深く閉じた目蓋を強引に上げると、部屋は一面の夕焼けに埋め尽くされていた。 いつの間にか雨の上がった曇天の隙間から斜めに差し込んだ光は、ソファ横の床に二人で身を寄せ合うように何時 の間にか眠り込んでいた二人をも同様に焼き付けている。 その中でぼんやりと目を何度か瞬かせ、坂井は耳鳴りのようになり続ける音の根源に視線を彷徨わせた。 電話が鳴っている。 目に映る事象は着信のランプが忙しなく点滅していることで了承できた。しかし思考が上手く付いてゆかず、ならばど うすべきであるかまでは容易に結びつかない。何時の間に沈殿した暗い感情の波を胸に押し込まれたままの様に、考 えが纏まらなかった。 しかしこのままでは、浅からぬ眠りを漸く手にした男まで起こしてしまうという事にどうにか辿り着き、本来であれば一 時でも離れがたく思うその柔らかな体温からようよう体を引き剥がした。 「・・・はい」 喉の奥が張り付いたように声が上手く出ない。這いずって近寄った床に自分の軌跡が残ってはいないかと、何故か 坂井は気になって振り向いた。しかし当然そこにはただ赤々と染め上げられた部屋があるばかりで、期待していたよう なものは何一つとしてなかった。 「・・・・・・」 くぐもった様な受話器の向こうの空間から返答は無い。ただの無言電話かと、坂井は溜息を吐いて戻そうと耳から離 した時微かに聞き馴染んだ音を聞いたような気がして、用心深くもう一度はっきりと「もしもし」と繰り返した。 『・・・もしかして、坂井さん?』 「安見?安見か?」 咄嗟にしまった、という考えが坂井の頭を過ぎった。ここが下村の部屋であることを上手に失念していた。こんなとこ ろばかりは、はっきりと区別を付けたがる下村に後からどやされることが今から思われて、坂井は途端に気分が塞い だ。 『私、間違ってかけちゃった?』 「いや・・・あってる。下村の家だよ」 溜息が向こうに伝わらないように上手に隠しながら、坂井は相槌を打った。余計な事を言うな。脳裏に浮かんだ男の 冷たい横顔も、今であれば道理と受け止められる。 確かに自分は迂闊すぎる。 『びっくりしちゃった、だって、坂井さんすっごいガラガラ声なんだもの』 「悪いな」 密やかな笑いの気配が伝わってくる。 安見が変な勘ぐりをするなどとは、思ってもいない。そういう意味では、相手が安見で本当に良かった。 これか他の誰か・・・強烈な個性に彩られた面々でなかったことばかりが唯一の救いだ。 「で、下村に用なんだろう?」 『あ、うん。下村さんは?』 「今、は・・・ちょっと・・・・・・寝てる」 『そうなの』 どうにも言いよどむ坂井とは対照的に、さほど気にした様子もなく安見はけろりと言うと、じゃあ伝えておいて欲しい の、と続けた。 「ああ、何?」 『あのね、猫の事なんだけど』 「・・・猫?」 『うん』 それを聞いて、坂井の背がぎくりと固まった。反射的に聞こえているはずもない下村を振り返る。テーブルの影で見え なかったが、穏やかに上下する肩は眠りのリズムを崩してはいなかった。 「ここに居た猫か?」 『あ、坂井さんも下村さんから聞いてたの?』 それじゃあ、話が早いわ、と安見のペースは崩れない。 居なくなった猫の話を快活に話す安見に、坂井は自然と眉がよった。安見の声に猫の不在に対する陰りが感じられ ない。 『じゃあ、無事に生まれたから心配しないでって、ありがとうって言ってたって、言っておいてほしいの』 「・・・・・・・・・なんだって・・・?」 『だから、下村さんに預かっててもらった猫の・・・坂井さん、聞いてたんじゃないの?』 どうにも話の通じていない坂井に、安見の声に不審が混じる。確かにどうにも話が通じない。一番もどかしいのは坂 井本人だ。 「ちょっと、ちょっと待て、安見。あの猫、死んだんじゃなかったのか?」 理解出来ない内容に、坂井は受話器を片手に額を覆う。ただでさえ寝起きで冴えない頭が、ギクシャクと思考を整理 しようとするのにどうしたって上手くいかない。しかし安見にしてみれば、そんな坂井の様子など知る由もなく、坂井の知 らない、知らない方がいい事実を確実に耳元に届けた。 『死んだ・・・?まさか!ちゃんと飼い主の所に戻ってるよ?ただ、一緒に飼ってる猫が出産で神経質になってるから、そ の間だけ下村さんに預かってもらってただけで・・・坂井さん?坂井さん??』 何の反応も返さない坂井に、安見の呼びかけは既に心配の色を含んでいる。 坂井は目を瞑って何度か大きく息を吐いてから、口を開いた。 「分かった。下村には伝えておく・・・。うん。じゃあ・・・」 混乱はほんの少しの間だけだ。間合いを計るようにゆっくりと受話器を置き、心配そうだった安見の様子が気になり ながらも、坂井は体を反転させて窓側に体を向けた。 「・・・下村」 足を進める度に、床板がぎしりと鳴る。緩やかな歩調にそぐわない力がその足にかかって床に悲鳴をあげさせる。 「下村」 その声は先程より力を込めて、尚且つ大きめだ。それなのに下村の眠りのリズムは変わらない。 坂井は震えそうになる肩を数度の呼吸で抑制しながら、それでも耐え切れずに微かに揺れる肩をいからせて、穏や かにすぐ傍まで近づいた後、大きく足を振り上げた。 「起きろー!人の純情、踏みにじりやがってー!」 突然の殺気と大声に、信じられない敏捷さでばちりっと下村の目が開いた。 その後、下階の住人から苦情が来るまで二人の争いはエスカレートし、それでも止まらず果ては警察沙汰になる寸前 に、安見から頼まれて訳も分からず訪ねて来た秋山が慌てて止めに入るまで、二人の殴り合いは続いたのであった。 終 だから、がっくりですよって・・・。見ない方がいいですよって・・・。 これでは流石にちょっと申し訳ないので、おまけをつけてみました。 |