ハートじかけの音楽


12


















「エース?」
「よっ。おはよ」
 夏晴れの朝は心地よい風が吹き、ゾロは昨夜の気の重さとは無縁の空を見上げながら玄関を出た。
 そこで軒先で猫と戯れているエースとでくわしたのだった。
「もう行っちまったのかと思ってたぜ」
 驚いて肩からずり落ちた鞄を小脇に抱えて声を上げると、エースは煮干を銜えて走り去る猫を名残惜しげに見送りな
がら立ち上がって笑みを零した。
「俺もそのつもりだったんだけどさ、うっかりルフィに小遣いやるの忘れてて」
 あっはっは、とゾロの少々の気まずさや気遣いなど、どこ吹く風。エースは大口を開けて豪快に笑うと帽子を被り直し
た。
 船にはまだ時間があるし、急いで戻ってきたらしい。ルフィに渡して、丁度行くところだったのだ、と。
 なんでそんな時に猫と遊んでいるのだろうかと言いかけて、ゾロは口を噤んだ。
 自分を待っていたのかも知れない、と思ったからだ。
 エースは羽織った上着のボタンを締め、どう言ったものかと困惑に沈黙してしまったゾロの寄った眉の間をチョン、と
つついた。
「あんま考え過ぎんなよ、頭が煮えてバカになるぞ」
 そう言って、カラリと笑う深い黒の目の色は、本当にルフィと似ている。しかし言われて随分な言い草に、ゾロが益々
眉を顰めた。
「ひでぇ言い方だ」
 それでも言っているうちにどうしたって表情は和む。エースの力はこういうところで本領を発揮するのだと思う。
 相手の警戒心をいとも容易くすり抜ける。どうしたってエースの傍にいると深刻な物思いなど、どうでも良くなってしまう
のは本当だった。それがあまりにも心地よく、無意識にせよ甘えそうになってしまった。
「・・・ほら、言ってる傍から考えるなよ」
 和やかというよりは、悲壮に近いような目をするゾロに、エースは小さく口元だけで笑ってみせた。
「お前がとっくに選んでるって、分かってるのに言った俺が悪かった。困らせる気はねぇって、言ったろう?」
 そんな風にやっぱりエースは無条件でゾロを許そうとすから。いつに無く気弱になって、それを恥かしげもなく見せそう
になってしまうのだ。
 ゾロ何度か目を瞬き、呼吸を揃えて微笑んだ。
「・・・俺が勝手に、そう思ってるだけなんだけどな。・・・もう、時間だろ?行かないと」
「ああ。そうだな」
 正面からじっと目を見て話すのがエースの癖だった。時折それがどうにも恥かしいのだが、エースにはそれが分から
ないようで、とても不思議そうな顔をする。
 そんなエースの裏の無い、真っ直ぐな心根がゾロは好きだった。
「ゾロ」
 呼びかけられて、両手を取られた。大きくて厚い手は、いつも少しひんやりと冷たい。それが太陽のような印象からは
なんだか不釣合いで、でも彼の本心を垣間見えるような気がして、ゾロはその手を握りかえした。
「今度会う時は、ここじゃねぇかもしれないな」
 自然と引き寄せられ、こつんと額がぶつかった。
 不思議そうな顔をしたゾロにエースは笑って、ルフィがな、と言った。
「多分ここに居るヤツ全員、あいつに連れて行かれるぜ」
「どこへ?」
「もちろん、海へ」
 そのまま放たれ、両手は自然と体側へ戻る。離れた体温が名残惜しく、ゾロはエースの軌跡を追った。
 急に寂しくなった両手に、けれどもやさしく感触だけが残っている。
 言葉の意味が分からずゾロが口を開けかけたその時。
「ちょっと待ったー!!」
「おうっ?」
「わっ」
 突然二人の間に黒い影が割って入った。
 咄嗟に後ろに飛び退る。どうしたろうかと確認したエースは、何故かちょっと笑い出す前のような、微妙な顔をしてい
た。しかしそれも一瞬のことで、あっという間に目の前に立ちはだかった黒い背中に視界を奪われ、エースは見えなくな
ってしまった。
「こいつは連れて行かせねェ!」
「サンジ・・・」
 サンジだった。
 何故こんなところにサンジがと言うよりも、何故サンジがそんな事をと驚いた。
「あんたにこいつは渡せねぇ!行くなら一人で行ってくれ!」
 サンジの肩が大きく上下している。息が切れているのだ。汗に濡れた黒いシャツが、背中に張り付いている。
 ゾロは呆然として、ただその背中を見ていた。
「・・・だってさ、ゾロ」
 急にこちらに水を向けられて、ゾロはハッとして声に目を向けた。
「選んでるのは、お前だけじゃないみたいだぜ」
「エース・・・」
 ゾロをかばう様な恰好で立っているサンジの向こうから、エースが顔を覗かせる。
「じゃあな、ゾロ!愛してるぜー!」
「なにー!!」
「な、なに言ってんだー!!」
 真っ赤になって怒鳴るゾロと、また違う意味で真っ赤になって叫ぶサンジにエースはひらりと手を振り、そのまま石畳
を踏んで玄関先の門柱を越えた。
 一瞬、本当に一瞬だけ、ゾロには見えた。エースの泣きそうな目。でも、太陽の様に美しい目を。
 瞬く間に門柱の向こうに消えたエースを、しかしゾロは追おうとは思わなかった。
 そうだ。自分で選んだのだ。自分がそうしたいから。
『ゾロがそうしたいなら、そうすればいいじゃねぇか』
 不意にルフィの言葉が脳裏を掠めた。
 本当に兄弟そろって、同じようなことばかりを言う。
 前を向けと背中を押す。
 ゾロは苦笑して、あっけに取られて表を見ているサンジに目をやった。
「お前、仕事じゃねぇの?」
 ハッとしてサンジがこちらを振り返る。赤みの差した頬がやわらかく歪んで、額からこめかみの辺りに汗が光った。 
「あー、いや、今日は遅番で・・・て、そんなこたぁどうでもいい」
 向き直ったサンジの顔が、今度はゆっくりと青くなっていく。片方だけ覗いた目に浮かんだ感情はなんなのか。ゾロに
はよく分からなかった。
「お前、エースと行くんじゃなかったのかよ」
 それを止めておいて、なにを今更と思ったが、それよりもなによりも、ゾロはこうしてサンジを見るのは久しぶりなのだ
と思ってなんとなく感慨深く目を細めた。
 最後にサンジを正面から見たのは、あの朝以来だ。
 あの朝。
 ゾロは途端にかあっと顔面に血が上るのが分かった。
 しかしサンジはそれをどう思ったのか、今度は青い顔を蒼白に変えてゾロを睨んだ。
「結婚するとか、言ってたらしいしなぁ」
 そういえばそんなこともあった。そもそもそれが元で起こったエースとルフィの兄弟喧嘩を止めたのが誰あろうサンジ
なのだ。
 会わなかった間のたくさんの言葉を、この口数の多い男がどれだけ隠しているのかと思うとちょっとぞっとし、けれども
それは自分も同じなのだと思って、胸が苦しいよう気分だった。
 どういう顔をしていいのか判じかねて、ゾロは無表情のままサンジをじっと見返した。
 正しく今の感情を表すのは、正直憚られた。

 きっと、嬉しくて、笑ってしまうに違いないから。

























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2003/02/07