step to far . 2 「ゾーロ」 「・・・おう」 ピコッと船室から顔を出したナミが、ちょこちょこと近づいてくるのをゾロは柵にもたれて迎え入れる。ナミは嬉しそうにフフ、と笑いピタリとゾロの横 に張り付いた。 「どうした」 昔からナミはこうして時々ゾロにだけ甘えてくる。普段は人一倍気丈なナミが、そうして見せる可愛気な一面を、ゾロはいつも黙って当然の事の 様に受け入れた。 「なんでもなーい」 そう言いながらゾロの腕に自分の腕を絡め、左の手のひらを取って両手で挟み込んで指を絡めた。 島を包む秋の気候は、夕闇を過ぎれば海風を冷やし、触れる温もりの心地よさにゾロは目を細めた。 一人ずつ交代で、まるで申し合わせたように仲間たちがゾロの帰還を確かめに来る。 先ほどはウソップがゾロに新開発のログポーズを渡す道すがら、際限なく頭を撫でて行って辟易した所だ。チョッパーには全身くまなく健康診断を されている。五年前に負った傷の大半は既に癒えていたが、その凄惨さに涙を浮かべた船医の顔はまだ記憶に新しい。 一人一人がそうして正直に、ゾロの存在を確かにしようと懸命にしている姿をゾロは素直に嬉しく思った。 肩の辺りに額を擦りつけるナミの仕種が、まるで甘える猫のようで可愛らしい。それに小さく微笑み、ゾロはナミの髪をやさしく撫でた。 「船、大きくてびっくりした?」 今にも喉を鳴らしそうなほどうっとりとしているナミの言葉に、ゾロは一瞬サンジに何か聞いたのだろうかと思ったが、それならばもう少し違う気の 使い方が出来る女だ。ゾロは大きく息をつき、ああ、と返した。 「何時の間にかなぁ・・・仲間も増えちまって、これじゃぁ憶えるにも一苦労だぜ」 殊勝にぼやくゾロに、ナミは楽しそうにクスクスと笑った。 「憶えるつもり、あるんだ?」 「まーな」 これはたいした進歩だと思い、しかし元々ゾロとはこういう男だったかとナミは笑った。発した先から風に攫われる笑い声は甲板を渡り、それを耳 にした夕餉前の作業をするクルー達が幾人かこちらを振り返った。 ゾロにしてみれば人に懐く猫のようだが、他の者から見れば或いは仲の良い恋人くらいには見えるかもしれない。流石のゾロも見目をはばかりナ ミの頭を小突いたが、ナミは気にした様子もない。そればかりか珍しく「迷惑?」などと上目使いに聞いてくるので、ゾロは黙って首を横に振った。 「いーの!久しぶりなんだから、好きにさせてもらうわ」 昨晩からこっち、一対一で話す暇はなく、確かにきちんとこうして話すのは初めてだ。なんだかんだとサンジといる事が多かったのだと気づいて、 ゾロはナミに見られないようにそっと顔を赤らめた。 「ね、ゾロ」 「なんだ」 きちんと漏らさず返答を返すゾロに、ナミは心穏やかに目を閉じる。想像の中で何度か話しかけたゾロは、何も言わずただ笑っているだけだった。 それが今はこんなにも間近に温もりを感じ、言葉を交わすことが出来る。自分の予想の範疇を超えた問いかけを、ゾロという存在が可能にしてい た。 「サンジくんと、いっぱい話しした?」 昔よりもうんと差のついてしまった身長のせいで、寄り添えば互いの表情は見えず、ゾロは返答に困ってコンッと柵を指先で叩いた。 「・・・したよ。色々」 「色々?」 「ああ、色々」 どこまで話してよいものか迷いながら、いずれは分かる事だろうと思う。だが理解を求めるにはタイミングが肝要だ。ゾロは伝えあぐねて空を見上 げた。背後から迫る暗闇と、前方に薄っすらと残る残照までのグラデーションがうつくしく空を彩っている。その丁度真ん中に冴え冴えと少しだけ欠 けた月が浮かんでいた。 「・・・ずっと待ってたよ、サンジくん」 空に浮かぶ月の様に、ナミの声は風の中でも鮮明だった。 それだけで、ゾロにはすべて分かってしまった。 ナミは知っている。サンジがゾロをどう思っているのか。サンジが何をゾロに求めているのか。 知っているから、ナミはとても心を痛めていて、こうして窺うように聞いてくるのだ。サンジの想いの深さを理解し、果たしてそれがゾロに届くことが 可能かどうかを。 そうしてあたかも自分のことのようにサンジを、或いはゾロを慮るナミの情の深さに、ゾロは目元を和ませ微笑んだ。 「知ってる」 ゾロの言葉に何かを感じ取ったのか、ナミがゾロを振り仰いだ。太陽の残照が虹彩に弾かれゾロの目を射る。その輝きの強さにゾロは負けぬ想 いでゆっくりと笑みを深めた。 「・・・サンジくんの事、好き?」 唇が震えている。寒さのせいではないその戦慄きにゾロは胸を打たれ、思わず潤みそうになった目を細めた。 「ああ・・・。お前がルフィを想うように・・・好きだよ」 弾かれたように手をぎゅうっと握られる。間に撓んだ空気が逃れ、ひたりと合わさった体温は早い鼓動を伝えるように熱かった。 「本当に・・・?本当に?」 「ああ」 「そう・・・」 きゅうっとナミが目を瞑る。ついで現れた目は、いつもの気丈なそれに戻っていた。 「ルフィの事、知ってたんだ?」 「ずっと前からな」 「なーんだっ!」 あは、と笑って、ゾロの腕にぶら下がるようにナミが体を預ける。その軽やかさに胸が詰まり、強がるようにゾロはそっとナミの髪に頬を寄せた。 「ね、もう少しだけ、こうしててもいい?」 「・・・ああ、好きなだけ」 「ありがとう」 伸び上がって感謝のしるしを頬に残しながら、ナミは遥かから来る風の行方を見定めようと、追うように目を閉じた。 長い時を経て、ようやく触れる事の叶った手が、誰か一人のものになってしまうのはやはり寂しい。 遠い昔に初めて感じた幼い気持ちは、今ではもう懐かしいものでしかないけれど、それは確かにナミの心の奥にあり、暖かな陽だまりとなってい つまでも胸を優しく暖めた。 そうしてその愛しい気持ちをくれたゾロが、いつまでも幸せであればいいと思う。 「ゾロ」 「なんだ」 潮でかすれたゾロの声を、ナミはとても好きだと思う。ルフィの様な公明正大なものではなく、ウソップのような軽やかな柔らかさでもなく、サンジ のような労わりに溢れた甘い声ではないけれど、ただ正面からしっかりと相手を受け止めようとする、誠実なその声がとても好きだとナミは思う。 まるで、海そのもののように深くて潔いその声が。 「大好きよ」 「・・・・・・ああ」 ぎゅうと顔を見られないよう、しがみついた腕に額を押し付ける。前髪がくしゃくしゃになっても、かまわなかった。 「もう、どこにも行かないで・・・っ」 「ああ」 突然、涙がどっと溢れた。 一度堰を切った流れは止まらず、忽ち頬を伝い床に雫を落として幾つかの跡を作った。 相槌をうつゾロは、もう昔のゾロではなかった。 あの頃の無鉄砲な放埓さは、思慮深い寛容さへと姿を変え、相手を受け止めるだけの器が、ゾロの中でもう既に整っているのだとナミには分かっ た。 だからゾロは帰ってきたのかもしれない。 不意にナミは思った。 そしてそれは多分、当たっているのだと思う。 ゾロがずっと迷っていたのは、道だけではなかったという事だ。 この船を迎えに来させるのならば、もっと早くにそうする事も出来たはずなのだから。 堪えもせず嗚咽を漏らし、息を詰まらせるナミの背中をゾロはただ黙って引き寄せ、両腕でそっと抱きしめた。 こめかみに触れるゾロの暖かな体温に目を閉じると、溢れた涙が大粒となって頬を滑った。 大切な人。 大好きな人。 片恋にさえならなかった未熟な憧れは、いつしか昇華され、何よりも強い絆となった。 ゆっくりと背中を撫で、時折ほつれた髪を梳く大きくて節の太い手に、ナミは深く満たされる。 どうかこの人が、いつまでも幸せでありますように。 いつまでも彼らが、共にいられますように。 そして、いつもでも笑っていられますように。 数多の感情を受け入れるために戻ってきたゾロに、それを後悔させる事にだけはならないようにと切に願う。 長い旅から戻った大切な仲間が、思いのままに生きられますように、と。 充足と安堵の波に揺られながら、ナミはそっとゾロの体に腕を回し、今だけは自分のためにあるその背中にぎゅうとしがみついた。 |