blue talk (前)







 物慣れた仕種で器具を揃え、端から順にアルコールで拭っていく。
 隅から隅まで予定調和の指先を、ぼんやりと眺めながらの午後だった。
 元々客足の乏しい診療所であったが、それもここに極まれり、という具合に静かな午後だった。
 いつもは慢性的に腰を痛めた老婆や、机の角に頭をぶつけた幼児が気休めに居並ぶ待合室にも人影一つ見当たらない。閉店までのいくらかの
時間を既に苦痛にしか感じなくなり始めた二人は、まるで息の合った親子のように同時に溜息を吐いた。
「今日は全然ですのね」
 今日は、の部分を殊更強引に強めて、山根知子はステンレスの流しで手を洗った。
 白銀の表面を打つ高音が神経質なくらいに沈黙を打ち破る。
 桜内はもう一度溜息を吐くと、診察室では控えているはずの煙草を取り出し、机の一番下の引き出しから灰皿を取り出した。
「もう、終いにするか」
「あら、よろしいの?」
「急患なら、先に他を当たる」
「ごもっとも」
 窓を開け、目の前に迫った隣接するビルの壁に向かって煙を吹きかける。しかし煙は途端に吹きこんだ風に押し返され、室内に引き返した。
「カーテンに匂いがつくわ」
 一応の義務で言いながら、しかし目はもう帰宅の算段に入っている。桜内は横目でチラリと見ただけで何も言わず、また吸い込んで吐き出した。
「それじゃあ、お先に」
 ひらりと手を振り、山根はあっという間に足取りも軽く間口をくぐる。桜内は喉の奥でくぐもった唸り声でもって返した。
 さら、さら、とカーテンが風に揺られて音をたてた。診察台に寝転び目を瞑ると、それはまるで耳元で囁く子守唄のように、桜内を眠りに引き込ん
だ。









 目覚めれば室内は一面のオレンジに濡れていた。
 眠りで濁った頭にその風景はまるで何かのフィルターを通したように現実味がない。硬い診察台で腰は痛んだが、体勢を変えるのも面倒で寝返
りを打つ気にもならなかった。
 薄ぼんやりとしたフィルターの中で、男が椅子に腰掛け、無防備に背を向けいていた。何も言わず、しばらくその背中を眺める。警戒心はない。誰
の背中かは、とっくの昔に分かっていた。
「おはよう」
 視線に気づきながらも振り向かない男の強情と、無駄な駆け引きに溜息が漏れる。背中越しに男はふふ、と吐息で笑った。
「・・・久しぶりだな」
 先手のつもりが喉が絡んで声はかすれた。それに男がまた笑う。今度は幾分不穏な色が混じっていた。
「中々に忙しい身なんでね」
 キィ、と椅子の支柱が甲高く鳴いた。ゆっくりと組んだ足がスライドする。そのまま男はこちらを振り返り、指先でゆっくりと己の顎を弄んだ。
「今日は随分早終いだな」
「今日は俺が患者さ」
「医者の不養生?」
 そっと顎を撫でていた手がこちらへ伸びて来るのを、無感動に眺めていた。仰向けのまま、顔だけ捻じ曲げた額に指が触れる。それよりも早く視
線はずっと絡み合ったままだ。指先は冷えていてまるでツルリとした棒で撫でられているようにも思える。
「・・・仕事か」
「まあ、そんなところだ」
 言葉を濁し苦笑を漏らした表情を、目蓋を閉じて締め出した。何度も額を往復していた指が、ゆっくりと目蓋へ降りてくる。目の縁を辿り、ややあっ
て指を離した。
「探偵?殺し屋?」
「さあ・・・どうかな」
 目を開けると男はいつの間に立ち上がり、随分と高い位置からこちらを見下ろしていた。暗く翳った目に入り込んだ夕日が穏便な光を与えて瞬き
を露にする。それにじっと見入っていると、男は目元だけで小さく笑った。
「送ろう」
 そう言って翻した叶のシャツからは、冷たい海の匂いがした。








 出合った時から、特別な男だった。
 気配一つとっても、堅気では有り得ないのに、夜の闇の匂いとも裏路地の血の匂いとも違う、一種鮮麗で独特な空気を纏っていた。
 ともすればこちらの気配など容易く塗り込めてしまえるその目で、しかしこれ以上ないほど穏やかな眼差しを時折向けてくる。
 それを稚拙な子供の好奇心で追っていたのは桜内の方だった。

 しかし立場はいつしか逆転する。








 カシャン、とテーブルに置かれた鍵が小さく音をたてた。それを背中に聞きながら上着を脱ぐ。そのまま面倒でリビングのソファに放れば、振り向
いてかち合った目に咎められた。
「皺になるぞ」
 そう言って自分の脱いだ上着を片手にかけ、もう一方で桜内の上着を掴むと寝室へ勝手に入って行った。
 その無遠慮さにしばし思いをめぐらせ、しかし今更だろうと溜息で誤魔化した。
「勝手にやってくれると、助かる」
 深く体をソファに埋めながら、寝室のドアをくぐった気配を背後に感じて桜内は聞こえる程度の小声で呟いた。叶はそのまま桜内の後ろを通って
キッチンへ律儀に入っていった。
「何か飲むか?」
「いや、俺はいい」
 カタンカタンと器具のぶつかる音が微かに響く。叶は普段からあまり音をたてない。それでもこの部屋では幾分乱雑になるのを桜内は知ってい
た。
「なんだ。本当に具合が悪いのか?」
 キッチンから出てきた叶は、予想に反して何も持っていなかった。
 不思議に思ったのが顔に出ただろうに、叶は肩を竦めるだけで上手にかわしてしまう。そのまま隣に腰掛けた叶の手が、再び額に伸びてくる。今
度は明確に体温を測るために触れた手は、先程より随分暖かかった。
「いや・・・大丈夫だ」
 その手をそっと払いのけながら体を起す。何となく無防備な姿勢がいたたまれず、前かがみで膝に肘をついた。
 しかし叶は諦めず、一度は引いた手を今度は首筋に伸ばし、ひたりと手のひらで包み込んだ。
「叶・・・」
 ゆっくりと振り返る。
 そんな風に久しぶりの邂逅は、あっけなく始まった。








 男と寝るのは、叶が初めてだった。
 酔ってもいなかったし、その場の勢いでもなかった。
 相手が叶であることは分かっていたし、ある時点で明確にこの男と寝る事になるだろうという心積もりも既にあった。だからぽつりぽつりと途絶え
がちな会話の中に奇妙な安心感や心地よさを感じ、その延長で叶のくちづけを黙って受けいれた。
 触れた手は柔らかく体を撫で、はたしてこんな風に自分は女に触れたことがあったろうかと、頭の隅でぼんやりと思った。








 手元から飛び立った羽音に、今更ながらに聞き耳をたてているようなものだった。
 白々しく明け始めた室内はカーテン越しでも十分に明るく、あてつけのように投げ出された自分の腕を照らしていた。
 一人の朝は慣れている。
 一人でベットに入ることは稀でも、一人でベットに残るのはいつものことだった。
 眠り込む前に、決まってそっと姿を消していく女たちの背をぼんやりと思い出す。
 待ってくれと言葉をかけるつもりもないのに、こんな事を思う権利もなかったが、それでもなんともいえない気分は何度でも舌先に残った。
 桜内はそれ以上考える事を放棄し、手繰り寄せた毛布を体に巻きつけベットを立つ。
 足元に散らかった衣類は、足先で乱暴に蹴散らした。








「またぼんやりなの」
 開口一番に言われて閉口する。山根はふうっと大きく息を吐いて腰に手をやった。
「あんまり夜遊びが過ぎるんじゃないの?」
 言い返す言葉も待たずに更衣室へ消える情人であるはずの女の背中を見送りながら、まるで男友達に問い詰められているような錯覚に陥って
桜内は小さく自嘲の息を漏らした。
 本気で繁盛させようとしなくとも、ぽつりぽつりと患者は訪れる。その一人一人を暇に任せて時間をかけて診察し、それでも残ってしまう空いた時
間を本を読むことや昼寝で誤魔化しながら、時折短い会話を山根とかわした。
 山根とは、つかず離れずの関係が続いている。
 お互いに束縛しあうような関係になれないのは、とうの昔に気づいていた。相手を愛しいと思う気持ちがないでもないが、その上限が大分低い天
井であることに気がついたのは随分早い段階だったと思う。
 その時から山根は自分の立場を「情人」と言って憚らなくなった。
 それが山根にとって桜内に対する、精一杯の愛情の表現である事を桜内は分かっている。
 気など使わぬ素振りを見せながら、その実女が言えば相手を社会的に去勢すると知って口を噤んだ山根のやさしさを他所に、それよりも的確な
表現を桜内は知っていた。

 友情、と呟いて、桜内は醒めた緑茶を飲み込んだ。










 たまには食事に行こうと言ったのは桜内の方だ。
 それが珍しい事は自分でも分かっていたが、あからさまに目の前で驚かれると、気まずい気分になる。桜内は羞恥を頭に乱暴をかくことで紛らわ
せ、イヤならばいい、と言った。
「嫌なわけ、ないだろう」
 少し焦った風が面白くて口元で笑うと、叶は瞬き、無表情一歩手前の読み取り辛い目で笑った。それを気づかない親切で返しながら、桜内は上
着を取って踵を返した。
 連れ立って歩くと、普段はあまり気にならない身長差が歴然となってあまりいい気分ではない。叶もそれが分かっているのか、憮然とした表情の
桜内を笑って、けれども呆れた素振りも見せずに高さの異なる目線を合わせた。
 あの日以来、叶はちょくちょく診療所に姿を見せるようになっていた。それは決まって患者のいない昼下がりで、計ったように山根が辞した後を狙
ってやってくる。別段仲が悪いわけでもなかろうに、律儀に時間を計るのを不思議に思って一度聞いたが、叶はやっぱり今日のように無表情に近
い顔で曖昧に笑っただけだった。案外二人は似合いだろうとぼんやりと思い、だからこそ叶はあまり顔を合わせたがらないのかと少々合点がいっ
た。
「どこへ行くんだ?」
 当てもなく歩いているように見えたのか、叶の声は少し不安げだ。それにチラリと目だけで答え、先を指す。行きつけの小さな飲み屋は多少ボロ
だが味はよく、珍しい酒を出す。叶もどうやら店のことは知っていたようでああと小さく相槌を打った。
 昔話をするのは好きではないし、正直聞くのもあまり得意ではない。それはどうでもいいと思っているわけではなく、ただ単にもう見る事の叶わな
い記憶の断片を聞かせたり聞いたりすると単純に疲弊するからだ。情が深いとまではいかないが、すべてに無関心でいられるほど枯れてもいな
い。だが外から見ればどちらも無関心である事に変わりはなく、冷たいの一言で片付けられることも少なくない。それでもそれを否定しないのは、
細かな心の襞まで残らず曝すまでの間柄に、誰ともなったことがないからだ。
 過去一度だけ、後々そこまで共に行けるかも知れないと思った女もいたが、結局逃げ出したのは桜内の方だった。謂れのない罪悪感に問い詰
められて、最後の最後で踏ん張れない自分に気がついてしまった。
 突き詰めれば自分さえも信じられない自分に、相手を説得れきるだけの言葉はない。
 そう思ってしまえば、ダメだった。
 自己愛に乏しいのは生まれつきなのか、はたまた育ちのせいなのかは分からない。少なくとも親のせいにする気はなかったが、心のどこかで親
のせいにしてしまいたいと甘える自分がおり、またその一段上からそういう自分を冷静に分析している自分がいる。その口からお前は結局そういう
生き物なのだと言われれば、そうかと安易に頷いてしまう程度のどうでもいい問題ではあったが、こんな時は無駄に考えてしまうのだった。
 叶を友人と認めていいのか、それともただ単に寝るためだけの相手と断じていいのか分からない。
 寝るまでは明確に友人であったはずの男の横顔を見ながら、桜内は酔いで少々混乱をきたし始めた頭を振った。それでは寝てしまえばもう友人
でないのかといえば、そうでもない。寝ることで初めて友人としての価値に気づいた女もいる。大体その合間に横たわるはっきりとした線の色さえ
分からずに、この男の位置を勝手に決める権利もない。
 飄々とし酔いに顔色一つ変えない叶のきれいに整えられた指先を見、しかし実際その手は汚れているのだろうかと考えてから、桜内はその考え
に反吐が出そうになって息を詰めた。
 結局のところ、何と言おうと人の命を無断で奪う事は犯罪であり、本来許される事ではない。
 それを叶は終演だと言って憚らないが、本当はそれが詭弁であるという事を一番知っているのは、他でもない叶自身だ。
 そうしてまた誰かの過去を覗き見ようとすれば無駄に疲弊するのだと思い、桜内はグラスを握った叶の手から目を逸らした。
「お前にも忙しい時期とか、あるのか?」
 ニッパチや年度末のように、時期によって暇になったり忙しくなったりする職種もあるが、叶にしても桜内にしてもどうもそこら辺がピンとこない。だ
がそう思っているのは案外自分だけなのだろうかと思い、桜内は魚の煮つけをちまちまと摘まんでいる叶に問いかけた。
「時期ねぇ・・・俺は定期的にしか依頼受けないからなぁ・・・どうだろう。もしかしたらあるのかも知れんが、少なくとも俺はないかな」
 気を損ねた風もなく、もぐもぐと白身を咀嚼しながら気負わず返す叶も、はたから見れば普通のサラリーマンあたりに見えるのだろうか?
 周りを見回せば仕事帰りのスーツ姿の男たちが三々五々とたむろって、会社の愚痴をこぼしている。何食わぬ顔をしてあの中に混じる事が可能
だろうかと考え、そうなったところで果たして意味があるのかと真剣に考えた。
「ドクもあんまり関係ないだろう?・・・強いて言えば街が騒がしければ、忙しいといったところか」
 そう言って暗に裏の仕事を揶揄ってニヤリと笑う。それに肩を竦めて返しながら、冷酒を喉に流し込んだ。
「一件辺りの報酬は確かにいいが、リスクが多いのがたまに傷だな」
 本当は報酬よりも遊び心が勝って引き受けているに過ぎないが、そこから呼び込んでしまったトラブルがないわけもない。何も聞かない、何も言
わない、が信条のやり方が知れた今では押し入ってくる無粋な輩も少なくなったが、まったくないわけでもない。それをどこかで楽しんではいない
かと言われれば、否定できなくもなかったが。
「・・・でも客は選んだ方がいいぜ、ドク」
 埋没していた意識をハッと戻すと、こちらをじっと見ている叶と目が合った。
 奇妙な色が浮かんだ目は、底の窺えない色でこちらを穿っている。読みきれない駆け引きは受けられないと、桜内は大きく溜息をついた。
「選べるほど相手の話を聞いていないんでね。・・・相手が誰でも診るのが俺の仕事だ。それ以上も以下もない」
「・・・あんたらしい」
 そう言って穏やかに笑った叶からは、先ほどの奇異な雰囲気は消えていた。それにどこかほっとし、そう思った自分に舌打ちした。










 チンッと電話が鳴り出す前の音で目が覚めた。続けてけたたましく鳴り出したベルにボンヤリとした体は反射的に体を起したが、腰の辺りから全
体に広がるダルさには勝てず、もう一度ベットに倒れこむ。咄嗟についた肘が叶の肩に当たって、初めてその存在を思い出した。
「・・・出るなよ・・・・・・」
 叶はうつ伏せた顔を横にずらして呟いた。寝起きの声は掠れていて、聞き取りづらい。一瞬んその存在自体が理解できず黙り込み、ついで言葉
の意味を考え混乱した。しかし猶予を与えないように鳴り続ける電話に忌々しく舌打ちし、最後には何もかもが面倒になってそれ以上体を起す努
力を放棄した。
「いいのか?」
 先ほどのことなど忘れたかのように、今度は普段と変わらない様子で叶が言う。体を起す素振りを見せない背中は、毛布の中でピクリとも動かな
いのに奇妙な威圧感で桜内を圧倒した。
「・・・今夜は休みだ」
 寝乱れた髪をますます掻いて乱れさせながら、グニャリとした姿勢でぼんやりと座ったまま答えた言葉は上の空だ。
 それに叶が顔を上げる。胡乱な目つきは暗闇の中で僅かな光を受けてキラリと光った。
 チリリンッと、最後の足掻きで一際高鳴った音はそれきり止んだ。シンとした空気が突然帰ってくる。
 じっと肩の辺りに添えられたままの視線を感じ、桜内は居心地の悪さに身じろいだ。
 叶とこうしているのは初めてではない。
 だが、こんな風に居る事は。
 終わってそのまま部屋を出るのが常だった。それが叶にしろ桜内にしろ、そのまま眠り込んだ事はない。特に桜内の部屋で事に及んだときは
少々の無理をしても、終わればそっけなくベットを抜け出すのが叶の礼儀だった。
 しかし今夜に限ってそうしなかった叶と、珍しくそのまま眠り込んでしまった桜内が深夜の暗闇に取り残されてしまっていた。
「ドク」
 すっと伸びた手が腕に触れた。それに知らずビクリとして後悔する。混乱に戸惑った感情が振り返った目に出てしまった事は、叶の顔を見ればす
ぐに分かった。
 叶はしかし無言のまま掴んだ腕は放さず、ぐいっと桜内の体を引いた。そのまま力に逆らわず、体を横たえる。半分叶の上に乗り上げる様な恰
好は、互い素肌を直に感じて気恥ずかしい。叶はそのまま桜内の体を抱きこんだ。
「叶・・・?」
 戯れの触れ合いに、本気の動作が加わって桜内は声を掠れさせた。
 背中を撫でる手が、思ったよりも汗ばんでいる。
 何を気にしているのかと言おうとして、しかし言葉は塞がれた叶の唇に飲み込まれた。
 背筋を辿り、腰骨を掴んだ手のひらが熱い。首を捕まれ、噛み付くように何度も口を塞がれる。呼吸の間合いを取れずに喉を鳴らすと、ようやく叶
は唇を離した。
「ここにいてもいいか・・・?」
 吐息を擽る言葉に首を竦める。驚いて目を瞠ると、叶は気まずそうに目を細めたが、逸らさなかった。
「何かあったのか」
 どんな意味であっても奢ったりはしない。言葉の裏側を読んで言った桜内に、叶は眉を顰めた。
「・・・二・三日前に、男を一人診ただろう。足首を切られた男だ」
 背中を掻き抱かれて息が詰まる。肩口に額を押し付けられて表情は見えなかった。
「ああ」
 電話が来たのは二時過ぎだった。男は電話で傷の治療を依頼し、桜内はそれを受けた。診療所の蛍光灯の下の蒼白顔とは裏腹に、足首には
どす黒い血を吸ったタオルを押しつけて、丁寧に深夜の無礼を詫びた。傷の程度は深かったが、綺麗に切り開かれた傷の縫合はそれほど困難で
はなく、30分程度で治療は済み、男は支払いを済ませるとまた丁寧に礼を述べて診療所を辞した。
 深夜の客にしては、上質といっていい男だった。
「あれは、お前か?」
 無言は肯定だ。綺麗な切り口は確かに素人とは思えなかった。
「俺から何か聞きだそうって訳じゃないんだろう。・・・何が知りたい?」
「何も」
 そう言いながら、叶は首筋にそって何度もくちづける。その度に細かく体が揺れて、誤魔化されそうになりながらしかしどうにか呼吸を落ち着け
た。
「ただ、当分客は取らないでくれ・・・」
「・・・・・・なんかその言い方、引っ掛るな」
 不機嫌そうな桜内に、叶は吐息の延長で笑った。
 大方始末し損ねた仕事の皺寄せが、桜内へ及ぶのを防ごうというのだろう。 
 桜内は小さく息をつき、好きにしろ、と呟いた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて・・・」
「お、おい。そういう意味じゃ・・・ぅンッ」
 腰の辺りに止まっていた手が性急に動き出す。背中が跳ねて言い募ろうとした言葉は理性と共に心中した。
「・・・・・・」
 叶が最後に呟いた言葉を理解するには、快楽が強すぎた。



















なんて事ない話ですが、続きます。