step to far . 1








 夜の闇の中で初めて気づいた事がたくさんある。
 ランプの光でぼんやりと浮かぶ目の穏やかさや、静けさを邪魔しない呟くようなやわらかい声。音をひそめて動く指や、今まで知らなかった自分
の中のやさしい感情に。







「へえ・・・すげぇな。こんなに部屋あんのか」
「おい、はぐれるなよ」
 もの珍しそうにキョロキョロと辺りを見回すゾロを振り返って釘を刺しながら、サンジは今しがた灯したばかりの煙草を燻らした。
 麦わら海賊団がこの船に乗り込んで、じき二年というところだ。クルーが増えメリー号の他、幾つかの船で船団を組みながら航海を繰り返してい
た矢先、嵐に巻き込まれメリー号が大破するという出来事が起こった。
 その後辛うじて回収できた羊のメリーを、海軍から奪ったガレオン船の船首にすえ付けたのがこの船だ。本来なら船体のバランスを考え、船首を
変える事を反対しても良かったのだが、そこが船長の特等席であることは皆承知していたし、ウソップにとっても特別である事は分かっていたか
ら、結局誰も異を唱える者はいなかった。
「そうか・・・あの船、ダメんなっちまったか」
 物に執着するタイプではないゾロも、流石に長い航海を共にしてきた船の最後を看取れなかったことに心が残ったのか、あちらこちらを彷徨ってい
た視線がはっきりと前に定められ、懐かしいむような色を少し浮かべていた。
「ほら、ここ」
 感傷的になってしまうゾロを、サンジは励ますように腕を引く。そうして立ち止まった先のドアを指して見せた。
「?」
 言われるままドアを押し開いた。中に入ると、そこは簡単な家具が設置された、一人用の部屋だった。
 左奥にベットが置かれ、右奥には小さな机。ベットの横には、銃の台座が壁に打ち付けてある。天井ではゆらゆらとランプが揺れていた。
「ここ、お前の部屋」
「・・・俺の?」
 部屋の中央でぐるりと見回していたゾロの背中に、サンジは戸口に寄りかかって話しかけた。
 弾かれたように振り返ったゾロは、驚いたように目を瞠っている。サンジはそれに悪戯の成功した子供の様に、無邪気に笑って目を輝かせた。
「最初、部屋の割り当てを決めた時にさ、どうせ戻ってくるだろうからって、空けておいたんだよ」
 ゆっくりと煙草を吸い込み、部屋の外へ吐く。ゾロはぱちくりと何度か瞬き、ついで困ったように眉を下げた。
「一人一部屋、行き渡ってるわけじゃねぇんだろ?」
「ああ」
「すし詰めになってる連中だって、いるだろう」
「そうだな」
「じゃあ、なんで」
 まるで当然の事のように答えるサンジに、ゾロは深まる困惑の分だけ眉を顰める。しかしサンジにしてみれば、それは至極当然の事だった。
 
 ゾロは、絶対にこの船に帰ってくる。
 今はちょっと留守にしているだけで、必ずゾロは帰ってくる。

 だからきちんと、ゾロを迎え入れる場所を作っておきたい。
 いつ帰って来ても、いいように。

 サンジがそう言い出した時、ルフィ達古参のクルーは何も言わず、笑って当然の如く同意した。或いはそれがサンジの気休めになればいいと思っ
たのかもしれない。しかし少なくともルフィはゾロが帰ってくると信じて疑わず、そうなれば他の誰が逆らえるはずもない。
 サンジはゾロのために割り当てられた部屋を整え、ベットの脇には銃の台座を改造し、きちんと刀を立てる場所を取り付けた。
 今から思えば馬鹿な話しだが、それをサンジは泣きながら全部一人で取り付けたのだ。
 あの時、心のどこかでゾロの帰還を疑っていた。もう二度と会うことさえ叶わないのかと思えば、勝手に涙は溢れ出た。その上ただ無心にゾロを
信じる事の出来るルフィに対する敗北感に、やりきれない思いで手を動かした。
 途中涙で手元が霞んで狂い、金槌で何度も指を叩いてしまい、フライパンを持つ手が震えたのは、後にも先にもあれきりだ。
 何よりも両手を守ると決めた時から、戦闘以下、料理以外に使ったことのなかった手だ。
 それ以来、この部屋を定期的に掃除していたのもサンジで、この部屋へ入る度、何度でもここにゾロがいない事実を見せつけられた。
 そうして慣れない痛みに苛まれながら、この部屋をこれからもずっと、たった一人で守り続けなければならないのかと、絶望したのが一ヶ月前。
 かもめがゾロの手紙を持ってくる、前の日の事だった。
 それが今はその部屋の中央に、ゾロが立っている。
 困惑しながらもベットのスプリングを楽しそうに試したり、ちょっと嬉しそうに刀を立てる器具の調子を見たりしている。
 サンジはまた性懲りもなく、自分の目に水の膜が薄く張りつめるのを自覚しつつ、下を向いた。
「俺達も皆それぞれ個室なんだよ。・・・・・・お前はこの船のクルーだ。部屋があって当たり前だろう。・・・まあ、ちっとばかり留守にしてたけどよ」
 最後に大きく吸い込んでから、ポケットから取り出した簡易灰皿で煙草を押し消し、パチンと閉じる。以前よりずっと喫煙量の増えたサンジは、大
分前からナミに携帯を義務づけられていた。
 そんな俯き加減のサンジの様子に、ゾロが気づき振り返る。
 そわそわと落ち着きのなかった目が、サンジを見て突然穏やかなものに変わった。ゾロは口元だけで微笑んでから足早に歩み寄り、そっとサン
ジを抱き寄せた。
「また泣いてんのかよ、お前」
 ぎゅうっと苦しいくらいに抱きしめられる。背中を覆う腕が暖かい。サンジは瞬き、その拍子に零れた雫はゾロのシャツの肩の辺りにすうっと吸い
込まれた。
「俺はここにいるし、もうどこへも行く気はねぇ。お前に泣かれると、俺ぁどうしていいかわかんねぇんだ」
 そう言って髪を梳き、あやすように頬のあたりにくちづけられる。そのままゾロの唇は、やわらかくサンジの涙を吸い取った。
「・・・泣いてなんか・・・」
 いない、と強がりを言おうにも、嗚咽に喉が詰まって上手く言葉は出てこない。鼻の奥が鋭く痛んで余計に涙が出た。どうにか止めようと思うの
に、鼻をすするのが精一杯だ。
「サンジよぅ・・・」
 泣くなよ、とゾロがあちこちにくちづけを落とす。手はやさしく背中を撫で、時折ポンポンと慰めるようにリズムをつけて叩かれた。
 そんな風にサンジは、ゾロと再会してから時々急に涙が出て困った。それは大抵ゾロと二人の時だったから、他の者に見られるような無様な事
はなかったが、それでもあまりの涙腺の緩さに自分で自分が恥かしい。しかしゾロはそんなサンジに呆れもせず、憚らず抱きしめて、根気よくこうし
てくれる。
 それが嬉しくて、余計に泣けてくるのは、ゾロには秘密だ。
「ごめんな」
「・・・別に謝る必要はねぇよ」
 額をゾロの肩に擦りつける。そんな甘えた仕種もゾロは黙って受け入れてくれるから、サンジは許されている事が嬉しくて、ぎゅうっとゾロにしが
みついた。

 ああ、本当にゾロがいる。

 空想の中で、この部屋にゾロが立つ姿を何度も思い描いた。
 時には楽しそうに、時には怒った顔で、時には恥かしそうに。
 そうしてこの部屋を一人で守りながら、しかし心のどこかで考えなくてはならない最悪のシナリオを思い描く事もあった。

 ゾロのいない未来。
 永遠にこの部屋が埋まる事はなく、抱え込んだ想いを墓場まで持っていく最後を。

 伝えられなかった言葉の数をなぞっては幾度も後悔し、その度に一人で泣いた。
 馬鹿みたいにゾロのことばかりを考えて、せめてもう一度会えるなら、想いが伝わらなくてもいいとさえ思った。

 けれど、すべての想像が出尽くした今、初めてゾロはサンジの目の前に立った。

 初めてこの部屋に主が戻ったのだ。

 長い年月で自虐の限りを尽くした思考は、たまにこうしてゾロを確かめ、埋められたその空白に歓喜し涙を流す。
 それはサンジでさえも知らぬ深く沈んだ意識のなせる業だった。
「お前がこんなに泣き虫だなんて、俺は知らなかったぜ」
 そんな風に揶揄するゾロの声は、どうしようもなくやわらかい。反論しようにも当たっているだけに何とも言えず、サンジはただ黙ってぐりぐりを額を
肩に擦りつけた。シャツ越しの暖かな体温が、泣きはらした目に心地よい。それを離したくなくて一層しがみつけば、やはりゾロは黙って抱きとめて
くれるのだった。
「なんかなぁ・・・お前、一人にしとくの心配だよ」
「・・・一人にするつもりかよ」
 鼻にかかった声で問うくぐもった声に、ゾロは笑ってサンジの首筋を撫でた。
「ばーか、違うよ。俺の部屋がここなら、お前も部屋があるんだろう?」
 ゾロの言葉にびっくりして顔を上げる。泣きっぱなしできっと酷い顔だろうに、ゾロは平素の表情のまま、それを笑ったりはしなかった。
「そ、それって・・・ゾロ」

 夜も一緒に、居てもいいって事?

 かあっとサンジは自分の顔が真っ赤になるのが分かった。
 もちろんサンジとて、それを考えなかったわけがない。
 今まで恋焦がれていた相手である。それゆえに相手の肌を直に感じたいと何度だって思ったし、出来れば今すぐにでもそうしたい。
 しかしサンジはその点でゾロと自分との間には、考え方に大きな落差があるのではと薄々感じていた。
 サンジとしては、素直にゾロを抱きたいと思う。
 どうしたって男としては、そう思うのが普通だろう。だが相手も同じ男である以上、安易にそれを承諾するとは思えない。
 第一ゾロがサンジ相手に、そこまで考えているのかどうかも甚だ疑問だ。
 ようやく気持ちを伝え、どうにか両想いにまでは持ち込んだ。 触れる事や抱き合う事、手を繋ぐことやくちづけに、確かにゾロを答えてくれたけれ
ど、しかしそれがイコール性欲にまですぐさま発展するかというと難しい。
 元々そういう方面に淡白な感のあるゾロに、そこまで求めるのはあまりにも性急な気がして、サンジはやむなくぐっと気持ちを堪えていたのだ。
 しかしゾロは動揺した素振りもなく、しれっとそんな事を平気で言う。
 サンジは赤くなった頬を横を向くことで前髪で誤魔化し、どうにか最速を競う様に鳴り響く心臓を戒めた。

 いや、いや、いや。ちょっと待て。ゾロはそんなつもりで言ったのでないのかもしれない。手を繋ぐ事の延長で、単に一つのベットで寝たり、色々な
話をしながら酒を飲もうと言ってるだけかもしれない。いや、そもそも一人なのが心配だと言っているだけで、ゾロがつきあうとは言っていないのだ。
折角港にいるのだから、女でも抱いて来いという意味かもしれない。
 ・・・・・・・・・・・・もしそうだったら、相当へこむ。
 
 サンジはそこまで考え、どうにか自虐で諌めた顔の赤みを抑えつつ前を向くと、不思議そうにこちらを見ているゾロと目が合った。
「あーと、その・・・。えーと・・・」
 何をどう告げていいのか見当もつかず、サンジは意味不明の唸りばかりを発してしまう。
 俺は馬鹿かと頭が痛くなり米神を摩ると、ゾロは心配そうに目を細めた。
「あ、あのな、ゾロ。俺はなんつーか、その・・・お前と違って達観してねーから、ほら、お前が居ると色々と・・・諦めがつかねェっつーか、あーなん
だ、我慢がきかねェっつーか・・・」
「?」
 なにやらもごもごと言い訳めいた事を懸命に言うサンジに、ゾロはますます訳が分からないといった風情だ。確かにその通りなのだが、しかしサ
ンジとしてもはっきりとここで「お前が居ると、抱きたくなるので一緒にはいられません」とは言い難い。
 そんな事を言って、もしゾロが「うわっ」という表情でもしようものなら、今すぐ船首から飛び降りる。だがそうかといって、うかうかと甘言に乗って健
全な一夜のスタートを切れば、簡単にゾロを裏切ってしまいそうで怖かった。もちろんゾロは最強を謳う剣士である。おめおめとサンジの思うままに
なるわけもない。が、嫌われるのは明白だ。そうなればやはりサンジとしては船首行きに変わりはない。
 サンジはいったいどう言い逃れればいいのかと、目は泳ぎ冷や汗が自然と背中を流れるのだった。
「・・・別に、都合が悪いならそう言えよ?」
 ハッキリしないサンジに、とうとうゾロが痺れを切らした。サンジは焦って振り返る。ゾロは困ったように笑っていた。
「俺がそうしたいってだけの話しだし・・・。お前が平気ならそれでいい。悪かった」
 お前をそんな風に困らせるつもりじゃなかった、なんてゾロが言う。ちょっと恥かしそうに、自嘲気味に。
 その目の寂しげな様子にサンジはゾロを傷つけてしまった事を容易に悟り、焦って離れようとしたゾロの腕を掴んで引き寄せた。
「ばっ!違うって!俺はお前が居るとっ」
「だから迷惑―――」
「抱きたくなっちまうんだよ!」
「・・・・・・・・・は?」
 俯いて呟いたゾロの言葉は、見事にサンジの告白にかき消された。
 ゾロを傷つけるくらいなら、自分が嫌われた方がナンボかましだ。サンジは胆をすえて開き直った。
「だから!俺はお前が傍に居たら、それだけじゃ済まねぇって話し!・・・俺はお前が欲しいんだよ。残らず、全部」
 最後の方は無理やり感情を抑えたせいで、低くかすれた。周りを憚ったという事もある。
 本当は誰もゾロに手を出すなと、大声で宣言したいくらいだったが、しかし流石にゾロの立場を思うとそこまで出来ず、サンジはふうっと息を吐い
た。
「俺はさ、そんな事ばっか、考えてんだよ。いつだってお前を独り占めしたいとか、傍から離れたくねぇとか。正直な話し、本当は部屋だって一緒に
したいくらいだよ」
「サンジ・・・」
 ゾロは驚いたように呟いて絶句した。
 やはりゾロはそこまで、考えてはいなかったようだ。サンジの横顔をまじまじと見ているのが当たる視線の強さで分かった。
「そんな俺が、あんたがいて迷惑だなんて、思うわけもないぜ・・・」
 あーあ、言っちまった、なんて付け足して溜息を吐く。ここまでウザい男だとは流石のゾロも思っていなかったに違いない。
 サンジは俯き、ゾロの体を解放した。そのまま一歩下がり戸口に背中をつける。きしっと戸板が高く鳴った。
「気持ち悪い事言ってごめん。でも、そうしねぇとあんた誤解したままだし。・・・・・・俺も、いいように勘違い―――」
 ぐいっと突然強い力で肩を掴まれ言葉が途切れた。驚いて顔を上げる。正面には少し怒ったようなゾロの顔があった。
 ああ、やはり怒らせた。嫌われた。
 それだけでまた泣きそうになって、サンジはいたたまれず胸が壊れそうになる。ここから逃げたい一心で体を捻ろうとした瞬間、一層強い力で肩
を捉まれた。
「ゾ――」
 サンジの体はあっという間にゾロの腕に巻き込まれ、気づけば深くくちづけられていた。
「――――っゾロ・・・?」
「今夜、ここで」
 突然体を突き放され、そのままトンッと部屋の外へ押し出される。
「ここで、待ってる」
 そのままパタンと静かに扉が閉められた。
 一瞬垣間見えたゾロの目は、戯言など許さない真剣さに満ちていた。
「ゾロ・・・・・・・・・」
 呟いたサンジの膝は、もはや体を支えるだけの力をなくし、そのままぺたんと尻餅をついていた。























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(03/05/20)

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