blue talk (後)







 日中は常に回りに人のいる状態の桜内に、叶は安心しているのか姿を現すことはない。
 しかし夕闇が迫り、桜内が一人になるとふらりと背後に立っている事が多く、そんな時は決まって「無防備すぎるな、あんたは」と言って笑った。
 カタンとドアを開く音がする。
「ちょっと待ってろよ」
 少ないカルテを整理しながら、背後に返す。
「すまないが、時間がないんです」
 しかし返った言葉は叶の声ではなかった。
 自分の迂闊さに舌打ちし、振り返る。しかしその前に後ろから首をつかまれた。
「ドクター、抵抗しないで下さい。できればあなたを傷つけたくない」
「・・・あの時の」
 ぐいっと手に力が入る。喉が呼気を求めてひゅいっと鳴った。
「少しだけ、ここにいさせてください。すぐに出て行きますから」
 口調は平静を保っているが、呼吸が荒い。痛めた傷から発熱しているのは隠しようもなかった。首筋に触れている手も、異常なほど熱かった。
 人気のない診療所に身の置き場を求めて来たのだろう。しかし最悪な事にここにいれば、多分一番会いたくない相手に出くわす事になる。その
上こんな状況を見られれば、自ずとその先の展開は予想がついた。
 だからこのまま、何も言わずに待っていればいい。そうすればいずれ叶が気配を殺して現れるだろう。

 だが。

「・・・これから人が来るぞ」
 胸の中で決着がつくよりも早く、桜内はそう言っていた。がっしりとした腕が揺れる。取り返しのつかない事体に桜内は大きく溜息を付いた。
「痛み止めくらいしか俺にはしてやれん。それでよければ・・・持って行け」
 窓の外は既に薄暗い。いつもならもう叶が訪れる時刻だった。
 桜内の提案を考えているのか男は動かない。あまり猶予のない時間に桜内は焦れた。
 その時、カタンと表で音がした。待合室の方だ。ビクリと男の腕が緊張する。桜内は舌打ちしたいのを堪え、言葉を選んだ。
「迷うな。後ろの扉の奥に非常口がある。そこから出ろ」
「・・・何故かばう」
 口調には戸惑いが濃い。謂れのない好意を受けた事のない人間の声だった。
「行け」
「ドクッ」
 手元にあった鎮痛剤を男に投げる。同時に待合室との仕切り扉から叶が飛び込んできた。
 そのあまりの迂闊さに驚いて、目を瞠った時には既に男の姿は奥の扉へと消えていた。
 一瞬で消えた緊張感にほっと息をつく。いつのまにか額には汗が浮かんでいた。それを拭おうとタオルに伸ばした手をいきなり横からつかまれ
た。
「叶っ?!」
 そのまま引き寄せられた抱きしめられる。上から覆いかぶさるように視界を塞がれて驚いた。
 てっきり男を追って行ったと思っていた矢先の事に驚いて言葉を失う。それ以前に締め付けられた体は苦しさに声も出なかった。
「・・・・・・・・・間に合った」
 耳元で吐息のように呟かれた声は、心なしか震えていた。背中を覆って肩を掴んだ指が白衣に食い込んで痛い。しかしそれを言うにはあまりにも
場違いなような気がして、桜内はただ黙って叶の肩越しに見える天井を眺めていた。
 その間にも男は逃げているかも知れないのに叶は動こうとはしない。
 何があっても常に相手の先を読み、どんな事体になろうと予想の範囲内だと冷笑する日頃の様子からは想像もつかない叶の態度に、それほど
自分はまずい状況だったのだろうかとぼんやりと思った。
「あんたが無事で、よかった・・・」
 細く息を吐きながら、耳元で囁かれた言葉は先程よりも少しはましだったが、それでも息苦しいほどの感情を堪えているようにしか桜内には思え
なかった。
「俺、ヤバかったか?」
 あまりにも緊張感に欠けるだろうかと思ったが、そんな問いしか出ず、叶は最後にぎゅうっと確かめるように背中を締め付けるとようやく腕を解い
た。
「あんたには手を出させないつもりだった」
 桜内の元へ、災厄を持ち込んだ事自体が心外であったのか、それきり叶は何も言わず、ただ指先で桜内の頬を少し撫でただけだった。
 その仕種が何か気づいてはいけない因果を含んでいるような気がして、桜内は知らず眉を寄せていた。叶はそれにハッとして手を離すと、自嘲
のような笑みを口元に浮かべて誤魔化した。
「・・・聞かないのか」
 今更のように男の消えたドアを見る叶の背中に問いかけた。
 男をわざと逃がした事に、叶は気づいたろう。自ら男の盾のように立った桜内がいなければ、あるいはこの場で穏便に始末をつけることもできた
かもしれない。その方が叶も楽であっただろうし、今後どのような形であっても桜内に火の粉が降りかかる事もなかった。しかし体は咄嗟に男を隠
すように動いていた。それに気づいていたからこそ、叶は男を追うことを断念したのではないだろうか。
 どちらにしろ瞬間的な感情は自分でも説明が付かず、聞かれたところで答えられる言葉は限られていたが、それでも叶には問いかけの権利があ
る。桜内はじっとその背に視線を当てたまま言葉を待った。
「・・・いや。いいんだ」
 しかし叶はやんわりと首を振ることで否定した。そのまま項垂れた首の辺りに、少し伸びた髪がかかっている。それが珍しく乱れていて、訳も分
からぬまま桜内は胸が痛むのを感じていた。
 じっと物言わぬ背中が、不意に治療を終え部屋を出る際に見せたあの男の背中と重なった。あの時ドアの向こうに消えたそれに、無意識のうち
に感じた息苦しさ。突然訪れた既視感に心が冷えた。
 
 男を逃がした理由など、簡単なものだったのかもしれない。

「叶」
 呼ばわれば叶はゆっくりとこちらを振り返った。暗がりを泳いだ目が一瞬こちらを向き、しかしすぐにまた逸らされる。窓の外へ投げられたそれを横
からただ眺めた。
「お前に似てた。あいつ」
 視線が戻る。底光りする目が、こちらを見据えた。
「お前に似てたんだ」
 手負いの獣は、一層強烈な生の匂いをさせていた。
 死を感じて初めて己の命を感じる事の出来る者の目を、人を信じぬ孤独な目を、しかしその根底にいっそ憐れなほどの慈愛を持ったあの目を。

 叶も、あの男も持っている。

 叶はゆっくりとこちらに手を伸ばした。

 まるで人事のように感じる体を壁に押しつけられ、呼吸もままならないほど何度も口を塞がれる。思わず縋るように伸ばした手に、机の上に詰ま
れた本が当たり、ガタンと床に音をたててばら撒かれた。
 余裕のない手口で体を弄りながら、しかしそれを乱暴に感じないのはその手が震えているからだ。戒めるよりも縋るような腕の力が心地よく、そう
感じる事に驚きながら目を開く。てっきり目を閉じているかと思っていた叶は、じっとこちらを瞬きもせずに見ていた。
 そのまま目を合わせ、くちづけを繰り返す。息苦しく顔を逃そうとすれば、また慌てたように追ってくる。溺れるその手をがむしゃらに伸ばすような
その様があまりにも痛々しく、桜内はそれ以上の抵抗をせずに黙って体の力を抜いた。
 そうすれば叶は、ますます性急に手を動かすのだった。
 どんなに無茶をしても、遊びの範疇を越えないはずの叶の息は荒く、手加減のない感情がそのて手のひらから直接肌になだれ込んでくるような
錯覚を起して眩暈がする。それが今までの所業が、いかに抑えたものであったのかを明確に知らしめた。しかしそこまでして押さえ込まなければな
らなかったものの形など桜内には知りようもなく、それを探る自分の手が徐々に必死に変わっていくのを桜内は人事のように感じていた。
 叶と初めて寝た時、随分あっけないものなのだと思った覚えがある。いくら貞操観念が薄いと言っても、流石に男と寝る事に抵抗がなかったわけ
でない。ましてやこちらが受け入れる立場となれば余計にもう少し何がしかの感慨があるものだと思っていたが、実際はそんな事もなく、慣れた手
管で翻弄する叶の体に単純に意識は相手の存在を受け入れた。

 だがしかし、果たして今自分がしようとしていることは、あの時と同じことなのだろうか。

 一時も惜しんで体に触れる指先や、押し付けられる昂り、震える吐息のその本当の意味が、今初めて桜内の中に入り込もうとしていた。
 ただ体の欲求に答え、流されるままに快楽を追えば、それですべては済んでいたはずだった。しかし今、こうして目の前で、自分自身が行おうと
している事は、単純に体の欲求のみを追えばそれで済む事でないのはもう明確だった。
 叶が求めようとしていることの外郭が段々と見えるにつけ、桜内はそれに伴い増していく背筋を震わす感情を誤魔化す事が難しくなっていた。
 いずれ恍惚を引き連れる感覚が湧き上がる。硬く目を閉じ、どうにかそれを追いやる事は出来ないかと自身に問いかけながら、もう無駄なのだと
誰かが答えた。
「ドク・・・・・・あんたが、あんな事言うから・・・」
 頭に直接流し込むように、こめかみの辺りで囁く叶の低い声にぞくりと心中が粟立つ。半分肌蹴た叶のシャツにしがみ付くと、その上から手を包
まれた。
「お願いだから、今だけ俺のものでいてくれ・・・今だけで、いいから」
 突然直接的に与えられた快楽に体が跳ねる。一瞬にして混乱を極めた頭に届いた言葉は、いつかどこかで聞いた憶えのあるセリフだった。
 
 その言葉、本当はそのままお前に返してもいい、と桜内は胸の内で呟いた。








「目が腫れてる」
 ぼんやりと煙草を吹かす横合いから指摘され、桜内はどうにか誤魔化すように目を眇めた。しかし今更この女に通じるはずがないと、諦めは溜息
を呼んだ。
「酷いか?」
「そうね。ちょっと」
 棚の上の箱を伸び上がって取る仕種を後ろから眺める。目を合わせて会話をする事の少ない診療所では、お互いにその背中ばかりを眺めている
ような気がした。
「泣かされた?」
「まさか」
 誰に、と答えなかったことを後悔したのは一瞬で、言い訳も忌々しく黙認した桜内に、山根は振り向いて可笑しそうに頬を緩めた。
「いやぁねぇ。ノロケ?」
「まさか」
 スパスパと忙しなく煙草を吹かせばどうやら肯定だ。こんな風に指先で弄ばれるのはあまり好きではなかった。
 それでも山根と話すのは気が晴れる。小春日和の誰もいない午後の待合室に、誰が来る予定もない。
 桜内は無言のまま、椅子を足先で山根の方へ押し出した。
「カウンセリングは別料金よ?」
 仕方無さそうにそう言って、奥から上着を取ってくると、山根は丁寧に肩にかけてから椅子に腰掛けた。
「今どこに居るんだ」
 山根が桜内の元から出て行くのは日常茶飯事だ。元々一つのところに留まるタイプの女ではない。引き止める手立ても感情もない桜内は、ただ
黙って山根を見送り、そして時には迎え入れるだけだ。そうして定まった関係を心地よいと思っているのは、なにも桜内の方だけではない事も知っ
ている。本気で何かに打ち込むことを恐れている山根にしても、意味深な感情を抜きにして帰れる場所があることは、少なからず救いであった。
「今日もどこぞの軒の下、よ」
 日替わりで男を変えるような女ではない。十分に一人で生きていく器量のある女だ。それでも潤いは必要だと嘯いてそんな風に山根は笑った。
「そうか」
 人恋しくなればまた戻ってくる。男としての確信より、一歩引いた自惚れでそう思う。そうしてそれは事実だった。
「それより、ここのところあなたの軒下には誰がいるのかしら?」
 ぽんっと手元においていたガーゼの包みを診察台に放り出し、上目使いのその目の中に好意の笑いを読み取って、桜内はワザとらしい溜息を吐
いた。
 男女の関係よりもお互いの信頼を楽しむ関係になってから、山根は時々できの悪い兄を見るような目で桜内を見た。閨まで共にしておきながらそ
んな例えもどうかと思うが、しかしむしろ二人の関係を肉親に例えるのは中々心地よい。家族に縁の薄い二人が寄り添うようにどこかを補い合うの
も、最近では悪くないと思うようになり、それは自然と桜内の私生活に直接影響を与えていた。
「ここのところ、巷で拾ったりしていないらしいじゃない?」
 三日月の目は猫のように隙がなく、その中にからかうような色と、安堵の気配を感じて桜内は口元だけで笑った。
「俺もとうとう枯れたかな」
「よく言うわ」
 はっと息を漏らして笑いながら、山根はほつれた髪を耳にかけた。
「元々女が欲しくて抱いていたわけでもないでしょう」
 低い窓から見える景色は限られていたが、その中から興味の対象を見つけたように山根は窓の外にじっと視線を据えていた。毅然とした横顔
に、微笑よりも更に薄い笑みが浮かんでいた。
「あなたのそれは、代償行為だわ」
 心の中を見透かされるのは好きではない。しかしそれはあくまで相手を選ぶというだけで、こうして言い当てられるのは、バツの悪い思いはある
ものの、嫌な気分ではなかった。
「お前もな」
「そうね」
 山根は自分の中にある抑えられない衝動と、変えられない性質を既に受けれいている。それはいっそ潔く清々しいが、時に酷く痛ましい。多分山
根が時々桜内の元から離れるのは、そういった姿に痛みを感じる桜内の心情を慮っての事だろうと分かっていた。「男らしさ」などという時代遅れの
言葉を使うつもりはないが、しかしそういった山根の心根はそういっていいのかもしれないと思った。
「あなたはいつも明け透けなのに、時々すごく素直じゃないから。そういうところがいいのかも知れないけど、言葉の威力は時として相手を傷つける
けど、幸せにだってできるのよ?それとも負けるみたいで、いや?」
 視線を戻した山根の目は、探るように桜内の目の奥を深く照らす。その目から逃げようとは思わないが、座りが悪くて桜内は椅子の上で身じろぎ
した。
「・・・恋愛論を戦わせる気はないが」
「私だってないわよ。大体恋愛論なんてカビでも生えていそうなもの、持ってないわ」
 逃げたそうにしている桜内に笑って、山根は机の引き出しを勝手に開いて煙草を出した。それを手元にぽんっと投げてくる。
「それにしてもアレね。恋愛である自覚はあるわけね・・・」
 フフフと笑われて、桜内は思わず天を仰いだ。
「嫌な女だよ、お前は」
「世間では、それをいい女と言うのよ」
 火をつけた煙草を桜内の口から奪って、これ見よがしにふかして見せる。桜内は迷わず両手を上げて降伏を示して見せた。
 山根はそれにしてやったりと口元で笑ったが、しかしその目はやわらかく撓んでいる。
 山根がいったいどこまで知っているのか見当もつかない。しかし桜内が、そういった感情で見る相手がいることだけは分かっているようだった。だ
がこうしてやんわりと、首を絞めて白状を促されたところで、桜内本人もこの胸の内でモヤモヤとしているものの正体を把握しているわけではなかっ
た。
 大体どこから考えていいのかも分からない。

 今の状況か、自分の感情か、叶の言葉の意味か、叶の心情か。

 何よりも考えるべきは自分の感情であるべきなのに、中途半端にもたらされた他人の感情の塊に、戸惑っているのが正直な今の状態だ。 感情
と言葉をすり合わせる事で、出せる答えは確かにある。
 しかしそれが互いに後づけされた言い訳のように思えて、どうしても桜内は納得がいかなかった。
「とりあえず、他の女と寝ない理由でも考えてみれば?」
 そう言って山根は席を立った。行儀悪く膿盆に煙草を押し付け灰を散らしてから、肩にかけていた上着を脱いだ。
 そうして振り返った山根の顔は、突き放した物言いとは正反対の表情を浮かべ、幾分桜内を怖気つかせた。
 女をもの以上の存在と捉える事は滅多ない。しかし根本的な本来の意味合いでは、男女の差など関係ないのだと思わざる得ない。
 現に今こうして、桜内は一番に理解しているのは、女である山根以外の何者でもない。
 差別的な発言を平気で繰り返す桜内でさえも、山根の表情には黙らせるだけの崇高な何かがあった。
「老いらくの恋っていうのも、素敵なものよ」
 老いてない、という反論を聞く前に、山根はさっさと更衣室に引っ込んだ。





















  






叶さんは難しい!
けど、書きたくなっちゃうから、困る〜。