にも三年だからだ！」 「･･･お前、意味分かってねえだろ」 尤もなウソップのツッコミにもものともせず、ルフィは笑った。 そんな中、ゾロの名前は不意に皆の前に姿を現した。 「大剣豪」の名前と共に。 あの嵐の中、二人の勝負の行く末を見たものがいたこと。そしてあの嵐の中、ゾロが流れ着いたのはどこかの旅客船であったらしいこと。 人づての噂に過ぎないそれが、それでも確固たる形を持って、それは皆を良喜させた。 生きていた。ゾロが確かに生きていた。 その手に、長年の夢を携えて！ 誰もが仲間の生存と、その偉業を称えて歓喜した。 皆泣いたり、笑ったり、その日は徹夜で乾杯を繰り返した。 しかし予想に反して、その名を聞いてから三年経ってもゾロが船に戻ることはなく、ルフィはふざけた素振りで賭けは俺のひとり勝ちだと笑ってい た。それでもその目が笑っていなかったことにサンジは気づいていた。 いや、本当は皆分かっていたんだろうな。 それでも、それが現実になることを恐れ、言葉にすることは憚れた。 実際、三年経ち、更に二年の時を経てもゾロは戻らず、言わないまでも皆、胸の中で思う気持ちは一緒だった。 ゾロはもう、この船には戻らないつもりかも知れない。 夢を果たし、もうこの海への未練はないのかもしれない。 剣の道に、誰よりも真剣だったゾロ。でも、決して暴力を好むような男ではなかった。それならば、己の道を果たし、故郷に帰ったところで不思議 はないのではないか。 通り名にそぐわない、普段の穏やかな様子を知るクルー達は、そんなはずはないと信じながらも不安を隠しきれなかった。 しかしそんな折、クルー達の元に届けられた一通の手紙。 ひっくり返した先にあった名前に、誰もが驚いた。 ゾロだった。 広葉樹が連なる街道を抜けると、とたんに辺りは開けて視界が広がった。 恐らく公園の中心に当たるその場所は、そのまた中央に丸い形に花壇があり、その中に噴水がしつらえてあった。 涼しげな音をたてて水が流れ落ちるのに、サンジは知らずほっと息をつきながら、ネクタイを緩めて力を抜いた。いつもとさほど変わらない呼吸と は逆に、心拍数だけが矢鱈と打つので、その音が自分の足音なのか、それとも耳鳴りかと思いながら、サンジは歩幅を増やし、足を速めた。 ぽつりぽつりと瞬き始めた夜空の星に呼応するように、等間隔で立つ街頭に灯が灯り始める。澄んだ空気は夕闇を刷き、いつの間にか遅い夜を 迎え始めていた。 懸命に目を凝らし、耳を澄ます。その気配を見逃さないように。 ああ、こんなことならば、もっと正確に時と場所を指定してあればよいものを。 気ばかりが焦ってサンジは何度もぐるりと体ごと反転させながら辺りを伺った。 暗くなる時間。噴水の袂で。 ゾロらしい約束の言葉。でも、それが約束であるのなら、それは必ず果たされる。 不意に、サンジは噴水の向こう側に、誰かがいる事に気が付いた。それにぎょっとして目を凝らす。全く気配がしなかったからだ。 「･･････っ」 分かってる、分かってる。本当はもうそれが誰かなんて分かっている。 それでも未だ顔も見えない現実はにわかに信じ難く、サンジはそれこそこのまま心臓が止まってしまうのではないかというほどの動悸を感じて無 意識に胸の辺りを握り締めていた。 早く確かめたい。声を聞きたい。それなのに足はもつれて倒れそうになり、耳は鼓動で耳鳴りを起こしてよく聞こえない。 余りの緊張に危うく吐きそうになりながら、サンジはよろけた足を花壇にぶつけて声を上げた。 その声に、噴水の向こうの人影が、こちらに気づいて振り返った。 「･･･よう」 「ゾロ･･･」 五年ぶりの再会だった。 |