目の前でむっとしたまま押し黙っていると、下村は困ったように眉を顰め、考えるように顎を擦って息を吐いた。 「だから先月の中頃に言っただろう。この週の週末は出かけるって」 そう言って下村は腕を組んで溜息らしい溜息を付いた。 それを言われると身も蓋もない。確かに言われたのを思い出したからだ。 しかし坂井はそんなことはすっかり忘れていた。 それよりも、もっとずっと大きなイベントを前に、すっかりそんな瑣末な(本当は瑣末ではないのだが)事などしっかりさ っぱり頭から飛んでいた。 「・・・今から取りやめは出来ないぞ」 「・・・そんなこと、考えてねぇよ」 びくりと肩を揺らして下村を見る。思わず浮かんだ不謹慎な考えを見事に言い当てられて、坂井は罰の悪い思いで目 を逸らした。 中身のない言い訳は下村には分かってしまったようで、少し困惑したような表情を口元に乗せた。 「先方のアポも取ってあるし・・・」 しかし予想とは違う困ったような下村の言葉に驚いて視線を戻した。 下村はいつの間にか明後日の方を向いては、ブツブツと口の中で独り言を繰り返している。彷徨様に行ったり来たり と視線は忙しない。 「下村・・・?」 当然いつものように呆れられ、溜息を吐かれ、軽くあしらわれてこの話は終わりになると思っていた矢先に、そんな風 に返されて坂井は混乱して下村をじっと凝視した。だが肝心の下村はそのあからさまな視線にさえも気付かず、含んだ 言葉を何度も繰り返しては否定するように口元を手で覆ったり、指を軽く擦ったりと忙しない。 「・・・いや、うん・・・。どうかな・・・」 暫しそんなことを繰り返す下村を眺めていた坂井だったが、どうやら落着の様相を見せ始めた下村の呟きにほっと息 を吐く。自分の世界にすっかり入り込んでしまった下村をそこから引っ張り出すのは、坂井とて容易ではない。特に仕 事に関すること、更に重要な取引先との今後の契約更新の事例となれば尚更だった。 ブラディ・ドールで扱っている酒や食品は、全て一括して同じところから商品を取っているわけではない。 商品別に見て価格の安いのはもちろんのこと、商品の質、納品の確実性、果ては倒産の危険性の有無まで見分け て、それぞれ個々に発注を上げている。本来そういった受注の関係は本社の受発注担当者が各店舗からの要望を受 けて比較検討を繰り返し、各問屋に商品の発注を上げるのだが、例外的にブラディ・ドールの酒類に関する発注にの み坂井や下村のチェックが入る事になっていた。当然下村が来る前までは全てのチェックは坂井が一人で引き受けて いた。しかし下村が入り、慣れてきた頃から簡単な引継ぎをしただけでその役目は下村のものになった。 元々、坂井は商売人との所謂商談や価格面での駆け引きなどしたことがない。特に酒類の問屋は食品や雑貨と違っ て特殊な面を持っている為、担当者の微妙なさじ加減一つで大分価格が変わってきてしまうのだ。坂井が不当な値段 で仕入れをしていたわけではなかったが、もう少し経費を削れないかと経理から打診を受けていたのは事実だった。 そこへもって下村の登場である。 畑違いとはいえ、商談や取引には慣れた手腕の下村が何度か取引先との打診を続けるうちに、今まであちらこちらと 発注を変えていたのが少しづつ絞られ、大量入荷や定期的な発注の安定性を買われて仕入れ値が格段に下がった。 結局酒の卸しで落ち着いたのは、横浜に本店を置き、幾つかの営業所を抱える外資系の洋酒輸入会社だった。 地元で酒を仕入れれば、便利なことも多いがそれだけ面倒も付きまとう。そう言ったのは下村だった。確かに色々な しがらみや付き合いがそこから発生するのは否めない。下村の意見に反論する者も特に居なかった。 そんな流れで下村が幾つか上げた中から更に検討した結果、堅実且つフットワークの軽い店を選んだ。 棚に酒を切らすなんてドジは坂井がするわけもなかったが、納品は迅速であればあるほど利便がいい。 その時から、酒の仕入れは下村の担当になった。 それで坂井は正直ほっとした。付け焼刃の自分ではどうにももう一歩踏み込めないと感じていたところも、全て下村が クリアしてくれたからだ。 ただ酒を造っていられればそれでいい。 坂井の思考は何時だってシンプルなのだ。 しかしそれが今回は完全に裏目に出た。坂井は自分の迂闊さに今度ばかりは自分を呪った。 自分の手から完全に離れた仕入れ関係のスケジュールに、坂井はいつの間にか疎くなり、契約に関することなど完 全に門外漢だった。 その為今回の価格見直しの商談に、下村が受注担当者と横浜に出張することになっていたことなど、すっかり忘れて いたのだ。 それもよりによって、花火大会の日に。 「間に合うかどうか・・・ちょっと微妙だな」 「へ?」 不意に下村は顔を上げ、坂井を見た。しかし当の坂井は、一瞬何を言われたのか分からない。 下村は左手でテーブルの端を何度か叩くと、考えるように鼻を鳴らした。 「話がスムーズに済めば、五時・・・六時くらいには向こうを出られるが・・・」 下村の言葉に、坂井は途端に真意を理解して胸が震えるのが分かった。 いつもどうでもよさそうにしている下村が、どうにか坂井のただの我侭を適えられはしないかと、苦心している事に気 がついたからだ。 「し、下村?付き合ってくれるのか?」 しかしどうにも信じられないような心境で坂井は危うく喉を詰まらせて問いかける。すると下村は今更何を言っている のかと言うように眉根を寄せた。 「だから、間に合うかどうか分からないぞ。最悪間に合っても、駅前で音を聞いて終わりにもなり兼ねないから・・・」 「いい!それでもいい!それに駅からも花火は見えるから!」 「そ、そうか?」 突然意気込んだ坂井に驚いて、下村は後ろに少し下がった。坂井はすかさずそれを追い、肩を掴んで強引に抱き込 んだ。 「ありがとう!下村!」 「あ?ああ」 ぎゅうっと苦しくなるくらいの勢いで閉じ込めて、耳元に軽く唇を落とした。 どうやら坂井の興奮がよく理解できていないらしい下村は、戸惑ったように頷いた。 しかし次の瞬間にははっとして、ペシッと坂井の頭を右手で叩いた。 「離せよ」 下村は店内でこんなことをするのを許さない。 たとえ閉店後で誰も居ないことが分かっていても。更衣室にはしっかり鍵を掛けていても。驚いて困惑していても。 「あ、と。悪ィ」 本当はもう少し手触りを楽しんでいたかったのだが、ここで下村の機嫌を損ねるのは得策ではない。 坂井は言われるまま素直に腕を開いて下村を開放した。 下村は珍しく大人く離れた坂井をまじまじと見つめると、口元だけで小さく微笑んだ。 「また後でな」 よしよし、という様に頭を撫でられて、坂井は罰が悪くてやはり目を逸らしてしまうのだった。 しかし内心ではうっかり絆される下村が可愛くて、そんな風にしてくれることが嬉しくて、その気持ちが愛しくて、今すぐ 抱きしめたいのを堪えるのに精一杯だったのだが。 ああ、今週末は、待ちに待った花火大会だ。 夏といえば、花火! 夏といえばコミケ! 夏といえばロックフェス! 海と山は却下!(個人的事情により) |