ハートじかけの音楽


11


















 気がつくと、戸口にルフィが立っていた。
「ゾロ」
「ああ」
 部屋の中央に寝転び、目を瞑ったままゾロは答えた。
 静かに沈む気配が戸口をくぐり、ゾロの横をスリ抜け窓際に寄った。
「寝てたのか」
「いや」
 分かっているくせにわざわざその様に聞いてくるルフィに、ゾロは初めて目を開き、どうしたのだと視線を向けた。
 闇を切り裂くように窓から一筋の月明かりが差し込み、ゾロの上半身を照らし出していた。それを背負うルフィの表情
は良く分からない。ささやかな逆光は、しかし完全にゾロから視界を奪っていた。
「行くのか」
 誰と、どこに。
 ルフィはそんな事を聞いたりはしない。元々主語の少ない男だ。慣れないうちは何を指して話しているのか分からない
くらいだ。しかしゾロにはそれだけで十分に通用したが疑問は晴れなかった。主語と同じく、ルフィは細かな事を気にす
る男ではなかった。だから今までも、ゾロがどこへ行くにも気にしたことなど一度も無い。それなのにわざわざ改まって
聞いてくるルフィに、ゾロは体を起こした。
「何故」
 誰かが誰かを気にかける、という事。それがゾロは未だによく分からない。
 今まで一人で生きてきた。
 どこへ行くにも一人で決め、一人で歩き、一人でまたどこへなり流れた。
 それを気にする者もなく、どこへ行くのかと問われたことは殆ど無い。
 だからなぜここに住む者はそろって行き先を聞きたがるのか不思議でならなかった。
 聞いたところで、一体なんになるのかと。
 そういえば、同じようなことで喧嘩になったことがあったな、とゾロは思った。
 あれは確か、幾分か長い海での仕事から帰った時の事だった。

 なんで、仕事に行くって言わねぇんだよ。

 帰った途端に、不機嫌そうな口調に出迎えられた。
 ゾロは久しぶりの仕事で疲れた頭を休めるため、さあ寝ようと布団にもぐりこんだ時だった。そこへ無遠慮な足音とと
もに、戸惑う事無く勝手に扉を開いた銜えタバコの金髪のコックが飛び込んできた。

 何でって・・・なんで?
 そりゃ、俺が聞いてんだが。

 サンジは見るからに不機嫌だった。しかしゾロに理由が分からない。サンジはさっさと靴を脱いで上がりこみ、上半身
だけを腕で支えたゾロの傍に座り込んだ。
 ゾロは訳が分からず、しかし仕方がないので体を起こし、布団の上に座ってサンジを見た。
 煙草は半分が灰に変わっていて、灰、と指差すと気まずそうに近くにあった空き缶に灰を落とした。
 それが随分と焦ったような動作で、不思議だった。
 だからゾロは不用意に警戒心を抱かなかった。

 何でお前に言わねぇといけないんだ。

 それから後のことははっきり覚えていない。確かなのは、サンジの一発目が下から抉りこむ様な蹴りであった事と、斜
め下の部屋のナミが般若の形相で部屋に飛び込んできて、二人を殴り倒したことくらいだ。ナミのあまりの剣幕にその
場はご破算になったが、とにかくその後も仕事から帰る度にサンジとはそんな事を繰り返した。

 そういえば、いつからだろう。あいつが何も言わなくなったの。

 何度か繰り返すうちに、バカらしくなったのだろうか。それとも何か理由があったのだろうか。 
 思い出そうとして、けれど上手くいかずにゾロは知らず下唇を噛んだ。
 おそらく何か理由があったはずだ。少々しつこい性質のサンジが、簡単に自分の考えを引っ込めるわけが無い。
 言わなくなった、理由が。

「ゾロ?」
 名前を呼ばれて我に返った。何時の間にか考え込んでいたらしい。ルフィは不思議そうに首を傾げ、目の前まで寄る
と腰を落とした。
「ゾロはここが嫌いか?」
 本当に今日はどうしたことだろうか。ルフィがそんなことをいってくるなどと。
 驚いてゾロは目を瞠った。しかしルフィはなんて事もないように嫌いか?ともう一度聞いてくる。
 ゾロは溜息を吐いて瞬いた。
「嫌いじゃねーよ。嫌いだったら、とっとと出て行ってる」
 もう一度大げさに溜息を吐いて答えると、ルフィはいつものようにからりと笑うかと思われた。しかし予想は当たらず、
低く深い声で粛々とまた問いかけた。
「じゃ、ここに居るか?」
 夜の力に、不意にゾロは不安になった。ここに居るのは、本当にルフィだろうか。
 あの陽気なルフィ?
 違う、とゾロは思った。
 いつものルフィではない。
 けれど、ルフィであることに違いはない。
「あのな、ルフィ。俺は・・・」
 声は幾分呆れを含んだ。子供にもわかるような言い逃れを。 
 しかし合わせたルフィの目のあまりの深さに声は途絶えた。
 霞も、濁りも無い。黒い淵の様な、どこまでも底深い湖のような目に。
 言い訳や嘘や、子供だましの言い逃れを易々と見通す目に。 
 ゾロは目を合わせたまま、一度息を吐き、一変して意思を込めた目でもって語りかけた。
「ずっとここに居たいって、思ってる」
「ゾロ」
「でも、それじゃいけねェンだ」
「ゾロ・・・?」
 不意にルフィの声に不安が混じった。常には無いまるで子供のような頼りない声。けれどもゾロは目を逸らさなかっ
た。
「こん中に、誰も入れたくねぇんだ」
 トンッとゾロは自分の胸を親指で突き刺した。
「入れれば俺は、弱くなる」
 そう言って笑った。
 大切な何かを持たぬことが正しいとは思わない。あるいは持つ事によって、得られる強さもあるのだろう。しかし自分
はそうではない。守らねばならない何かを心の中に住まわせれば、きっと今までの様な剣を振るうことは出来なくなる。
「・・・恐いのか」
「何?」
「ゾロの弱虫!」
 ガタンッと、ルフィがすごい勢いでゾロに飛びついた。ルフィは大抵予備動作なしで動くので、その動きが予期できず、
ゾロは倒されるまま後ろに背中を打ちつけた。
 起き上がろうにも両肩をルフィに押さえつけられて身動きが取れない。食い込んだ指先は、物凄い力でゾロのシャツ
を引き攣らせた。
「そんな風に恐がって、初めからみんなの事、締め出すのかよ!お前の傍に居たいって思っても、そうやって、ゾロは
っ!」
 はあ、とルフィは大きく息をついた。全身が細かに戦慄いている。ゾロはいっそ呆然としてルフィの激情を見やった。
 何故。何故こんなにも、誰かの為に心を震わせることが出来るのか。
 何故。
「ゾロは、分かってねえよ」
 急に開放された肩が熱い。きっと痣になっているだろう。
「・・・そうだな。きっと、そうなんだろう」
 ゾロは両腕を投げ出したまま、細く細く吐息を吐いた。眼前を目蓋で遮る。窓からは夜半の冷やりとした空気が入り
込み、投げ出した足先を冷やした。
「俺にはお前たちの言ってること、半分も理解できねえ。・・・でもそれが間違っているとも思わないんだ。ルフィ」
 腹の辺りに跨ったままのルフィに声だけを向けた。目は閉ざされている。ルフィがこちらを見るのが分かった。
 何もかもを見通す目が。
「俺はな、ルフィ。多分好きなヤツがいる」
 ピクリとルフィの体が揺れる。ゾロの言葉を聞いている。怖気そうになる喉を、ゾロは激しく叱咤した。
「あいつの考えてる事、全然分からなくて、なんなんだ、なんなんだろうって不思議な事ばっかりで、そんな風に考えるう
ちにあいつの事、いつの間にかもっと知りたいって思うようになってた」
 そっと目を開く。薄く光を刷いた天蓋が眼前に広がり、視界の端に影が映る。そこには恐いくらいに真剣な目をした男
が、じっとこちらを睨んでいた。
 やはりいつもの陽気なルフィはここには居ない。けれどもこれは、これがまったくの正直なルフィそのものであるのだ。
 己の内を何の恐れも無く曝すルフィに、果たして誰が逆らえる?
 この目を裏切る事は、罪だ。
 ゾロは心の中でいくつか数を数え、落ち着くように唇を舐めた。
「・・・まずい、と思った。何時の間にか感化されてた。ここを離れる事を躊躇う自分が居た。それが多分・・・恐いってこと
なのかもしれねぇ」
 正直な気持ちを言葉にするのは勇気がいる。自分の中でただ呟く時はいい。だがそれを誰かに告げる事は、その気
持ちの確定を許すという事なのだ。
 特にこういった類の感情を人に告げる事は難しい。
 弱い自分を曝すのは、いつだって嵐のような羞恥と、死にそうなほどの後悔を生んだ。
 しかし今のルフィを目の前にして、ゾロは偽る事を放棄した。
 そうしたところで、いずれすべては暴かれる。
 ならば自ら告げる事で、幾分かの心の安寧を計りたかった。
 或いはプライドの誇示を。
「ゾロは、ここに居たいんだろう?」
 また月を背負ったルフィの顔は見えなかった。測ったかのように一定のリズムで揺れる肩の辺りが寒々しい。
「ああ」
「じゃあ、いいじゃねえか」
「ル―――」
「それだけで、いいじゃねぇか。何でそんな風に自分を縛るんだよ?ゾロがそうしたいなら、そうすればいいじゃねぇか」
 縛る?誰が?・・・俺が・・・?
 あらゆるしがらみに囚われない事を身上に生きて来た。
 止まれば道が見えなくなる。己に何も寄せ付けないことで、曲げられぬ信念を支えてきた。
 この手に宿る剣への執着以外のすべてを、切り捨てることだけが唯一の方法であると。
 しかしそれが、それこそが、この身を縛る枷になっていたのか。
 誰もが自分をあざ笑い、誰もが自分を否定した。
 それでもこの道で一度も迷ったことがなかったのは、自分自身で選んだ道だったからだ。
 ゾロが「したい」と思ったからだ。
 ルフィの言葉は、思いがけない方向からゾロの胸を貫いた。
 いつの間にかルフィの声はからりと乾いて変わっていた。いつもの陽気なルフィが突然戻ったように、纏う雰囲気さえ
違っている。
 ゾロは何度か瞬いて、どうにかルフィの表情と言葉の真意を確認しようとしたが、頑なにその体は動かずそれをゾロ
に許さなかった。
「あー、心配して損した!」
 そう言ってルフィは何時も通りの笑いを漏らし、身軽な様子でひょいとゾロの上から体を避けた。漸く軽くなった腹圧で
呼吸を何度か繰り返し、そうか、あれは一応心配をしていたのかと今更ながらに思った。
「この先は、俺の役目じゃないみたいだし!」
「は?・・・って、おい?」
 そのまますたすたと何事も無かったかのように出て行こうとするルフィに、ゾロは慌てて声を掛けた。
「それにどうせ行くなら、皆で行ったほうが楽しいしな!」
 それきりルフィは何事も無く出て行ってしまった。
 結局、なんだったんだ??
 ルフィがここを訪ねて来た訳も、最後のセリフの訳も分からぬまま、ゾロは呆然と座り込んで黙って閉められたドアを
見た。
 だが、分かった事がある。

 自分の気持ちを、言葉にしてしまったという事。
 自分が、本当に望んでいるもののことを。
 一度そうして示したものを、自分は覆そうとは決して思わないのだ。

「まあ、避けられてんのは元々だしな・・・」
 開け放たれたままの窓枠に切り取られたような夜の空に、一人月が白々と輝いていた。
























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2003/02/05