あらん限りの力を込めてこぎ続けた自転車のペダルがぎしぎしと不穏な音を立てる。それでもサンジは踏みしめる足 の力を緩めようとはまったく思わなかった。 「ちくしょう・・・っ」 口の中で呟いて、サンジは半舜目を閉じた。視界の端を次々と流れる街並みが気持ちを慰める訳も無い。遅々として 進まない道筋を、イライラと睨んだ。通常であれば驚異の速さであっただろうが、今のサンジにはどうしようもない永遠 の隔たりのように感じた。 「それ・・・どういうことですか?」 「言葉通りの意味よ」 斜めに差し込んだ太陽の光が、鮮明にナミの美しい髪を輝かしている。それをいつも通りの社交辞令でない気持ちで それを褒め称え、サンジはナミの正面に腰掛けた。 「ゾロが・・・街を出るって・・・」 かたん、と持ち上げかけたライターがテーブルに落ちた。銜えかけた煙草は手の中だ。 それきり黙ってしまったサンジに、ナミは小さく何事かの意味を込めて溜息を吐き、手元のグラスから少しだけ良く冷 えた紅茶をストローで吸い込んだ。 「元々ゾロは根無し草だもの。大体、ここにこんなに長くいることの方が意外だったわ」 本当はその浮き草を引き止める為に、あらん限りの細工をしたことなどおくびにも出さず、ナミは素っ気無くそういっ た。 サンジはナミのその言葉にも何も言わず、ともすれば細かに震えそうになる指先でもう一度煙草を銜え直すことしか 出来なかった。 「だから私は、明日ゾロがここを出て行っても驚かない」 ナミの声に感情は無い。あえてそうしているのは分かったが、何故そうするのかサンジには分からなかった。 午前中の喫茶店は客も少なく、店員も退屈そうに外を眺めて欠伸をしている。シンとした店内に低くクラシックが流れ ていた。 ナミから時間があるかと問われたのは二日ほど前のことだった。サンジは丁度その時変えられないシフトの上にい て、結局空いたのが今日の午前だった。今日の夕方にはまたシフトの上だ。それでもそれまでは十分に時間が取れる とサンジは喜んだが、ナミは浮かない顔でサンジの笑顔に答えた。 「ナミさん?」 空はこんなに澄んで美しく、ガラス越しの太陽が屈託無く伸びやかな手足に注いで冷房に冷やされた素肌に心地よ い。それなのにナミはなんだか泣きそうな顔だった。 それが謂れの無い悲しみをよんで、サンジは眉を顰めた。 そうしてナミは言ったのだ。 ゾロは、街を出るつもりかもしれない。 「でも・・・どうして・・・?」 呆然としていたサンジが、今度こそ震える声を抑えきれずに問いかけた。 ゾロが、街を出る。 ゾロが・・・居なくなる? ナミは困ったように首を傾げ、それでも口元には微笑みに似た歪みを浮かべた。 「ゾロのバイトって、知ってる?」 サンジは頷く。 ゾロが以前用心棒の様な(事実そうなのだが)仕事をしていたのは知っていたし、今も時折その様な仕事をしている のは知っている。時々長いこと部屋を開けるのは、それが理由だということも。一度理由を聞いたとき、ゾロは面倒そう に給金がいいからだ、と言っていた。 それ以外の理由は知らない。 ナミは小さく溜息を吐くと、指先で弄んでいたストローで紅茶を一口飲み込んだ。 「ゾロはずっと、腕試しの為に海を渡ってた。それがルフィと会って・・・そのままここに居ついちゃったの」 「腕試し?」 「そう、剣術の」 そう言ってナミは腕を振り上げて刀を振り下ろすような仕種を真似る。細い腕が目の前を上下した。 「私ね、ここに来る前からゾロの事、知ってた」 サンジは驚いて目を瞠る。ナミは初めてヒミツを打ち明ける子供の様に口を尖らし、目を伏せた。 「私も・・・まあ、色々あって、行く先々でゾロの話は聞いてた。ゾロを雇う為に幾らでも出すって人もたくさん居て。だから ゾロが突然小さな仕事しかしなくなった時、いろんな憶測が飛んだわ」 テーブルに両手を揃えて、ツメを見比べるような仕種をサンジは無言で見つめ、黙って次の言葉を待った。 「ゾロは本当は死んだとか、結婚して国に落ち着いたとか。・・・海賊になったとか。でも違った。ゾロはここに居て、何時 の間にか私と同じアパートに住んでた」 びっくりしちゃった。そう言ってナミは顔を上げるとカラリと笑った。まったく屈託がない。 それは大層魅力的ではあったが、今のサンジには他の事に気を取られてそれどころではなかった。 「でもあいつ、金のためって・・・」 ゾロは確かにそう言った。嘘のつけない男である。後ろ暗いことなどまったく出来ない男なのだ。 「そうね。今のバイトは、あくまでお金の為だわ。だから・・・」 今度は打って変わってナミの表情は薄暗い。サンジは急に口を塞がれたように息苦しくて喉が詰まった。 「ゾロはこの街を出るつもりかもしれない」 結局灯されずに終わり、テーブルに転がる煙草の後を目で追いながら、サンジはやり切れずぎゅうと目を閉じた。 そして今更ながら自分が余りにもゾロについて何も知らなかったのだという事を、現実として目の前に突きつけられた 気分だった。 「・・・エースが」 ぴくんっとサンジの肩が跳ねた。しかしナミは手元を見ていてそれには気づかない。 「エースがゾロを誘ったらしいって、ルフィから聞いて。それは・・・お金のためではないのよ」 本来の意味で、金の為にゾロが動かされることは無い。逆を言えばそこに自分の意思があるのなら、ゾロは迷わずこ の街を捨てるという事なのだ。 「ゾロはエースに懐いてる。エースはゾロを求めてる。・・・ゾロをここに縛るものは何もないのよ」 どくんっと心臓が高鳴った。ますます細くなる吐息が、胸を責め苛んだ。血の気のひいた顔は赤みを失い、青よりも白 に近い。ナミはどこか果敢無く震えるサンジの顔を見、これ以上ないほどにギリギリまで引き絞った眉を手で覆った。 がたんっと突然サンジが立ち上がると、厨房の入り口に立った店員が驚いてビクリと震えた。 「サンジくん・・・?」 長い前髪が目元を隠す。陽を遮る影に表情は見えなかった。 「ナミさん」 半分かすれた声は、いつものサンジのものとは思えないほどに低く酷く潰れていた。ナミは無言で振り仰ぎ、漸く見え る蒼白になった頬のあたりに目をやった。 「俺、ちょっと行かないと・・・」 「・・・うん」 「俺、ゾロのところに」 「うん。サンジくん。うんっ」 テーブルに広げた手をナミは握り締めた。ぎゅうと爪が手のひらに食い込んでも構わなかった。 「行って来て!」 「はいっ」 ばっと上げたサンジの顔は蒼白だった。それでもその顔には確固たる意思が浮かび、目は力強く鮮烈に輝いてい た。 それきりヒラリと身を翻し、サンジは喫茶店を飛び出した。 ナミはそれを立ち上がって見送りながら、もうこれしかないのだと思い、それでも今にも溢れそうになる感情を目蓋で 必死に抑えた。 「お願い、サンジくん・・・」 誰の手を持ってしても、ゾロを縛り付けることが出来ないというのなら、ゾロを引き止めることが出来ないというのな ら。 ゾロが、望んでここへ残るようにすればいい。 どんな硬い鎖を巻きつけたところで意味は無い。圧倒的な獣の本能で、たとえ手足が千切れても、ゾロはそれを退け るだろう。 だから羽衣のような柔らかなやさしさを、包み込む真綿のような愛しさを。 ゾロが感じてくれたなら。 出来ることなら、それを与えることが出来るのが自分であればいいと思った。けれどもそれは儚い夢で、あまりにも奔 放で鮮麗な魂は、この手の中からするりと抜け出してしまったのだ。 ゾロはまた、海へ出ようとしている。 だから、誰でもいいから。 あの人を。 「お願いね・・・」 ゆっくりと体を椅子に戻し、既に氷の解けかけた紅茶を飲み込んだ。 坂の向こうが漸く見始め、どうやら坂を上りきったようだとサンジは今にも分解しそうな自転車をちらりと見やった。 驚異的な付加をかけられた部品は今にもねじが飛びそうな具合に悲鳴をあげている。 ナミと別れたのはほんの数分前の話だ。港近くにある喫茶店から、丘の上の大学近くにある下宿までは直線距離に しても大分ある。道成に図れば、車であってもこの短時間での到着は不可能な距離だった。 しかし眼前に屋根の見え始めた建物を見、その向こうに広大な敷地を取る大学が目に入るや否や、サンジは余計に 動かす足を速めたのだった。 胸の中にずっとわだかまっていた深く濁った暗い湖が、不意に大きな風を受け、憂いを孕んだ水面を吹いて清々しく 澄んだその湖水が顔を覗かせたような、心の透くような気持ちを感じていた。 何もかもがまるで一本の道のようにずっと先まで見通せるような、まるで明日の出来事さえも残らず口に出来るよう な。 ずっと胸の中にあった不問の種を、ナミは鮮やかに花開かせた。 あの鮮やかな手練手管で、何の苦もなくまるですべてを知る賢者の様に。 そう思えばどうして今までこんなことが分からなかったのかと不思議でしかなく、不要に反抗していた自分のあり様に、 ただただ疑問が湧くばかりだ。しかしそこには少しばかりの常識や、奥ゆかしい心の襞があったのだと思えば納得がい き、どちらにしろ気づくことに時間は要らなかっただろうと今なら分かる。 全てが見えてしまえば、なんと簡単な答えだろうか。 けれどもそれが、このままではすべて無駄になるかもしれない。サンジはもどかしく足を動かしながら、もうすぐそこに 迫った壁の連なりを睨んだ。 ゾロがいなくなるのは何時も突然だ。 ゾロがいないことに気づき、人伝に聞いて初めてゾロがどこかに(それは概ね海での仕事だったが)出かけていると 知る始末だった。初めは自分が親しくないから、わざわざいう事もないと思っているのだろうと随分とサンジをがっかり とさせたものだったが、どうやらそれは誰に対してもそうであり、ゾロにまったく悪気が無いのだと知ったとき、あまりの あっけなさに少々喧嘩になりもした。 しかしサンジは最中にゾロがあんな風に言ってから、それ以上責められなくなってしまったのだ。 今まで、そんな事気にかけるヤツなんていなかったかったから。 行方を気にするヤツなんていなかったから。 ゾロは多分無意識だった。 それでもサンジは、その時どうしようもなく胸が苦しくなってしまったのだ。 誰かを待つという事。 誰かが待っているという事。 ゾロがそれが分からないと言ったから。 その時サンジは、思ったのだ。 切実に、まったく自然な成り行きで。 ゾロの傍に居たい。 ゾロと一緒に居たい。 ゾロの理由になりたい。 だからサンジは。 あの時から、サンジは。 きっと、たぶんずっと、ゾロのことが好きだったのだ。 思えばサンジとゾロが会話してるところ、殆どないんですね。 今気がつきました。 サンゾロなのに・・・。 |